おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
「温泉が爆発した事件で…」なんて、キャスターが言っていたけど変だよねえ。
「温泉施設が爆発」なら分かるんだけど(笑)。 それはともかく、事件の子細は警察に任すとして(事件そのものに詳しくなる必要はない。大事なのは、そのことから自分のなにが分かるか、だ)、ガスが溜まって何かの切っ掛けで爆発したということから、人間も「想いをため込んでいると、何かの切っ掛けで大爆発」、大変なことになる、ということが分かる。 …この前もねえ、普段、やさしくてそんなことをいったことなんてない人が、目に涙をためて「ばかやろうっ」と、周りに聞こえないように、ほんの小さな声で吐き捨てるように言っていたのをたまたま聞いてしまい、すごいショックを受けたのですけどね。 現象そのものをとらえて、どうにかしなくては、変えなくては、良くしなくては、とすると、ますます現象にとらわれて身動きがとれなくなってしまう。 ばかやろうこのやろあのやろう、誰でも毎日そうやって、頭の中で想っているでしょ。いや、想ったことがない、という人は、すごく幸福な人だと思うけれど、そういう人でも、不愉快な人や場面にあえば、外面はどうとでもつくろったところで、やはり想いは出る。 あのやろうと想えば不愉快になる。波紋が広がるように、その不愉快な気持ちが近くにいる人に影響を与え、その人と関わる別の人にも影響を与え続ける。 外縁にいけばいくほど、その影響は薄まるのだけれど、その過程で、別の人があのやろう、と想えば、想いを発した人と人の間でその不愉快バイブレーションとでもいうべきものが増幅され、多くの人を――言ってみれば全世界の人を不愉快にしていく。 少なくとも、自分がその基点となってはいけない。 簡単に言えば、人の振り見て我が振り直せ、ってことなんだけど、実際に自分が当事者になると、他人を非難したり、良くしなくては、とその現象そのものを相手にしてますます絡まり不自由してしまうのは、感情が先に立つからであろう。 良くしようとするのではなく、理解を持って進めば、自然と、結果的に良くなっていく。良くするために理解するのではなく、理解するために理解するのだ。
考えるとムカムカするので、思いたくもないのだけれど、同じ時間帯の透析患者で、とにかく勝手なことばかりぬかすおっさんがいるのだ。血糖値300を超えるというのに、気ままに飲み食いし、検査を拒否し、インスリンなんて絶対しない。するなら死んだ方がマシ、などとのたまい、看護師の話を聞こうともせず、大丈夫だらあ、などと「そうなった自分の原因」から目をそらし、根拠もなく決めつけて無理矢理安心しようとする。
逃げる逃げる。 こいつは、全速力で自分から逃げている。 透析ではないが、痛風持ちの友人は、目がかすむので病院に行ったら血糖300を超えていて、医者には即入院を言い渡されたが断り、自分で110キロあった体重を、薬と食事制限とトレーニングで3ヶ月で75キロまで減らし、正常な血糖値まで下げたオトコがいる。 ヤツはすごい。 それに比べ、おっさんの情けなさといったら…。 しかし、気になって仕方がないというのは、自分の中にもそれがあるからなのだ。 オレは自分から逃げているのだろうか? 糖尿になったのは、そうなる生き方をしてきたからで、冷たいようだが別におっさんがどうなろうが関知するところではない。その人の人生はその人のものであって、全責任はその人にあるからだ。 そうなる生き方、という点で、糖尿はないが、透析をしているのは同じだ。なぜ、そうなったのか、自分自身と対面し、原因を突き止めなくてはならない。いったい自分はどのように生きているのか。そうなるように生きてきた自分の原因を直視するのは、なかなかつらい。 死ぬまで逃げ続けるまでに人生どうでもよくはなっていない。 自分のカラダは自分のものだが、自分の都合では出来ていない。こうすればこうなるという、抗することのできない法則というべきものがある。 法則からずれれば、ずれたという現象があるし、沿っていれば沿った現象がある。病気になったのは、法則に依らず勝手をしているからだ。 そういう、いわば、病んだ生き方が自分にもある。 あるから、病気をしているのだから、そこは認めざるを得ない。認めた上で、では、生き方、生活のどこが病んでいるのか、法則に逆らっているのか、無理をしているのか、そうなって当たり前、という生き方なのか理解しなくてはいけない。 いや、誰しもだいたい分かっているんだよ。 本当はやめた方が良いんだけどなあ、と思いつつ続けていることとか、まあいいか、なんてちょっとしたことをないがしろにしているとか…。急に病気になるわけじゃない。何十年と続けてきたことを、方向転換するには、なかなかのエネルギーと覚悟がいる。 それができた友人は尊敬する。 自分ではどうすることも出来ず、よくない、イヤだと思いつつ継続せざるを得なかった事情もあるわけだが、命に関わるとあらば、なにを置いても転換すべきである。 しかし、なんてことだろう。 血糖値600(!)を超え、それでも会社の接待に追われて追われて、急死した人を知っている。 いまのままを続けて、どうなるのか思考停止してはいけない。なるものはなるのだから、まずそこを覚悟して識り、気に入らなければ、自分を変えるほかない。追い込まれてなお、分かろうとしないのであれば、さらなる現象が訪れるのは必然である。 …何の話でしたっけ?(^^; あ、そうそう。 自分自身と真摯に対面するのが最初、ってことですね。
某ブログに書いていた今年3月から5月の記事をアップしました。→ INDEXへ
さてさて…。 社会保険庁もコムスンもそうだけど、「ずさん」という批判について、じゃあ、自分はどうなのよ、というところに目を向けたかどうか。 そのための事件といって過言ではない。 批判する人もいていいんだけど、自分の目に入った他人は単なる他人ではなく、自分の姿として見られないのなら、生きている意味がない。 誰しも聖人じゃないし、子どもでもないのなら、叩けばホコリが出るのは共通している。自分に付いたそのホコリ、今回の例でいうならば「ずさんさ」を払えばいいのであって、自分を見ずして、他人のホコリを批判するなど本来おかしな話だ。 発したものは必ず返ってくるのであるから、そこのところよくよく理解したい。
またまた久しぶり。
メールをいただいたので、書いてみます。 んーと。 この日記は、表で(本名で)書けないというか、書かないことを書くためのスペースとしてとってありました。ほとんど存在を忘れていることもあって、更新は滞ってますけれどもね(^^;。 最近は、そうねえ。アフィリエイトに力を入れるようになって、アドセンスで少しだけかせげるようになりました。お小遣いとしてはいいんですけれども、本業としては話にならない。 まあ、ちんたらやってますからねえ。あほぅだから、そんな余裕はないと思っても、戦略が立てられず、行き当たりばったりでやっているので、思うようになりません。 透析は13年目に突入。 なんとなく世間とのずれというか、透析をするとはどういうことか、理解してもらおうにも、しょせん他人事であって、難しいと感じられます。 そんななか、最近「新・ブラックジャックによろしく」という漫画で、昨今、世間様を騒がした移植がとりあげられ、読んだ方には、透析についても、こんなもの、ということが多少はおわかりいただけるのではないか、と思います。 本屋さんで見つけたら、読んでみてください。 いや、実際に透析をしているワタクシから見ると、つっこみどころがけっこうあるのですけどねえ。 そうそう、プランターに植えたミニトマトが実を付けて、もうじき食せそうな感じ。食用ほおずきなるものも植えたのですが、こちらは葉っぱがわさわさするばかりで、実の方はいつのことやら。 メロンも植えたのですけれど、どーも、接ぎ木したカボチャが伸びてしまったらしい。(笑) 放っておけばいいかな。
おおみち礼治
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