おおみち礼治のてくてく日記
DiaryINDEXpastwill


2005年07月12日(火) 病気の理解

 血液検査の結果を見て、看護婦さんが「PTH(骨を溶かすホルモン)の値が上がったら、副甲状腺を手術で取るんだけど、そうなる前に薬もあるし、注射もあるから大丈夫」という。
 それで安心する人がいるのかな?
 薬や注射で、根治するわけではまったくない。薬の効きが悪くなったら注射。注射でもダメなら、手術になるのだから、意味がない。手術で根治するわけでもない。
 これが現代医学の現実であり限界なのだ。対処しているだけである。いまある現象(病気)について分析することは出来ても、そもそもなぜそうなったのか、という点について、まったく無力なのである。
 これは、現代医学の立脚している位置が間違っているからで、その立ち位置を変えないかぎり今後どんなに医学が発展しても、病気はなくならない。
 例えば、ES細胞から自由に臓器を作ることが可能になったとする。機能不全に陥った臓器と交換したら、完治するのかというと、しない。医者は完治したというだろう。しかし、病気になった理由は放置されたままである。
 この状況を、ものすごく簡単に例えるなら、硬い岩壁を素手で殴り続けたら手がダメになったので交換しました、でも、殴るのはやめません――というのと同じである。当然ながら、また手はダメになるだろう。

 病気は治すのではなく、消すものである。
 消すとは、上記の例でいえば「殴るのをやめればいい」という理解である。最初から分かっている人は、手を痛めたりしない。病気の理解とは、自分自身の理解である。自分がこうだから、こうなったのだ。善悪ではない。自分が悪いのではなく、常に自分が原因ということだ。
 それは、自分の最も認めたくない、触れられたくない部分であったりするから、命懸けにならないと見えないし、変えようともしない。多くは、対処するだけで、何も理解することなく過ぎてしまう。
 それではダメだ。
 せっかく、病気になれたのだから、懸命に理解に努めるべきである。


おおみち礼治 |MAIL

My追加