カラジ風味

2003年10月30日(木) 正夢

これからビデオをみます
http://www5b.biglobe.ne.jp/~movie/ta-page/dansuuizu.htm
何度かみていますが何故かマタマタみることにします
コーチ お疲れモードです

話を聞いてみました
http://www.ne.jp/asahi/shin/ya/desk/NJ4/34.htm
http://member.nifty.ne.jp/yukihi/
シャカシャカ自立歩行
ホンダが歩行ロボット
オヤジの夢は円盤にホンダのロゴとは!

サヤボンは前もって夢で観るそうです
なーんダ!いつか観た夢
そういうのって いいなー
もっかの気がかりはウエディングの夢 みたときのようです
無視したいようです 
どうなります事やら。
 



2003年10月28日(火) 家庭不和の原因に為り得る

民主主義とは民衆参加の政治制度の意味であり
他より多少はましであろうという消極的選択に過ぎない
多数決を以って全体の意志とする 
ここに「話し合い」という微温的な行為は含まれてない
勿論意見を交換させ議論を戦わせてその後の多数決であるから
その間の話し合いは当然であるが最終的には多数派が全体を
支配するのであって話し合った結果少数派の勝利とはならない
若しそんな事が行われればそれは多数決の否定に繋がる
この意味で「話し合い」は民主主義に取り入れられているが
その主たる構成要素ではない 従って
民主主義の名の下に話し合いを要求する という考え方は
矛盾を生む 
この様に考えると家庭という社会の最小単位にまで
民主主義を持ち込む行為は家庭不和の原因となる可能性すらある
いや、実際これは多くの争議の元になっているのである
家庭内で意見を統一する必要が生じた場合 
諸問題に応じて家族が離合集散して何とか多数派になろうと
画策する事が果たして素晴らしき事であろうか
多少の矛盾や強制があったとしても 正に話し合いで 
場合に依っては少数派の勝利を認める
意見の統一を図るという微温的な部分を残して置かなければ
決して家庭の暖かさや家族の自然な情愛など生まれてこないであろう
 この様に「民主主義」と「話し合い」の関係は直接的でなく
寧ろ一般的な意味では「話し合い」は多数決の否定に繋がり
それは直ちに民主主義の根幹の否定にも繋がる事から
実は両者は根本的な対立関係にあると云えよう 従って
民主主義を唱え「多数決にすべてを託す」と宣する為には
それ相当の覚悟が必要である
以上述べたように民主主義を生の形で子供に教える事は問題が
多過ぎる 論理と多数決を中心に議論を展開し議を決する手法は
確かに重要であるが多くの子供はその余りにも冷酷な結果に
面従腹背するであろう 自分にとって如何に不利な結果と雖も
甘んじて議決に殉じる などという態度はそう易々と
身につくものではないのである
 眠くないか カラジ
 はい 眠くないです



2003年10月27日(月) 何時までも子供と思うな

赤ん坊のような魂でなければ神の国を見る事はできない
カラジはこの様な思いに共感を持っているからだろう
終いまで聞きなさい
子供は自分をどう見ているか
更に重要な問題は利己心の塊である子供なる存在を最も呪い
それから脱しようと必死で藻掻いているのは当の子供自身に
他ならないという矛盾にある 従って子供は子供扱いされる事を
最も嫌うのである 自らが子供である事を脱しようとする逆説的
存在なのである 子供は生存の為の必要性から極めて利己的な
存在である と同時に一刻も早く自分を支配している利己心を
克服して一人前の大人に成る日を夢見ている 
こうした複雑な感情を理解しょうとせず あれほど可愛がって
やったのに ほしいものはすべて与えたのに などと言う
親の言葉ほど侮蔑的なものはないのである
何時までも子供と思うな この種の台詞は恐らく三歳児の頭の
中ですら蠢いているだろう
特徴を幾つか挙げると
自らを否定する自己矛盾な状態である 生存の為邪気の塊と
して生まれ感受性が極めて強い 子供扱いされる事を嫌悪し
出来る限りの背伸びをする おもねる大人子供は無邪気という
大人を憎んでいる 大人になりたい一心で如何なる難しい
事にも挑む 自分を子供扱いする大人に反抗しその逆に従順
自負心が強い等である
決して「生死」を知りえない人間がそれを語り誰もが経験
した筈の「子供」を語り得ないのは何故か それは上述した
本質的な点に全く無関心であるか自分自身が「美しい子供」
であったという幻想に埋没しているからであろう。
子供に民主主義を説くとは如何なる事か



2003年10月26日(日) 子供は無邪気か

子供とは如何なる存在か 
何回かに分けて登録になる 
カラジは異論が有りそうだが最後まで聞くように。それでは始める
人皆すべて経験済みである「子供」に関する最も幼稚な思いが
無邪気な子供と言う表現を多用する子供天使論である
子供は本当にそんなに美しいであろうか
小学校はおろか幼稚園ですらそこは生存競争の修羅場以外の何物でも
ない戦場である。そこには大人顔負けの邪気が充ちている
優越感・劣等感・虚栄心・嫉妬・激しい自己顕示・嘘・謀略・おもねり等々
書き出したら切りがない 一体彼等の何処に邪気が無いのだろう
子供の持つ斯くの如き特徴を自ら省みて尚否定するほうがこれがまた
信じられないくらいの多数派なのである これが不思議でなくて何であろう
子供は無邪気でなく有邪気なのである
この様な子供の持つ正に悪魔の如き自己本位な考え方を正してよく自己を
抑制出来る大人へ成長させる為の周囲の助力を教育といい最低限の事を
躾と言っているのである
それは極めて単純な生物学的理由 
子供は他の大人の関心を集めなければ
自立して衣食住し得る存在ではない点にある 幼児の自己防衛本能は
大人におもねる事から始まる腹が減っては泣き大小便の為に泣き
絶えず自己主張を繰り返す行為でのみ彼らは生存に必要な最低条件を
確保するのである 人の精神の裏側に潜む暗黒を一切省みることなく
純真な子供と言った言辞を弄び表面を繕う
すべての過ちはここに始まるといって過言ではない
人は天使でも悪魔でもない人間は単に人間に過ぎない
この点に関して大人であろうと子供であろうと
変わろう筈がないのである



2003年10月20日(月) 民主主義

ほんとに場違いなテーマじゃないですか
そんなことはないよカラジ
話し合えばいいんだ
英語でデモクラシー言葉の由来は「民衆の支配」を意味するギリシャ語で
デモクラテャなのだ 同じ言葉に「下克上」がある
コーチ それあまりじゃないですか 下克上ですか
実力が虚名を廃する事 
多数、力が少数、弱者を廃するとてもシビアなシステムなんだよ
カラジは西部劇すきだったな 
何故カーボーイがいなくなったか考えた事はあるか
そんなこと考えた事無いよ
古い映画に ジャイアンツ ッてあった
カーボーイ 牧場が世界の中心だった ところが鉄道 自動車が
走るようになり石油成金が世界を牛耳るようになるんだ
カラジ民主主義で多数の意見は大事だ しかしだ
新しい事って大体が少数派である事を忘れてはいけないのだ。

ぅムー。こーち 少し酔ってますね
わかるか 明日順序立てて話すことにしょう
それがいいです
下克上ですか。



2003年10月19日(日) きれいになる

いい天気
お昼犬を洗ってやる 長靴ブラシ戦闘開始です
ラブのスージーは洗ってもらうの大好きです
鼻先をカラジに向けて ここよ といった洗犬スタイル
ホースで頭から水をかけながらブラシしてやる
カラジに気をつかってかブルッたりしない さすがスージー
一度目 頭から背尻尾にかけてシャンプー 泡立ちがイマイチ
洗い流して 二度目全身泡いっぱい 両の手でナデナデスキンシップ
しっかり洗い流して 三度目 リンス入りシャンプーいい香り
お気に入りの匂いで舐めマクリ コレコレ スージー しっかりブラシ
こんなところでいいかな うんきれいになった 
お水で流し しっかりブラシ。
おいでベティー
娘のベティ 頭を低く上目ずかい 尻尾を大きく振って洗い場へ
水をかけながらブラッシング 左手にホース右ブラシ これこれベティ
カラジの脇に鼻を隠し しっかり甘える可愛いベティー
二度目のシャンプーきれいになった しっかり流し しっかりシャンプー
これこれスージー舐めてくれるのはいいがしっかりジャマデス
ここまでやがて一時間 少し腰を伸ばすカラジです
ベティー最後の仕上げしっかりブラシ
ベティーダイエットするか 30キロ超えてるなカラジ独り言
竜之介洗うぞ
こっちおいで 相変わらず情けない顔
しっかりシャンプーしっかりブラシ
背中のハゲだいぶいい ドッグフードあっさりめに変えたのがいいかな
目やにも無くなった 今は美味しそうに食べているがはじめは残していた
チルダ アンテナ早くとれるといいネ。
スージーも後ろ右足の付け根に百円ハゲがある。うむ

モノの本によると犬は自然において六キロ四方のテリトリーがいるとか
カラジにはとても出来ない相談である
竜之介で五メートル スージーとベティーで五メートル四方です
洗う為に多くの水を使ったが天水を使っている
彼等の身のまわりの水は天水か地下水である
今はいないが春先にはノミが多く発生します 洗ってやるといいのですが
ノミは死んでくれますが小さな有用な者達も多く死ぬでしょう
犬達は水洗トイレを持ち合わせていないので深刻です
水の乾いた地面には多くのアリの死骸があります アリたちは
カラジにわかるように死骸を集めて葬ります 
ゴキブリ、アリ、ノミ不思議に有難い色をしています。

明日は5年ぶり素敵な人が訪ねてきます
数分の滞在ですが一人と三匹で元気をアピールします。



2003年10月13日(月) 船頭

その日は快晴とはいかなかったがまあまあの釣り日和だった。
久しぶりの船釣りだったが船は四回目の利用で船頭の信頼は厚い。
一時間ほど走って釣り場に向かう
大潮ということで島陰の流れの少ない砂場の瀬を狙うとの事
撒き餌カゴ サビキ(擬餌針)を使って魚を集め釣るため
流れが速いと撒き餌の効果が無く釣りにならないのだ

操縦室には左から三つのモニター
魚群探知機 気象情報 航路を示すナビが陣取っている
彼は様々な情報を解析して錨をおろす点を決める
天気は曇り 北の風風力 水深42メートル 群れの大きさ
魚群探知機で魚の位置 量を確認する
ナビの軌跡を頼りに群れの北側150メートルの位置を決める
その点で錨を下ろせば風 ロープの長さを決める事で
船を群れのうえにもっていくことが出来る
もう1つ大事なことは潮の流れである
錘はメンバーの体力からふんどう型50号としていたので
40メートル下ろしたときの仕掛けの位置が群れの中に
あることである 船頭はこの作業を何度か繰り返し
錨を下ろすのである。
船首左がリーダー 右カラジ 後方に三人ノ布陣
カラジは2メートル程の腰のしっかりした先の柔らかい竿
カゴは目の細い(粗く餌の出の多いほうが食いがいいが)選択
サビキは船頭推薦を使用
仕掛けをおろして魚のいる底の辺りで竿を2―3度上下に
振りーシャクル それを何回か繰り返すと魚が釣れてくるのである
カゴから出た餌がサビキに絡みつくようにかき混ぜて
魚に針も一緒に食べてもらう そんな感じです
始めの頃は面白いように釣れるのですが釣り人の思惑通りは
いきません 暫らくすると釣れなくなります
撒きすぎた餌と共に群れが移動したり大物が群れを狙って
きます その時が大物を釣り上げるチャンスです
でも思惑どうり釣れないのが常です
船頭 移動しますか
リーダー カラジどうする
皆が釣れてないと判断すると移動です
船頭の読みは見事に当たります
次にこのように釣れる場所を心得ているのです

釣果がいいと嬉しいものです
船頭はバブルを起こす名人です。カラジ



2003年10月12日(日) 船釣り

土曜日は魚を釣った
3ー4mの波の高さを実感
百匹あまりのお魚 
前身筋肉痛 特に肩 腰から尻にかけてヒドイ。
死んだように爆睡 爽やかな日曜日でした。

憑依 読み意味を知る
肩こりの原因にもなるようだ
エステでマッサージが効果的とか 

船釣りのススメ
お魚に獲りつかれたカラジ
確かにじっと何かを待つ緊張感は肩こりに繋がる
船の揺れは筋肉のサボりを嫌う
肩こりの貴方
タマのうえに板切れをおいて乗ってみたまえ
そのとき三キロほどの鉄アレーを持つとより効果的かと
保証は無いです はい。

金曜日の夜は 寝れなかった
魚を想い 日記も書いた
エンマの涙 なるタイトルで書く
早朝四時頃から投稿を試みる 
何度か試してみるが駄目だった
五時には船に向かうカラジでした

土曜の泊りはアル離島でした
村営のフェリー村営のゴルフ場イキトドイタ公共インフラ
ほんとに日本 変に感心するカラジでした。
今回はうまくいくかな




2003年10月07日(火) 口説き文句

道路公団総裁が更迭される。
大臣を口説けなかったようだ
壮大・強固・立派な計画 何かを話したのかな。

自立するってお互いが理解し合えるに繋がる
「仰せのように致します」と言える事は信頼に繋がる。

プライベートにおいても自立した二人が
「貴方と共に生きたい 貴方についていきます」
その様になったからと言って弱い(寂しい」わけでも
自分を無くした事にもならないだろう。

自立しているって多彩なシュミレーションが可能であって
そうでなければ他の人の話など聞く余裕など生まれないだろう
時として立派な計画は柔軟性即応性を失するものである

世界の中心に自分を置き今まさに1つを決する時
その1つは世界でありその場合に於いて
信頼する双方の自立も成り立つのだろう。
いい加減のようだが二人して風の吹くまま気の向くまま
生きて行く事は望むところだ。



2003年10月06日(月) 誕生日

誕生日をめでたいと思った事無いなー・・・
いつかばーちゃんになるはず・・・
自力で生きていけなくなる前にさくっとあの世に逝けたらいいなぁ。

そんな彼女をいじめてみたく思い方法を探した
「マッチ売りの少女」を検索
少女は大晦日に死ぬのであるが 流れ星 擦ったマッチの火に
ヒトの命の儚さを重ね合わせている。
一年は365日でありまして
すべてのヒトの生まれた日死んだ日はその中にあります 
少女は正月に生まれ大晦日に死んだのかもしれない
少女を迎えにきたのはかあさんではない
もはや現実の世界には夢も安らぎも存在しないのである
死んで新しい世界へ行くことはめでたいことだろうか
現実の世界に生まれた事はめでたいことだろうか

テレビドラマ「ER」の1シーン
スタップは悪戦苦闘最善を尽くすのですがもはや助からない
牧師がやってきて「・・・・アーメン。」
彼らは脱力感 悔しい思いをするのである。
生や死を考える時宗教者の知恵を借りる事は賢明かもしれない 
http://www002.upp.so-net.ne.jp/isohata/mokuji.htm
「マッチ売りの少女」の中の1つです。

カラジは誕生日をめでたいと思って生きていけたらと思う
彼女もいつかそうなってほしいと思う。



2003年10月03日(金) マルクナル

大人になった。
人間ができてきた。
評して「マルクナッタ」と言う
若さが失せ元気が無くなった。そう思われる所もあるが
総合力 円熟味が備わったと解することにする。

今日のコーチは少しキツイ!
「心の濁りを拭き掃え」終始鏡を磨くカラジです。

選択の自由と個性についてなのですが
本物の自分らしさ・個性・自由とは宿命を受け入れその輪郭を
明確に認識してそれを己の中に取り込むことからのみ生まれる。

多くの米国人は個性とは自己主張の事だと考えている
自我の確立こそが個性の完成であり、そこに人それぞれの
色合いが生まれる。
佛教ではこれを「小我」と呼ぶ
小我は人が人として生きる為に克服せねばならない最も
忌まわしいもの、とされている。
自分本位の考え方を前面に押し出して人と競い合わずに
いられない「心の濁り」を小我と言うのである。
それは自分自身も疲れ、それを見ている周りの誰おも疲れさせる
極めていやらしい存在である。
自己主張の無限循環から逃れて、深く静かに自分を鍛え
その結果ごく自然に自分の持って生まれたものが表面に
現われてきて他の誰とも違う充実した人生を歩めるのである。
これが東洋の知恵であり我々が先祖より受け継いできた
米国人には決して真似のできない大いなる特徴である。

一般的に言われている所の自由とは
所詮何かからの逃避の自由に過ぎず
その逃げ方の様々を個性と名付けただけの事である。
生き甲斐とは
運命的な不可避な過程に対する生命の燃焼であり
自己選択の結果の自由と言う名の逃避からは決して
生まれてこない情緒の発動なのである。
人は宿命に追いつめられ、それに真正面から対峙する時に
於いてのみ本物の自由を得るのである。

何度も何度も聞き返したのですが
コーチが遠く感じた一日でした。


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