日の想い
幸花



 今年

大学生活を振り返ってみると、大学生活で1年目は沢山の人との出会い
2年目はオーケストラの創設、3年目は人の繋がりが限りなく相互作用するようになり
そして今年4年目はそれらを見つめなおすことで、発展させたような印象である。

沢山の人と一緒に楽しい経験を積むことで、4年前には想像もつかなかったぐらい、
疎外や孤独を感じることがなくなった。
それを感じていたのは自分の態度の所為だと感じるようになった。
そうやって、大昔のことは悪循環に陥っていたからだ、と思えるようになったことは
この4年の大学生活の中で最も大きな収穫である。


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恐らく、いや必ず明日以降になると振り返る余裕もないと思ったので
クリスマスも過ぎたし、今年1年感じたことなどを。

世間では特番などで重大ニュースなどを取上げる中、個人的重大ニュースはただ2つ。
1つめは就職活動で2つめはオーケストラ大会である。

就職活動は、自分の長所と短所が世間からどう見られるのかをひしひしと感じた。
最も効率よく人と会話するためには、相手の問うことに対してよく耳を傾け
短く的確に答えを告げる必要がある、ということも学んだ。
社会が学校とは違うコミュニティーで形成されていることを改めて知ると同時に
そういった企業などの営利団体の視点から世間を垣間る貴重な体験だった。

不況の真っ只中で企業の採用も氷点下の中、
企業が求める学生のタイプはだいたいが同じようなものである。

あとは会社が自分にあうかあわないか、価値観の問題だから
そういう縁のある所を見つけることができれば、大方内定がでるように思われる。
ただ、世の中に数万社もある中でそれを見つけだし、
競争相手を蹴倒し、相手に自分を認めてもらうには
窓口の狭さ故、かなりの精神力と体力を要する。 ということだ。

そして第18回全日本オーケストラ大会。
まだ終ってから日が浅い所為か強烈な印象を残している。
就活を終えたというのに、まだこんなにも目から落ちるべき鱗があるのかと思われたほどだ。
学校のゼミなどで学外のセミナーなどに参加したり、内定者などと話して
他大学とのコミュニケーションをとっているつもりでいたが、
その実いかに女子大という井の中の蛙だったかを感じた。

一緒に演奏するという共通の目的のもと、地域も学校もばらばらな人が限定期間で集う。
一緒にいる時間が短くても共通項が明確だから交流内容が濃いし、お互いにいい刺激を受ける。

3歳の頃からピアノをやらせた母と、中学の頃にチェロに引き込んでくれた先輩。
双方にありがとうといいたい。 音楽をやっていて、良かった。
明日はその忘年会で、年が明けて2月にはオケ大会の16・17・18回の人達で
沖縄同窓会が開かれようとしており、私はそれに参加しようとしている。

今年度が過ぎれば、初めて社会に出て働くことになるけれども、
サイトのことはともかくとして細々と、でもずっとチェロを続けていこうと思う。

2003年12月25日(木)



 クリスマス

一応人様の誕生日を祝う日ではあるが、あまりそういう意識を持つことはない。

今までずっとキリスト教の学校に通っていたので、
毎年半ば強制的にイベントに関わることが多かった。
そこを通じて得た雑学を書き留めておこうと思って、
暫くクリスマスにまつわることを書いていく。
あくまでも個人的な雑学に過ぎないことを、あらかじめ断っておきたい。
なにかの興味の足しになれば幸いである。


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クリスマスだから教会へ行ってみる、という人もいるのではないだろうか。
しかし同じキリスト教といっても、カトリックとプロテスタントといった
差まで気にして教会を選ぶことまでは考えないかもしれない。

たまたま幼稚園-高校までをカトリック、大学がプロテスタントと両方経験したが、
歴史で習う以上に同じ十字架を掲げながら違いがある。
既に教会の呼び方からして異なる。
カトリックの教会は、聖堂・お御堂、と言い
プロテスタントの教会は、礼拝堂・チャペル、などと言われる。
今だ何故呼び方が違うかはよく分からない。

中に入ると更に明確に判断できる。
カトリックはマリア像などの十字架以外の像などの装飾品が多いが
プロテスタントはシンプルな十字架のみである。
呼び名よりもこの理由は簡単である。
かの有名なルターが偶像崇拝を否定して成り立ったのがプロテスタントだからだ。
ノートル・ダム(私たちの母=マリア)という聖堂があるほど有名な
いわゆる聖母マリア崇拝や聖家族(マリアとその夫ヨセフとその子イエズス)
崇拝といったものを廃したわけである。

つまりカトリックにはそういった像があるわけだが、
更に一番前の祭壇の後ろあたりに小さな箱とそのわきに赤いランプがあれば
それはまさしくカトリックである。
この小さな箱には聖体拝領というものに使う聖体(いわゆる種無しパン)が
収められていて、それを示すためランプである。
…実はスイッチ1つでつけたり消せたりするなんて話は知らない方がよいだろうが。

また蛇足ながら、聖体を貰うためには信者でかつ初聖体なる儀式をうけねばならないが
聖体がえびせんに似た代物なので、ありがたいといえばそうなのだが、
間違っても腹の足しにはならない。

さて、外観の違いについて書いたわけであるが、成り立ちが違えば式の執り行い具合も異なる。

まずは行う人について。
カトリックだと、神父と呼ばれる存在はプロテスタントだと牧師となる。
牧師は女性でも可能だし、結婚しても良し。
カトリックは神「父」というように、男性だけである。ご存知のように結婚は不可。
しかも教皇―枢機卿―司教―神父という完全なるヒエラルキーで
イエズス会・ドンボスコ会・ドミニコ会etc..と会山のようにあって
更には国ごとに教区が指定され管理されている。
結果、会社のごとく国境を問わず転勤があったりもする。
給料がどこからどれほど出るかなどは…流石に知らないが。

式の執り行い具合は、カトリックだとミサ、プロテスタントだと礼拝。
カトリックには目的ごとに定められた形があり大抵1時間ほど掛かるが
プロテスタントの場合、始めに歌い、聖書の個所をきき、お説教をきき、
歌って終了なのでお説教さえ長引かなければ割合短く済む。
ミサ・礼拝のお説教大まかな印象からすると
プロテスタントが聖書などを理論的によみとり学ぼうとする意欲を感じるのに対し
カトリックが儀式にのっとることで神聖さを経験しようとしているように感じる。
いずれも聖典が新約聖書(イエズスが生まれる頃、BCからの内容)だと言うのに
読み取りかたによってこんなにも差があるのか、といったところである。


新約とは、モーセが十戒を通して神と契約した旧約をベースに
イエズスが十字架を介して新しく神との契約をした、ということである。
旧約聖書はユダヤ教の聖典であり(つまりイエズスは神の子ではないとするスタンス)、
しかもイスラム教(だからマホメットの前にガブリエルも出てくる)の元にもなっていたりする。
現在の世界状況を考えれば歴史の皮肉と言うべきだろうか。

2003年12月08日(月)
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