おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
高齢者でトラブル多発!IP電話に関する相談が増加しています | 国民生活センター
ttp://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20150827_1.html テレビニュースでは、「契約内容をよく確認しましょう」といっていたが、高齢者は読んでもわからないのではないかという意見が聞かれた。これ、そうかもと思った人はおかしい。というか、ちょっとおかしな思い込みがある。 年齢をそれだけ重ねてきたのであれば、それだけたくさん学んできたのだから、若い人などより造詣が深く有智に決まっている。振り込め詐欺などもそうだが、若い人に騙されるなんて本来恥ずかしいことだ。 「老」という漢字には、「年を重ねる」という意味もあるが、「年をとって物事をよく知っている人」という意味もある。年をとって、十代のころと言っていることが同じではどうしようもない。常に、よく知り、物事の理解を深めていけば、「頼れる老人」になっているはずだ。 年寄りは無知で鈍いんだから、守ってあげないといけないなど、失礼千万。ネガティブに――老人とはそういうものと思い込んでいるのなら、自分もそこに向かって日々突進していることになる。おかしなイメージに乗せられていては人間がダメになるばかりである。
国立競技場といい、ロゴといい、なんかぐだぐだな印象っすね。
私的には、オリンピックなんてなくていいと思っていますが、みんな好きなんですね、競争が。いま現在、世界陸上がやってますけど、それも同じ。何たらという名前の選手がすごい! とか、織田裕二が興奮した様子で話すものだから、そうなんだと洗脳されて、一緒になって喜んだり残念がったりして、それはそれで楽しいんだけど、見ている方は暇つぶしのたぐい以上のものではない。 真剣に競技に取り組んでいる方には申し訳ないんだけど、陸上でも水泳でもオリンピックでも、関係ないからね。自分の子どもや知り合いがそういう場に出ているというならともかく、全国民からしてそんな人はほとんどいない。 関係のないことに夢中になれるほど暇じゃないし、大多数の人が無関係なことに総額でいったいいくらかけるのか知らないけど、何千億やもしかしたら兆というお金を注ぎ込んむ神経を疑う。日本人だというだけで、まるで自分の身内が活躍したかのように騒いでも何ら意味はない。意味のないことにエネルギーを注ぎ込んでも、人生としてみたとき、やっぱり意味はない。不要だとまではいわないけども、もっと大事な、難しいことから目を背けるための方便と思われても仕方がない部分はあるような気がする。 オリンピック委員会「実は佐野研二郎のロゴは元は違う形で委員会で修正した。だからパクリではないす」←速攻で矛盾がバレて泥沼へ ttp://netgeek.biz/archives/46771 嘘はいけないよ、嘘は。パクリだろうが何だろうが、事実はどうあれ佐野氏のロゴを押し通したいという勢力もあるんだね。だけど、嘘はいけないといっても、世の中嘘でできているのは真実であって、誰しも嘘をついて生きているものだ。自分のことを差し置いて人を指さすものではない。世の中、いかにその事実ではないこと、不誠実、我欲、立場、都合というものをいかに反対のこと――事実であり誠実であり、欲や立場でやっているのではないと見せかけ、押し通すかの腕を競っているかのように見える。 その嘘の世の中にあって、良心を殺して迎合していくか、それとも良心を優先して自分が納得した人生を送っていくか試されているんだよ。どちらにもほどほどに付き合っていく手もあろうが、わしからみたら前者と同じ。別に後者でなくてはいけないとはいっていない。どうぞ、ご自由に。後者は難しかろう。だから試す価値があるのであって、簡単なことでは試しにならない。何でも試されて(負荷をかけられて)、判断されるのである。また、嘘世界を変えようとする必要はない。ここはそういうところだからだ。そこにあって自分はどうするかが重要なのであって、世界が云々ではない。 ま、そんな風に思う人もいるってことで。 追加 佐野研二郎エンブレム原案はヤン・チヒョルト展からパクったことが判明!同時に佐野研二郎が展覧会に行っていた証拠も見つかった! ttp://netgeek.biz/archives/47348
脳内メーカーだっけ。
脳の中に何が詰まっているのか、Hとか欲とか愛とか友とか悪とか画像で出るのがあったが、「金」の一文字で説明できるわかりやすい人がいる。 脳内メーカー ttp://maker.usoko.net/nounai/ 「とにかく世の中、金」であり、それ以外の(金に換算できない)価値には興味がないのでサッパリわからない。わからないこともわからないまま口を出し、見下すようなことをいっては関係者の神経を逆なでしている。唯一の価値基準は「金」だから、それ以外のことはどうでもよく、より多く稼げる自分が上なのだと言いたい放題したい放題が許されると思い込んでいる。 人として間違っている、あるいは未熟者だの馬鹿だのと非難されたところで痛くもかゆくもない。なぜなら「俺は金を持っている」から(笑)。 公人――少なくとも、みなし公人といっていい立場にあるにも関わらず、批判してくるものを口汚く罵り、クズ呼ばわりして、最後は自己正当化で終わるような人間に近づいても絶望するだけなんじゃないかと思うけど、自ら近づく同類はたくさんいるようだ。 さ、誰のことかわかりますね?
たぶん。
安倍総理の言い分に、たとえば山本議員の言い分に、感情的に――あるいは批判的になるのならそれはどちらかにずれている可能性がある。冷静に左右の話を聞けないのならどちらかにずれている可能性がある。たしかに、それは右過ぎるとか左過ぎる(不自然である)と感じることがあるが、別に怒ることはない。右はこうですね、左はこうなんですねと確認すればいいだけだ。 たとえば、音楽で言うなら同じドの音にもドの中のドという音がある。何事にも、ここしかないという一点がある。与党だ野党だというのではなく、全員でその一点を求めるべき。といっても、人間は業だらけだから、少しでも自分が有利になるように(バランス悪く)考える。そういう人間が集まってもまとまるモノはない。 一点とは、妥協の産物ではなく、誰もが納得できる“ここしかない”というポイントだ。すなわち中心である。偏ったものをみると居心地が悪く感じ、反抗したくなるのは、それが不自然だからだ。一点にいたったとたん物事がスーッと動きだし、または安定するのは、それが自然だからだ。不自然なものは瓦解する。 「イケメンに限る」ではないが、ある属性の者だけが優遇されるようなことではいけない。男も女も、背の高い人も低い人も、金持ちも貧乏人も、国も、肌の色も、宗教も、あらゆる違いの根本にある人間として共通した事柄。よほど偏った、歪んだ人でない限り認めざるを得ない絶対の一点。 右でも左でもないど真ん中。中道というのはまだ曖昧だ。絶対の一点。既成概念にはない。それは頭をこねくり回して達するたぐいのものではなく、感覚的に、一瞬でとらえるものだ。現代人は頭ばかり使っているから、この感覚を取り戻すには修練がいる。 絶対の一点というものがあることを知らず、左右しか知らないが故、いつまでたっても右と左に分かれて、お互いにオレが正しいのだと主張し、あるいは自分たちの主張に酔い、相手をコケにして――ひいては戦争をしているのだ。人類は。
おおみち礼治
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