日記でもなく、手紙でもなく
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2001年12月31日(月) 大晦日、鎌倉

 2001年最後の日。
 晴れた空を見上げていると、急に今日鎌倉まで行こうと思い立ち、午後から出かけることにする。

 東京から横須賀線には乗らず、東海道線で大船まで行き、そこから横須賀線に乗るのが、最近はほとんど。
 大船からあまり待つことなく久里浜行きに乗り込む。

 お正月よりはぐんと人が少ないだろうと思っていた。確かに少ないことは少ないが、それでも小町通あたりの人の流れは決して少なくない。
 渋谷なみかと言われると、雰囲気が違うのでなんとも言えないものの、人とぶつからないで歩くというのも、なかなか難しいくらいの人出。
 同じようなことを考えて出てきている人が多いのかなどとも思ったり−−。

 午後から出かけると、鎌倉に着くのが3時過ぎになってしまうが、だいたい2時間ほどぶらぶらして、蕎麦屋に入る感じなので、大晦日ということもあり、十分時間があるだろうと思っていた。
 しかし、4時半過ぎると、空気がかなり冷たくなってきて、かなり着こんで歩いているので少し汗ばむくらいなのだが、顔だけはやたら冷たくなってきて、これが結構こたえる。

 鎌倉宮のほうまでぶらぶら歩いていく。さすがにこの境内はひっそりしている。元旦になるまで、社務所も開かない、という気配。
 少し鎌倉駅に戻ったところにある荏柄神社に至っては、門すら閉まったまま。深夜0時前後に再び開門するようだった。

 なかむら庵の蕎麦屋も、本日は持ち帰りのみという札が出ていて入れないので、鎌倉駅に少し寄ったところに新しくできた(参道沿いには本店がある)創作蕎麦の店に入って少し豪華な蕎麦を食べてしまう。
 ただ、豪華といっても、少し高級素材をちりばめ、それに別籠に天ぷらがついた内容で、蕎麦でここまでする必要はあまり感じられなかったのも事実。

 蕎麦はやはり<もり>か<ざる>、それに天ぷらをつけてもらうというのが一番のような気がする。

 更に、横浜中華街へ寄って、中国茶を50g買って帰る。
 今まで通沿いにあったところだが、角に新しい店ができ、台湾と中国本土両方のお茶が置かれている。2Fは喫茶で、おいしいお茶もそこで飲める形。

 とりわけ値段が高いのは、<20g!>3000円の大紅袍、いわゆる岩茶の最高峰に近いもの。100gだと\15,000也!
 おいしいかもしれないが、これはちと贅沢に過ぎる。

 それほど高くはないものの、さほど安くもない文山包種茶・超特級を、2日に知人に会うのでそのおみやげ代わりに50gだけ買って帰る。


2001年12月26日(水) リベルタ・ラマルケの<マリア・ラ・オ>

 22日の夜、渋谷のタワーへ寄った折、(アルゼンチン出身の)リベルタ・ラマルケの2枚組編集盤(全50曲)を入手。

 ラマルケの盤は、タンゴのアルバムは既にいろいろな形で再発され、それはそれで悪くはないものの、ボレロ系の曲を歌ったものが意外に良くて、録音状態の良いものが出てこないかと思っていたところだった。
 この2枚組の収録曲を見ると、少しはボレロ系の曲も入っていそうに見えたものの、曲目だけからはタンゴ以外の曲がどの程度入っているかまでは、よくわからなかった。

 夜、このリベルタ・ラマルケの盤を聴く。
 やはりタンゴ歌いということから、アルゼンチンのタンゴやヴァルスなどが比較的多いものの、米国盤ということから、古いラテンの曲も入っていたり、米国のスタンダードも入っていたりする。

 気になっていた音に関しては、ごく僅かにSP音源からのパチパチいう音の中に音楽が聞こえるものもある。
 古い録音とステレオ時代以降のものなど、確かにばらばらではあるが、パチパチいうようなものは1、2あったような感じで、大半は気にならない。以前、同じ米RCA盤で出ていたものなどよりも、全体としてクリアな感じがする。

 じっくり聞いている中で、ラテンの古い<マリア・ラ・オ>を歌っているトラックがあり、コーラス部分でかなり長いフレーズを滑らかに一息で歌うと、とてもこの曲がチャーミングに聞こえてくることがよくわかった。
 今までさほど好きな曲というわけではなかったのでとても意外だった。
タンゴだと、アクセントを強調する部分も多いので、リベルタのこのような歌い方にもさほど気がつかないでいたようだ。


2001年12月24日(月) クリスマス・イブ

 用事があったので、遅く有楽町まで出る。
 クリスマス・イブということもあり、有楽町〜銀座方面は、かなりの人の賑わい。

 これくらい人が出ているのを見ると、決して家で家族とクリスマスを過ごしている、というような感じはあまりない。もちろん、歩いている人々は、比較的若いカップルが多いものの、かなりの年配のカップル、母親と娘、夫婦と子供連れなどもそこそこ目にする。
 ある意味で、それだけいろいろな人が出てきている、ということでもあるのだけれど。

 帰りは、仕事をしている時よりも遅くなり、上野までタクシーに乗る。時間も時間ということもあってか、クルマは比較的少ない感じで、あっという間に上野へ着き、一番早く家に近い駅に着く電車のホームへ足を運ぶ。
 これが、決して空いていない。やはり人が多かったことをここでも実感する。

 家に帰ってから一番遅いTVのニュースを見ていたら、丸の内でミレナリオ点灯初日という。ひょっとしたら、これを見に行っていた人も帰りの電車の中にそこそこいたに違いない、というようにも。


2001年12月23日(日) New VTR

 夜、TVの周囲を片付けて、新しいVTRの設置作業をする。設置作業といっても、ケーブルや電源をつなぎかえるだけなのだが、ケーブルTVの機器が一つだけ余分にあるため、またケーブルTVからも留守録などができるようにしているため、配線が少しだけ面倒な感じがしていた。

 新しいケーブルを使うと余計な手間がかかるため、配線をなるべく機器側にたぐりよせ、そのケーブルをそのまま使い、新しいVTRに接続することで、時間的にはかなり短縮できた。
 VTRのチューナーの画像とTV側のチューナーの画像、ケーブルTVの画像、全て同じチャンネルで切り替えながら、画質がほぼ同等であることを確認。

 予定よりかなり早く終了。
 年末年始のタイムテーブルが掲載されている雑誌を見ながら、どの程度録画しておくものがありそうかをチェックすると、これっ!というのがさほどない。ガクッ。

 機器の入れ換えで埃を吸ったので、いい空気を吸いに外へ出るとかなりの冷え込み。昼間はかなり暖かかったのだが。
 クルマが急に少なくなったことも影響しているかもしれない。


2001年12月21日(金) 名人茶


 去年の末に、お歳暮に<名人茶>なるものを送ってあげた人がいた。秋にその人に会った時、ちょうどそのお茶の話が出た。名前が名前だけに、少し気になっていたところもある。名前負けしているものも、結構多い世の中だ。

 去年送ってもらったお茶、あれは確かに全然違う――、というところから話が始まり、書いてあるとおりに入れたら、普通のお茶と違って、さすが<名人茶>だった、というところに無事落ちた。

 では今年もそれを送ろうかと思って、先週去年送ったと思っていた銀座松屋地下まで行くと、そのコーナーが見つからない。あの時だけの店だったのか、それとも店が変わってしまったのか、などとも。
 ただ、もう一度くらいは、再確認しておこうという気になったのが今日。

 何のことはない、前と同じ場所に、そのお茶は置かれていた。
 記憶に刻まれていた印象では、大きく名人茶と書かれていた気がしていたが、今回パッケージを見ると、デザインが少し変わっているようで、以前より大人しくなっているようにも見える。

 もう一つは、実際に飲んで感銘したという人が、そのお茶のことを、狭山茶だと思っていたこと。そんなこともあり、先週探す時に、狭山茶と思いながら見ていて、狭山・名人茶というのを必死になって見つけようとしていた気がする。
 変な思い込みがあると、そこに置かれていても気がつかないで見過ごしてしまっていたようだ。

 お歳暮として送ってもらうため、住所を書き込んでいた時に、店頭で実際に淹れてもらった名人茶、とりあえず一口。
 甘みを感じる苦さが心地よい。温度は少し低目で淹れる感じ。

 聞いてみると、三重のほうのお茶で、持ち帰り用アルミパック包装のものもあるという。家にはそれを買って帰ることにする。煎茶で100g3000円のお茶。決して安くはない。
 おいしいお茶は確かに高いが、高いお茶が必ずおいしいとは限らない。
 このお茶なら、まずくはないので、100g3000円と思って飲めば、一層おいしいかもしれない。ただ、3000円の価値がどの程度あるかどうか、というところまでは本当のところよくわかってはいないが。


2001年12月17日(月) 斜塔復興


 ピサの斜塔の最上階から、再び景色が眺められるようになった、という記事が出ていた。

 1173年に起工し、1350年に完成。途中で傾いて、何度も中断し、完成後も傾きの度合いがひどくなったという。
 ただ、1990年まではなんとか持ちこたえていた。観光客が斜塔を上って行けた。
 しかしついに、90年の1月、傾斜が危険な水準に達して、立ち入れなくなってしまった。

 ちょうど12年弱の補強工事も、イタリア的な時間のかけかただと思うが、土台部分を固めて傾きが40cmほど小さくなり、関係者の話では、今後400年間は大丈夫――ということらしい。

 ただ、行けばすぐに上れる、2時間でもそこにいられるということではなくて、30人ずつ、40分間の見学コースとして設定されているとのこと。
 それでも、高いところというのは、そこまで行ったならやはり一番上まで上がってみたいのは人情だ。

 次の400年、世界はどのように変わっていき、ピサの斜塔はどれだけ変わらない風景を見せつづけてくれるのだろうか。


2001年12月16日(日) バグ−ス

 渋谷のBunkamura、ザ・ミュージアムへ行った後、新型マンガ&ネット喫茶<バグ−ス>の看板が道に出ていました。マンガも自由に読めるだけではなくて、インターネットも楽しめ、しかもフリードリンク。
 ひょっとしたら混んでいるかと思いながら、ネットができる席が空いていれば、寄ってみようかという気になりました。

 SEGAのアミューズメント・スペースのビルの上の階に入っているのですが、行ってみるとネットがすぐ使える席が空いていました。ペアシートを狙っている人は、少し入口のところで待っている感じでした。
 喫煙席・禁煙席がそれぞれ用意されています。

 飲み物はセルフサービスで、一般的なメニューはだいたい揃っているようですし、本日のおすすめとしては、フレッシュ・アップルジュースすら置かれていました。

 席についたところで、入口の画面で注意事項などが書かれており、それをOKすると、一般的なポータルサイトにすぐ繋がるように、メニューが用意されています。従って、Webメールを見たり、サイトを検索する分にはほとんど困りません。ただ、この手の店に入るのなら、自分用のブックマークのファイルだけ、フロッピィで持ち歩くとか、Webメール上に添付ファイルとして、ブックマーク・ファイルだけでも置いておくと、結構便利そうな気がしました。

 一人分のスペースは、PCを見ているだけ、あるいは思いつくままにテキスト入力などをやっている限り、さほど狭い感じはしません。ただ、デスク部分は、ほとんどそれだけのスペースですから、そこで資料を広げて作業をする、というようなことだと少し辛そうでした。
 私の隣に座っていた大学生と思しき男性は、画面上でエクセル(!)を広げて、データを入力していました。紙の資料を手に持って、入力していましたので、ちょっと面倒そうな感じではありました。

 しかし、会社でインターネットを使っているよりは、ここでネットをやっていたほうが、画面の切り替わり方が3〜4割は速い感じがして、比較的ストレスはありません。ちょっとした日記なども書き込んだりしていましたので、あっという間に2時間以上そこで時間を過ごしました。
 飲み物も3杯飲んで、出るときに精算すると、1100円ちょっとでした。銀座の喫茶店で、時間つぶしのために入って、コーヒー1杯千円とられることから考えると、高いとは決して思えません。1時間程度でしたら500円程度で済みます。

 新宿にもあるようですが、これなら結構人が入るのもわかります。店内も思ったより静かでしたし。


2001年12月15日(土) クリスマス近づいて


 来週の週末3連休は、まさにクリスマス休みに近く、いろいろな飲食店の席を確保するのも大変だし、クリスマス・メニューで高くなるし、ということで、1週間早いクリスマス。

 普段以上に待ち合わせの人が多い恵比寿で落ち合って、広尾のヴィア・アクア・サンタへ。

 店の入口には、普段は見かけない高さ80cmほどの焼き物のサンタが置かれている。席へ案内されて、その後30分経たない間にほぼ満席状態。この店で、しかも土曜日でこれだけ混んでいるというのは、クリスマスに近づいているからか。

 11時過ぎに家の近くまで辿り着くと、わが家の3軒隣にある家の入口に置かれたクリスマスツリーと、その門扉の部分全てに亙って、クリスマス用の豆電球が多数点滅していて、<うちはクリスマスです>と主張している。
 道路沿いなので、見てもらおうとしているらしい。


2001年12月14日(金) ディットリヒの楽譜

 俳優・根上淳氏が、彼のおじいさんにあたる人のことを、今日の日経の文化面にエッセイとして記していたのが、とても面白く読めた。

 そのおじいさんであるルドルフ・ディットリヒは、ウィーンの音楽学校で、ヘルメスベルガーという人(はよく知らないが)と、なんと(!)ブルックナーに師事した人。
 当時、日本政府の要請により設立間もない東京音楽学校(現・東京芸大)で、週26時間の授業を行っていた、いわゆるお雇い外国人教師であったということも書かれていた。

 特に面白かったのは、今年、そのおじいさんであるディットリッヒの日本のわらべ歌などを編曲した楽譜が見つかり、他のお雇い外国人の曲とともにCD化されたということだ。
 ブルックナーの弟子らしく重厚な和音とともに日本のわらべ歌などを聞いてみるのは面白そうだ。

 ディットリヒの楽譜は、当時様々な言語に翻訳されて、プッチーニが蝶々夫人を作曲した時にもそれを引用したともされている。
 
 まさに、遠くかすかに聞こえてくるようなピアノの旋律。



2001年12月12日(水) 冬のスイカ

 新しいJRの定期券を購入する。
 定期券の自動販売機に古いカードを差し込んで、購入期間に触れると、新しいカードが出てくるのだが、既に旧来型の磁気カードと、IC(SUICAスイカ)カードの選択ができるようになっている。

 SUICAカードだと、カードホルダーから定期券を取り出して、改札機にカードを通さなくても済むので、(ホルダーに入れたまま、ワンタッチさせればよいだけなので)他に使っている人を見ていると、いかにも便利そうな感じがしていた。

 で、迷わずSUICAを選ぶと、デポジットとして500円余分に取られる。

 ICカードなので、クレジットカードくらいの厚みがある。
 大げさな感じがしたが、そのカードに1000円とか3000円とかチャージができ、乗り越しの場合、チャージされていると、乗り越し精算を出口の手前で別途しなくても、改札機を出る段階で(チャージされた金額から)自動的に差し引かれるということも後で知る。

 話だけだと、これについても確かに便利そうな感じもする。
 定期券とIOカードなどを別々に持っているより使い勝手は良くなるのは事実だろう。

 ところで、SUICAというのは、Super Urban Intelligent CArdという単語の頭を並べたもの。
 ペンギンとスイカ・カードの組み合わせのポスターを、実験時によく見かけたが、なぜスイカなのか、全く知らずにいて、今回やっとわかったりする。


2001年12月09日(日) 行けなかった展覧会


 東京大学総合研究博物館で、今日まで開催されていた<真贋のはざま/贋作捏造からデュシャンまで>展ですが、結局ここまで開館時間内に辿り着けず、行くのを諦めてしまいました。

 新聞記事などでも取り上げられ、「コピーや贋物の意味と効用を再検討するとともに、オリジナル(真)の概念の曖昧さを問う」というような内容でした。ある意味で、普通の美術展ですと、そのバックヤードの作業にあたる領域。それをテーマ化した展覧会とでもいうべき内容です。
 ただ、そこに積極的な意味を見つけようとしているところに、一番大きな価値があるのではないか、とも思っていたのですが。

 東大には何回か以前行ったことはありましたが、総合研究博物館なるものがあったことは、この展覧会が開かれるということで、初めてその存在を知りました。

 ただこの展覧会、夕方の4時までなのです。家でうだうだしていたり、ここへ向かうにあたって、途中のターミナルなどでうろうろしていると、土日の休みの日なんかですと、会場に着くのがこの時刻くらいになってしまいかねません。
 昨日も、行こうかと思いながら、電車に乗ったときは、本郷三丁目の駅に着くと、4時を回ってしまうことに気がついて、途中で止めたのですが、今日も結局時間の余裕ができなくて、行けずに終わってしまいました。
 
 もっと遠いところの展覧会で、どうしても行くぞと、心に決めていくのであれば、(戻ってくるのにも時間がかかることを想定しながら)結構早目に家を出て、余裕をもって出かけるのですが、意外に街中の大学内ということになると、この午後4時という時刻、なかなか曲者です。

 普通の美術展ですと、早くて午後4時30分までに入れば、間に合う時刻ですので、この30分、私にとっては魔の30分であったように思いました。
 特に12月、この時期は、心してかからないと、余計なことで時間をくってしまいかねません。



2001年12月07日(金) 年末、心寒い風も吹く


 冬の晴れ間、という感じの日。空気はやや冷たい。
 銀座通りは、12月の初めから、街灯の部分に国旗が掲げられているし、みゆき通りのほうは11月末くらいから2002という数字が点灯した旗が下がっている。
 夕方から夜にかけてこの通りをあるくと、なかなかきれいに見えるし、気分的に、少しでも明るくしようとしているような雰囲気が感じられないこともない。

 ただし、見る人の目によっては、むしろ空虚に映るかもしれない。
 ゼネコンの青木建設の倒産に関連して、WBSを見ていたら、構造改革が一歩進んだことになる、というような話が出てきていた。
 要はそのような負債の多い企業の手形が落ちなくなって、会社更生法や民事再生法を申請するような事態がどんどん増えると、日本の経済が評価される、という仕組みになっているらしい。

 なかなか空虚な感じがしないでもないのだが、これこそまさにバブルのツケを今払わされていることなのだろう。

 今年の年末、さほど冷たい風が吹きまくる日はまだないが、ココロに冷たい風が吹きすさぶ人が、まだこれから増えそうな気もする。


2001年12月06日(木) 曇り空


 朝のうち雨。昼前には止むが、曇り空のまま。

 少し遅めに知人とソニー・ビルで待ち合わせをして、泰明小学校の前にある店で食事をする。
 ガラス張りのこの店の中から小学校を眺めると、なかなか趣のある感じに見えてしまう。

 もう少し経つと、昼ではなくて、夜にでもゆっくり食事ができるのだけど、というような話含め、あれやこれや、いつの間にか時間が経ってしまう。
 
 傘を持って出たが、そのままの空模様。


2001年12月05日(水) 2人に1人しか、予防接種していないもの、なあに?


 はしか(麻疹)の予防接種率は、日本全国民の80%程度だという数字がある、らしい。新聞の記事にそのへんのところが取り上げられていた。
 はて、こんなものかいな? という感じ。

 実は、はしかに感染する人が、近年は年間10万人程度にも達すること、しかも重症患者の発生が、都市部の20代の層で増えつつあるということだ。ほう。
 かつては、子供の時に予防接種を受けていたものの、副作用を恐れる風潮が高まり、一歳児の予防接種率が2人に1人くらいにまで低下しているともいう。

 はしかの予防接種率と、感染者の数がこんなになっているとは全く知らなかった。これでは、へたをすると、はしかがインフルエンザのように蔓延してしまうことすらおこり得る数字だ。
 予防接種していないのであれば、それこそ麻疹にかかればダウンする−−のは目に見えている。

 推定値ではあるが、はしかで年間80〜100人が亡くなっているともいう。
 全く馬鹿にできない数字だ。しかも、突然蔓延してしまうと、この数字ではとても収まらないような気もする。

 <はしか、猛威>などという見出しの記事など、あまりお目にかかりたくはないのだが。


2001年12月02日(日) 日野から富士美術館まで


 多摩のほうに住んでいる友人と、富士美術館でやっている美術展を見に行こうか、というような話を11月の中旬くらいにしていて、もし土日で展覧会が終了する前の早いほうがよければ、2日の日曜日だったら都合がつく、そういう連絡をもらっていました。
 先週の頭に、では2日に一緒に行こうという話になり、国立か日野あたりまで出てくれば、車で行くのでそこで拾っていくから、というコトバに甘えることにしました。

 地図で道路を調べてみると、やはり富士美術館までは、八王子まで出て、そこから向かっていくコースが一番わかりやすいので、日野で落ち合うことにしました。

 家から日野までは、武蔵野線に乗ってしまえば、さほど時間がかかるわけではありません。西国分寺から3つ目が日野です。
一つ先の、豊田に2年ほど住んでいたことがありますので、日野はおなじみのところです。

 13時に駅前で落ち合い、甲州街道(20号線)を八王子までまっすぐ行きます。八王子駅前の横山町あたりは古い商店街ですが、そこを抜け、東海銀行のところで右折。
 ここから16号線です。橋を越えると1車線になり、谷野街道へ入るところにあるシズラーで昼食。値段と味を考えると、隣のロイヤルホストのほうが安い分よかったという話をしていると、谷野町交差点へ。

 富士美術館はすぐ目の前ですが、やたらタクシーが列をなして待っています。
 ちょうど日曜日で、(創価大学や、創価学会の記念館などでも)様々なイベントが行われていて、この辺鄙な美術館もかなりの人で賑わっていると同時に、パーキングエリアも満杯。
 どうしようか、ぐるぐると同じところを何度も回ったあげく、少し離れた創価大学の合宿所近くの駐車場に小さい車なら一台くらいとめておいても大丈夫なところを発見しました。やれやれ。

 新世紀橋というのを渡って、創価大学の項内に入ると、建物の印象が、数年前中国の北京や上海で見たような感じの建物と同じような雰囲気をもっているのに気付きます。柄が大きいというのもあるのですが。
 坂を下っていく感じで、美術館までは道路沿いに行くよりも、かなり近道になりました。

 帰りはのぼり道。美術館内の人の多さと、こののぼり道をやってきて、車まで着くと疲れてしまった感じがします。帰りは同じコースで日野駅を通過し、甲州街道から川越街道を右へ折れ、京王線の高幡不動の駅で降ろしてもらうことにしました。
 ちょうど5時半。少し長い一日になりました。

 新宿駅で、少し風に吹かれたいと思い外へ出たら、木枯らしのような風を少し感じました。


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