日記でもなく、手紙でもなく
DiaryINDEXpastwill


2001年10月30日(火) 再点灯


 上野駅正面を出たところ、道路を渡った反対側にO1O1があり、この屋上あたりに時刻と温度が数秒ずつ交互に表示される電光掲示板がついています。
 ちょうど朝の出勤時、上野駅の改札を出て、ちょっと一服するときに、この電光掲示板が目に入ります。寝ぼけて腕時計をしないまま出てきた日に時刻を確認したり、冬の寒い日とか、朝から暑い日など、ちょっと温度を確認してみるのに、ちょうど良い位置にあって、朝は何気なくそれを見上げるのが習慣のようになってしまいました。

 ところが、このところずっとこの電光掲示板が灯っていませんでした。構造不況で、O1O1も電気代節約に入ったかとばかり思っていました。一日中灯っているわけだから、やはりそこそこコストがかかるのだろうか、とも。
  時刻はともかくとして、温度が表示されているというのは、朝のボーっとしている時に、なかなか悪くない、などと思っていただけに、少しだけですが寂しい思いもありました。

 ところが、今朝気がつくと点灯していていました。
 これで、冬場も朝の温度がここで確認できます。


2001年10月28日(日) 早稲田エリアの再開発?


 午前中所要のため、高田馬場〜早稲田のほうまで行ってきました。
 高田馬場までですと、たまに来ることもあるのですが、早稲田界隈の雰囲気というのは、あまり変わらないように思います。

 バブルの頃は、この界隈もそろそろ再開発になりそうな雰囲気も漂っていました。地上げ屋にかなり狙われたとも聞きます。
 ところが今は、あまり前と変わっていないようで、そのような話も立ち消えになってしまったのかもしれません。

 大隈講堂近くから、大学構内を覗き見ると、日曜日だというのにそこそこ学生の姿を見かけました。イベントがあるのかどうか、詳しくは分かりませんでしたが、(慶応もそうですが)この早稲田も、やはり変に遠くへ移転しないで、もとの所に居残っているというのは、それはそれで一つの見識のようにも思ったり−−。


 昼過ぎにまた高田馬場まで戻り、駅前のトガワ(一番古くからある店舗)で、ラテン系のCDでも物色してみようと入ったのですが、ごっそりとその部分が棚からなくなってしまっていました。
 JAZZなどを置いている店か、BIGBOX店のほうか、もし移動させていたなら、そのような表示になっていると思うのですが、そのへん何も書かれていませんでしたので、ラティーナ紹介盤を中心とした陳列は、たぶん一切やめたのだろうと思います。並べていても、さほど売れているような雰囲気もありませんでしたから。
 しょっちゅうここまで来ていたわけではありませんので、大ショックというわけではありませんが、それでもやはり残念に思うところです。


2001年10月27日(土) 考えてみると、10月は....

 私のほう、今日も先週土曜日に引き続き、研修のため出社。午後からの出社であれば、全然こたえないのですが、9時半には集合ということになっているため、なかなか辛いものがあります。
 昼食に、まあまあのお弁当が出るのですが、それでも午後5時過ぎまで会議室に缶詰状態となりますので、終わるとほっとします。

 考えてみるとこの10月は、休日の午前中、遅くまで眠り呆けているというのが異常に少なかったようです。京都に行ったり名古屋に行ったり、この2週間は研修でしたし。家でだらだら眠りこけていたのが2日間というのは、やはり少々少なかったようで、最近は夜横になると、すぐぐっすりと寝込んでしまいます。

 先日は朝起きて、まだ早いと思ってもう一度眠ると、10時半で、慌てて3ヶ所ほどに電話を入れ、会社に行ってから、急用のためと称して、午前半休の届けを出したりしました。やはり、ちょっと疲れ目の感じ。
 ただ、それでも風邪もひかず、元気にはしています。


 今日は研修が終わった後、外苑前のイタリア料理店で友人と食事をしました。外苑前のイタリア料理店というと、有名なサバティーニ青山とか、ヴィ・ザ・ヴィなど、昔から高級店があるところですが、それぞれ1−2度私も行ってはいるものの、やはり値段が高いのがネックです。
 ただ、今日行った店は、価格も手頃で、味も素晴らしいトラットリアでした。今度一緒に食事するような折は、そこへお連れしたいとも思っています。

 今月はいろいろなイベントがあったわけですが、今日でほぼ終了したので、少し気も楽になっています。明日も朝から出かけることになっていますが、こちらのほうは、午前中の2時間と少しの間だけ、ちょっと聞いているだけですので、気分的にはさほど負担感はありません。
 来週はもう11月。早いですね。

 11月に入ったら、今月ほとんど行けなかった、展覧会をいくつか回りたいと思っています。いいものがありましたら、別途お知らせすることにします。


2001年10月25日(木) ボサノバ・レコード事典

 ボサノバという音楽のことを、面と向かって嫌いという人というのは、あまり聞いたことはありません。JAZZはよくわからないとか、土臭い音楽はダメとか、クラシックななじめない、などということを時々耳にするわりには、ボサノバというのは、比較的日本人にとって受け入れやすい音楽になっているような気もします。

 日経朝刊の文化面に、日銀の山形事務所長の宮坂氏が、ボサノバのLPコレクションをしていて、その2000枚のストックから570枚を選び、ボサノバ・レコード事典作成のために、宮坂氏含め7人で解説を分担、11月下旬に発刊されるということを、自ら書き綴られていました。

 ボサノバというのは、ブラジル本国でも、あまり記録が残っていないらしく、その意味で、かなり貴重なボサノバ・レコード解説書になりそうです。既に出版されているボサノバの歴史みたいなものは、そのボサノバ史に関わったアーチストやプロデューサーなどにインタビューを重ね、あるいは残っている雑誌や新聞などの記事資料から再構成していくことにより、(簡単ではないものの時間をかければ)できないことではありません。既に出ている(翻訳された)ボサノバの歴史などの大部の書物については、おそらくそのような形でまとめられたものと考えます。

 ところが、レコードというモノに纏わる資料というのは、結構頼りないものになっています。
 頼りない理由というのもいくつかあって、当時の録音テープの箱が、例えば紙箱だったりすると、箱の裏にメモを書いていても、その箱が破損してしまうと、箱ともどもメモも消えてしまいます。中にいれて置かれたメモも、紛失するようなことは、ちょっとしたモノの管理をしている人なら、すぐ思い当たるのではないかとも思います。
 テープだけになってしまうと、一体それが何かわからなくなってしまいますし、テープそのものが紛失してしまう、あるいは廃棄されてしまうこともないわけではありません。

 レコード会社などにこまめな人がいない限り、歌い手ははっきりしていても、参加アーチストなどのクレジットが紛失してしまっていたり、もともと記載すらされていなかったり、録音した日付についても、書かれていたり書かれていなかったり.... ボサノバに係わらず、ポピュラー系の音源ではもっとよくあることだろうと思います。メジャーレーベルなら、管理方法が決められていたかもしれませんが、マイナーなレーベルでは、そのような基準なども持っていなかったかもしれません。当時から音楽ビジネスが他の国よりも発展し、先行していた米国ですら、ポピュラー系の盤では、録音年すらわからなくなっている音源も多々あるようです。

 まして、ブラジルです。中南米諸国の中で、ブラジルだけは言語が違うとはいえ、ラテン系といえばラテン系。録音年や参加アーチストなど、録音時の記録が、米国などよりも残っていない可能性は一層高いのではないかという気もします。恐らくボサノバの初期段階では、マイナーレーベルのものが中心にあったように思いますし(メジャーレーベルはまだまだそこに触手を伸ばしていなかったように思いますし)、そう考えれば考えるほど、録音・収録の記録を探し出すのは難しそうです。

 残るは、商品として流通したレコード(アルバム)そのもの。LPレコードそのものに付されている中央のレーベル(カタログNo.)や、ジャケットに記載されたことがらなどから、何時くらいのものかなどを推定していくことになります。紙のジャケットに入れられた(あるいはジャケットすらなく、紙のフォルダーに入っただけの場合もある)LPですから、ある程度きちんと保管されているものでないと、それらを推定することすら難しい場合も出てきます。

 モノさえ残っていれば、できるだけその当時のままに近いモノさえ残っていれば、当然音は聞こえるし、音が聞こえればその音楽やアーチストも想定できる場合もあります。更に、レーベルやジャケットからその他のことがらについても推定できる可能性もあります。ジャケット裏面に、ライナーノートを書いている人がいれば、その記録から人を媒介にして、当時の状況などを手繰っていけることもありそうです。

 レコード事典というのは、資料が揃っていなくて、収録された時期や参加アーチストを推定していく場合でも、あるとないとで大違いということも出てきます。その意味で、ボサノバのレコード事典というのは、結構貴重なのではないかと思っているところです。


2001年10月23日(火) よみうりランドも閉園に...


 向ヶ丘遊園地に次いで、よみうりランドをダイエーが手放すという記事。確かに、よみうりランドというのは、ちょっと地の利の悪いところにある遊園地。
 そのどちらにも行ったことがなかったので、さほど感慨深い思いがあるわけでもないが、子供の頃そこで楽しんだ人にとっては、胸を突かれる思いが残るかもしれない。

 日本各地にあるテーマ・パークや、アミューズメント・パークなどが構造不況の中で、まさに再整理の時期に入っているような気もする。
 ハウステンボスはそこそこ好調なものの、長崎オランダ村のほうは閉園してしまったことも記憶に新しいし、宮崎のシーガイヤに至っては、初めからなかなか無理な様相を示していたところもあるし。
 一時期、雨後の筍のように、あちこちに生まれたこれらの施設。地方活性化の有力な手段ともてはやされた結果がこれだとすると、なかなか悲しい気持ちもする。

 ただ、やはり企画力と資力の両方が欠けていたところがあるのかもしれない。
 ディズニー・ランドやディズニー・シーのほうは、行きたがる人の後が絶えない。大阪のユニバーサル・スタジオも同様。こちらは立派に首都圏からの客も結構多そうだ。これらのアミューズメント・パークと比べるのは、確かに酷かもしれないが、しかしこれらに負けない装置やソフトをもっていない限り、長続きしないような気もしてくる。

 今まさに、米国同時テロ事件により海外旅行から国内旅行への変更が多くなっているともいう。
 ある意味で地方のアミューズメント・パークやテーマ・パークにとっては、お客を呼ぶ絶好の機会なのだけれど、その機会をうまく生かせているのは、極めて限られたところだけにも思える。
 やってくる人たちが何を求めてそこにきたのか、やってくる人たちに何を提供できたか、そのような一番重要な訪問客の情報が、十分把握されていたのかどうか、かなり疑わしいところも残る。

 温泉旅館が集積したエリアなども、状況はこれらととても似ているような気がしている。熱海などは、まさにいろいろな意味でその典型的なエリアかもしれない。
熱海をアトランティック・シティやラス・ヴェガスのような街にしてしまうという構想をもとに、描かれた漫画には、少し唸らされたところもあるが、それは最後の切り札としても、熱海なら他にまだまだやってみるべきことは山とありそうな気もする。
 手軽に癒しを求めたい人は、東京に山ほどいるのだから、今までの経営にこだわらず、今までの上顧客だけにこだわらず、今の施設を生かしながら生き残る道は、決してないわけではない。ただ、そのためには、図体だけ大きくなりすぎた、温泉旅館そのものの施設の特定部分を、思い切って切り捨てる、というような痛みをともなう手術が必要なのだろうけれど。

 時代が変われば、人が変わる。人が変わるというのは、同じ人でも求めるものが変わってくる、ということも言えるだろう。
 後楽園遊園地はまだしも、としまえんのほうは、大丈夫だろうか、ふとそんなことも気にかかってしまった。


2001年10月22日(月) 空騒ぎ


 今朝TVのニュースを見ていたら、日本でも炭疽菌騒動の話。
 白い粉が落ちていて、真ん中はまあるく粉がない状態を誰かさんが見つけて、これは、すわ炭疽菌と考えたそうですね。
 実は、大福を落として、その本体だけは拾い上げ、白い粉がその周囲に残ったということらしいのですけど。

 同様の話が、女性の白粉だったか、ファンデーションだったか、化粧をしていた女性が、パフをやはり落としたらしくて、やや茶色がかった粉が地面に残っていたそうです。

 病こうこう(膏肓)ということばを思い出しました。
 TVでは、こんな状態なのだから、そんな粉はちゃんと拭き取っておくべきだ、というコメントをしていましたけど、果たしてそうすべきかどうか。変な形で拭き取られているほうが、私には逆に怪しい感じがしてしまいます。

 大福を落とすほうも、落として拾い上げられた後の白い粉を見て騒ぐほうも、どっちもどっちという感じですが、それを新聞にとりあげてみたり、TVで騒ぐほうが、私には苦々しくも思えてくるのです。本当に、小学生のホーム・ルームみたいにしか見えてこない....


2001年10月20日(土) 映画・雨あがる

 深夜のニュースを見た後、ケーブルTVで何かやっていないか、番組表を見ると、<時代劇専門チャンネル>で、「雨あがる」をやっていて、ちょうど始まったばかりの時刻だった。
 ついつい最後まで見てしまうことに。

 主役・寺尾の役どころは、出仕の道を探している浪人役。武道はなにしろ抜群なのだが、なかなか勤め先が決まらず、その奥さんと一緒に旅を続けている設定。
 旅の宿で一緒になった町人たちにも、腰の低い対応をしているところが、結構役にはまっている。

 長雨が続き、川が渡れなくなって、宿泊客の気分が徐々にすさんできたときに、奥さんからもかたく禁じられている賭け試合をして金を作り、宿の全員で酒盛りをすることになる。これが、後々尾を引き、全体のストーリーと関連する。
 大名駕籠に乗って宿に戻ってくるシーンや、最後に近いところで、それまでは夫唱婦随を絵に描いたような奥さんが、啖呵をきるところなど、印象に残される場面が多々出てくる。

 2000年に制作された作品。当然、良い雰囲気で自然が残っている、あるいは当時のような街道が残っている場所をうまく見つけて撮影できているから、この映画が成立しているのだろうが、それにしても撮影場所の見つけ方と、(編集上での)つなぎ方にも感心する。

 ラストの余韻が心地よい。
全てを語らずに、美しい海の見える山なみの道で浪人夫婦が立ち止まる。賭け試合をしたという理由で、浪人を召抱えることを一度は止めたものの、奥方に一言言われて考え直した殿様の指令で、配下の武士がその浪人を馬で追いかけるシーンが、2回ほど入った後で、キャストのクレジットが流れていく。

 原作を知らなかったのだが、そのクレジットの最後で、ああ、やはり周五郎の作品だったか、と頷いてしまう。
 うまく見られてラッキーだったと思わせる作品。


2001年10月19日(金) 炭疽菌騒動の広がり


 炭疽菌ばら撒き騒動も、テロと断定されつつあります。
 それでも今までは、アメリカ合衆国内の騒ぎと、対岸の火事のように見ていたところがあるように思います。

 ところが、これがケニアに飛び火し、どうも同じようなテロ絡みのものらしいし、それだけではなく更にアルゼンチンにも不信な郵便物があって、炭疽菌の疑い濃厚という記事をみかけたりもします。

 こうなると、一気に不安が広がってきます。
 対岸の火事どころか、明日はわが身かもしれません。日本には、ワクチンも用意されていない、というようなことも、一層不安感を高めてしまうことにもなります。

 たまたま、昼に別の会社のSさんとお茶を飲んでいたとき、そんな話もでてきました。
 「Sさんのところ、自分の席まで、アメリカのほうから、封書とか定期刊行物とか結構届くでしょう?」と聞くと、待ってましたとばかり、「だから、急にこれはヤバイと思って、どうしようか――と」。
 「やはり、使い捨ての手袋と、マスクを用意しておくとか――」
 「いや、その前に郵便物を触る人が誰もいなくなるかも。」

 やはり、ケニアへの飛び火記事とかを見ると、誰しもそんなふうに感じてしまうようです。
 <日本は狙われない>という保証はどこにもありませんし、そこがまさにテロが本来的に持っている問題の核心です。テロ根絶というのは、並大抵のことでは不可能だということも、やはり心にとめておかなくてはいけません。

 持久戦というよりも、神経戦みたいな気配に変わり始めているような兆候を感じます。


2001年10月18日(木) 続く雨


 火曜日の夜から雨模様。水曜日は丸一日かなりの量が降り、そして今日も朝からずっと降り続く。
 よく降る雨。今年は、雨の量がなにしろ多いような気がする。

 小雨くらいなら、歩くのもさほど気にならないが、昨日のような降りの中を長々歩くと、風邪をひいてしまいそうな雰囲気もある。
 昨日仕事をしていたとき、肩凝りはするは、夕方結構気分が悪くて、汗が出てきてしまった。これは風邪か?ということで、早めに切り上げ、早めに寝ることにした。
 そのおかげか、今日は比較的気分は快調。
 
 阿刀田高の<怪談>を読む。文庫本ながら、700ページを越すかなり厚い一冊。
 ラフカディオ・ハーンの伝記とも、ハーンを辿る小説とも、どちらともいえないような本。ハーンとは直接的に縁のない登場人物が、ハーンの軌跡を旅によって追いかける、というような内容になっている。半分くらいまでいけば、結構面白く最後まで読み終わるようにも感じられる。


2001年10月15日(月) 10月の真ん中で


 10月もちょうど真ん中の日。
 タクシーにのったら、結構クルマが多くて、予定よりも時間がかかった。
 不況だといいながら、最近は以前より大型のトラックも良く見かける。モノや人は何か動いていて、動いていれば何らかの価値を発生させているのだが、えらく効率が悪い動かしかたをしているのかも。

 さて、炭疽菌の怪は、テロではない、とは否定できないような状況になってきて、一部パニックが出てきたりもしている。困ったものだ。
 じわじわときているところが、なんとなく不気味なところがあるけれど、ヤバそうな気配だけに負けてそれから逃れることだけを考えず、少し心を強くもち、この出所についても、これから今まで以上に注目しておく必要がある。

 もう一つの狂牛病の話というのは、情報処理の方法が悪くて、簡単な話を面倒くさくして、人々を不安にさせているところがあったりする。
 本当は、狂牛病よりも、もっと大きなリスクもあるのだけれど、そこに目がいかないよう、この騒ぎを大きくしている輩がいるとすれば、それこそ本当に、最悪の輩であるにちがいない。
 そういう輩がいないことを祈るが、いないという保証がないところも辛い。


2001年10月14日(日) 勝手な想像

 その会場で、H氏に呼び止められた。かなり以前から知っている人。

 数年前になるが、この人の娘さんの就職時に、話を聞かせてやって欲しいということで、一度だけその人にお目にかかったことがある。近くのJRの駅の改札で待ち合わせをした。
 父親の雰囲気からすこしいかつい感じを想像していた。きょろきょろしていたら、若くてきれいな女性から声をかけられた。勝手に思っていたイメージとは、全然異なっていた。こんな感じの娘さんがいたら、お父さんはなかなか気が気ではないだろうとも思ったくらい。

 娘さんの仕事のほうが、今あまりうまく行ってないような感じがする、という父親。あまり話したがらないようなので、深く聞かないのだけど――という話。

 キャリアアップみたいなことかもしれませんね、という話をしてお茶を濁す。ひょっとしたら、もっと別のことかもしれないとは思いながらも。


2001年10月13日(土) 名古屋


 私にとって、名古屋というのは、今までほとんど通過してきたような街です。
 京都・大阪へ行くときはもとより、以前南紀のほうをぐるっと回ったときですら、名古屋駅でちょっと降りて、お土産と弁当を新しくできた高島屋の地下で買っただけでしたし。

 かなり以前のことですが、栄の地下街まで、1回だけ行ったことがありますが、地上はほとんど店が見当たらないのに、地下に飲食店などがひしめいている風景だけ、強く印象に残っています。でも、その時になぜ名古屋の栄だけに寄ったのか、ほとんど記憶がありません。
 旅の途中だったようにも思います。

 縁がないといえば縁のない街だったのだろうとも思います。

 たまたま、13日の夜から、名古屋駅の太閤口を出てすぐのところにある、建って間もないような三交ホテルに一泊し、翌日は午前中から藤ヶ丘のほうに夕方までいることになりました。
 今回も、街中を歩き回るということはできずに終わって、やはりあまり縁のない街なのか、というようにも思ったりしましたけれど。

 少し風の強い、暑いくらいの日。名鉄バスには、平日のバスカードだけではなく、休日用のバスカードというのが、かなりお得な価格設定になっていることを示す案内が出ていました。一都三県で使える関東のバスカードには、まだこれはありませんが、そのうち登場してくるのを期待したいところでした。

 その日の午後8時過ぎの新幹線で戻る予定で、名古屋駅には7時少し前に着きましたので、近くで食事でもして帰ろうと思い、松坂屋の上の階にある飲食店がいくつか入っているところまで行き、ぐるっと回ってみましたら、東京や大阪で既におなじみのような店が大半で、急にげんなりしてしまいました。

 そのフロアを一周した後、ま、この店でもいいかと思って入ったのが和蘭亭という洋食屋さん。
 食べてよくわかったのが、ドミグラソースをきちんと用意している正統派で、しかも安い店。味も変なしつこさがなく軽やかでしたので、結構気に入りました。
 名古屋へ来たからには、海老フライが入ったものを食べようと思っていましたので、とりあえず目的は満たされました。海老だけではなくて、ムースのようなものを一部入れて、海老フライが比較的まん丸に揚げられて出てきます。食べた感じは、ほんとにふわっとした仕上がりでした。

 高島屋閉店間近に、地下のフロアで、手作りういろ(挽茶)というのがありましたので、それをお土産にして、新幹線に乗りましたが、乗ってからすぐ、また名古屋城の金の鯱鉾を見ることなく、東京に戻ることになったということに気づきました。縁のない街というのは、そういうものかもしれません。


2001年10月11日(木)


 夕方には上がるといわれていた雨が一日中降っていた昨日10日。しかも朝から大雨状態。

 嫌な仕事を前日からやっていて、なんとか午後3時ころに第一弾を、夜に第二弾を終わらせる。ちょっと一息。
 しかしまだまだ残りがあって、辟易する。

 第二弾を終わらせようととしていた時、季節のお便りメールを送った人から返信が入り、今日は寒い、今度温かいものでも一緒に食べよう、などと書かれている。
 温かいものというと、鍋か、坦々麺か、というところをすぐ思い浮かべてしまう。坦々麺というと、数寄屋橋東芝ビル地下のカウンターだけの店。風邪をひきかかっている時、そのスープを飲むと、風邪が逃げていくこともある。

 *****

 今日は、昨日とうって変わって晴れ上がる。昨日と比べると、朝から少し暑く感じるくらい。
 しかし、先日見られたような、雲ひとつないような紺碧の空という雰囲気とは程遠い。

 電車が大幅に遅れていて、その影響で終点の駅に電車がたまり、乗った電車は途中の駅で数分止まっていた。

 温かいものを食べよう、というメールをもらった人に、「鍋はもう少し先にしたい」と書いて、また送り直す。


2001年10月10日(水) ノーベル賞


 名大の野依氏が、ノーベル化学賞を受賞することになったというニュースが流れた。昨年の筑波大・白川氏に次いで、二年連続の日本人受賞ということになる。

 若い人には志をもって、研究にいそしんでもらうと、知的存在感のある国になる、というような野依氏のコメントを聞くと、どのように研究してきた人か、ということが明快に理解できるように感じる。


2001年10月08日(月) フィレンツェの宮殿の職人たち展


 新宿・伊勢丹で開催されているフィレンツェの宮殿の職人たち展を見に行きました。
 新館にある、通常美術館として使われているスペースで開催され、現品即売も行われています。

 銀細工のコーナーでは、客の若い女性が親方に細工の仕方を伝授されている風景などもあり、なかなか楽しいことは楽しいのですが、展示されているモノの種類がかなり限られてしまっているのが、本当は一番残念に思われたところでした。
 それぞれ即売されているのは、金細工などを除くと、小物なら買えない金額ではないものの、ちょっと中途半端に高い感じがしたのも事実。

 私が見た中で、一番関心をもったのが、スカリオーラ象嵌細工をやっている、ルンゲッティさんの工房。
 石膏嵌め込み細工というものですが、一時期この技術が伝承されなくなり、ルンゲッティさんの研究によって蘇ったもの。再生させた努力とその研究というのは、極めて大きな意味をもっているように感じます。

 現地では、この技術を教える教室も開かれているとのこと。

 *****

 とうとう米英軍による、アフガン報復が開始。
本当は少なくとも後1−2ヵ月ほど延ばして欲しかった.....


2001年10月07日(日) 神戸ポートアイランド線


 京都から、神戸の中心三宮までは、新快速で約50分、梅田の大阪駅からだと、たかだか20分程度の時間で着いてしまう位置にあります。
 それでも、阪神大震災の前の10年近い期間、そしてその後今年までの期間、神戸まで行くことがありませんでした。京都や大阪へ行く時というのは、ほとんど(観光的要素のない)用事で行くということばかりしていたような気がします。
 神戸まで行ってみようか、そんな気分的なゆとりのようなものを、やはりどこかでなくしていたに違いありませんが、たぶん、忙しいので神戸まで行く機会がなくて、などという言い訳を自分の中でしていたのだろうとも思います。

 もっと若いときは、私にとって神戸というのは、大阪以上の魅力を湛えていた街でしたし、年末に刺すような冷たい風が吹くにもかかわらず、わざわざ六甲山ホテルへ泊まりに行ったり、その後で六甲おろしの吹く神戸の街を、元気に歩き回っていた記憶もあります。
 就職して初めてのゴールデン・ウィークには、元町から近い、ポートタワーのすぐ横にあったタワーサイド・ホテルに2泊して、そこを中心に神戸駅の周辺から三宮まで、かなりくまなく歩いた記憶もあります。

 ほとんどご無沙汰していた神戸ですが、法事の翌日に三宮でお昼に人と会う予定を入れておいて、三宮に着いたのが11時少し前の時間。ちょうど1時間ほど空き時間ができましたので、私の記憶の中の神戸ではまだ走っていなかった、ポートアイランド線に乗り込んでみました。
 一番前の車両の、運転席に見える場所のすぐ後ろの席にこしかけると、運転手のいないまま電車が発車し、自動運転のアナウンスとともに、そこに展開されていく景色に見入ってしまいました。

 立ち並ぶ高層のアパートやマンション群を見ながら、南公園や埠頭を通り抜けて一周し、もと来たポート・ターミナル駅で再び合流し、そこからは三宮駅まで同じところを辿っていきます。

 三宮で乗り込んだとき、私の前の席にリュックを背負った小学生とその母親が座りました。
 どこで降りんのかわかってんの?という母親の問いかけに、首を大きく縦に振った男の子。その2人は、観覧車が一番近く見える南公園で降りました。この辺で、ポートピアをやっていたのだろうな、そんな推測もそれでできました。ポートピアというと、本当にずいぶん前のことになってしまい、それには行かなかった私には、そのポートピアというのが、一体何であったのかすら記憶から消えかかっていました。

 少しまだ時間の余裕があったので、ポート・ターミナル駅で降り、外へ出ると、釣り人が数多く糸をたらしているのが、少し上から良く見えます。良く晴れ上がった日で、日なたは少し暑いくらいの日。吹く風が気持ちよく感じられます。
 釣り人をぼんやり見ていると、ハゼでしょうか、よく魚も釣れていて、本当にのどかな雰囲気。
 そこから見える六甲の山並みも、その下に展開する神戸の街も、学生の頃に来て神戸港を見下ろしたポートタワーもそのままのようで、一見すると何も変わらないように見えたりもしたのですが......

 人気のないホームまで戻ると、後から一人男性が上がってきました。
 「昔、ポートピアやってたとこは、どこで降りたらええんですかな?」
 私も旅人ながら、「遊園地のあるところでしたら、南公園でしょうか。」すらすらと答えてしまいました。このアイランド線を一周して、その時、少しだけ知ったかぶりのできる旅人になっていたようです。


2001年10月06日(土) 法事

 父親の百か日で、再び京都の菩提寺まで行く。

 今回は三連休初日ということもあり、一週間前切符を手配するときに、午前9時台の指定は満席になっていて、一瞬あせりまくったのだが、10時台ののぞみが空いていて、なんとか間に合う時刻に着けると一安心したことを思い出した。
 10時台ののぞみでも、ほぼ満席に近い状態。海外旅行から、急遽国内旅行に変更した人も多いのではないかと思いながら、少し早めに大丸の地下で買ってきた弁当を食べて、うとうとしているうちにふと気がつくと彦根を通過していた。

 昼間の気温はかなり上がる。
 本堂で読経のおり、親戚にあたる人の2歳半の子供が、ずっと一人で歌をうたっていて、普段よりも住職のたたく木魚の音が大きかったような気もする。

 その後、参列者10名で、堀川・松原にあるレストランで食事。
 食事が終わると、ちょうど日が沈んだ頃で、外へ出るとかなり温度が下がっていることに気づく。夏物のジャケットだと、やはり肌寒い感じ。昼間はこの格好でも暑いくらいで、寺へついた頃は、結構汗をかいていたのだけれど。


2001年10月05日(金) 再発CD

 高田馬場でイタリアとフランスのポピュラー系CDを扱う店をやっているFさんから、木曜日にフランス盤の入荷の電話をもらったものの、土日は東京にいないし、8日は店のほうが休みになるし、次の土日は名古屋へ行ってしまう、みたいなことがあり、とりあえず電話で聞いたアーチストで確実に持っていない盤を3枚ほど取り置きしてもらうことにしていた。
 店は午後8時まで。今日、なんとか行っておこうと思い、無理やり作業を終わらせて高田馬場へ向かう。地下鉄で乗り継ぎをすると、やはり40分ほどかかる。
 
 今回の盤の中には、ニコレッタの70年代の盤が2枚もCDにより再発されて出てきたのが、何しろ特筆される。もう一枚、マルセル・アゾーラのミュゼット伴奏でムルージが24曲シャンソンを歌っている盤も貴重。かつて、LPだと2枚組だった内容。
 他には、ミシェル・トールの2枚の再発CD、ソニーに録音したグローリア・ラッソの盤なども、今回初めてお目にかかった。

 今までなかなか再発など期待できなかったような盤が続々と出てきているので、なかなか予算のやりくりも大変になってきた、というように思っていたら、ちょうどこれも新たに入荷したイタリア盤の整理をしていたお兄さんが、オルネラ・ヴァノーニの再発盤がそこにあるので、見ていってくださいと言う。
 が〜ん。

 11枚、LP時代のアルバムが一挙にCD化され、実はBOXセットで出たのだが、そのBOXのほうは入ってこないまま、それはなくなってしまったので、バラで注文した分が今回やっと入ってきたそうだ。
 ざっと見ると、どれも聞いたことのない盤。こちらのほうを、取り置きしておいてもらうことにする。
 かつて、パティ・プラーヴォも、BOXセットで再発が出て、バラでも出たのだが、そのような盤は、大型輸入CD店では私が見ている限り入荷しなかった。(入荷したとしても1回こっきりで追加注文がなかった、あるいは追加注文しても入荷せずに終わったと見ている。)
 ますます買わないといけないものが増えてきた。この先どうなることやら。


2001年10月04日(木) USJ:半年間の入場者600万人


 一昨日の新聞に、大阪のユニバーサル・スタジオの累計入場者数が、半年で600万人に達したという記事が出ていました。
 月間100万人ということで、男女比は4:6となっているようです。

 当初の目標は、1年間で800万人なので、11月〜12月には、その目標を突破することになります。凄い勢い。

 一方、東京のディズニーランドとディズニーシーのほう、今年上半期(4〜9月)の総入場者数は、約930万人。ディズニーシーは開業1ヵ月足らずで、80万人程度を集客したのではないか、というのが日経の読み。
 こちらも、やはり負けていません。

 この外資テーマパーク2社で、半年に1700万人強、年間3400〜3500万人を集客するとなると、4年も経つと、日本の総人口を上回る累積入場者数になります。
 この勢い。

 しかし、もう一方のよみうりランドやとしまえんの入場者数は、やはり落ちていて、明暗を分けているのが気になります。


2001年10月03日(水) 碧空


 昨日も今日も、午前中から午後の早い時間にかけて、雲ひとつなく、深々とした青い空が見えました。日曜日夜から月曜日にかけて降り続いた雨の後の、秋の青空。これだけ広く深い空の青を見たのは、ずいぶん久しぶりのことのようにも思います。

 青空というと、ごくごく普通の晴れた空、蒼空と書くと宮沢賢治が見ていたような少し冷たそうな空の色。そして碧空と書くと、やはりアルフレッド・ハウゼやウェルナー・ミューラーが演奏した曲を、なんとなく思い出してしまうようなところもあります。
 昨日や今日の空は、普通の青空ではなくて、やはり碧空。


2001年10月02日(火) ジブリ美術館


 1日に井の頭公園内に、三鷹の森ジブリ美術館が開館。
 位置はちょうど井の頭公園の池から見て、南西の端にある場所。

 アニメ・スタジオとしては、かつてのディズニーがディズニーランドやディズニーワールドを展開したように、<遊園地>という世界で、アニメ・キャラクターの世界を息づかせ、キャラクターの生命を永遠にしていったという経緯もある。
 日本で似た考え方のところを探すとすると、サンリオ・ピューロランドがこれ。

 ただ、遊園地というのは、かなり大きい資本投下が必要になるし、ディズニーランドにしても、ユニバーサル・スタジオにしても、新しいアイデアを盛り込んだエンターテインメントを次々展開していかないと、その遊園地/レジャーランドそのものの人気も落ちてしまい、虻蜂とらずになりかねない。

 今回のスタジオジブリによる美術館というのは、少し遊園地的な要素も入っているが、むしろミュージアムとして位置づけたところが面白い。
 トトロの人気もさることながら、今年の「千と千尋の神隠し」はロングランを続けていて、一層このミュージアムへ行くことの価値を高めているようにも思えてくる。

 抜群のタイミングでオープン。


riviera70fm |MAIL