おおみち礼治のてくてく日記
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2004年07月27日(火) ■いいわけ■メガネ

■いいわけ
 このまえの、辛口性格診断のいいわけをします。(笑)
 生真面目なのはそう。ナイナイが出ていた27時間テレビの前フリ番組(?)で、各地方テレビ局の社員が中学生程度のテストを受けていた。その中で、鬼のなんとか、と呼ばれる大変厳しそうな管理職の方が出ていたのだけれども、見ていて、私はそういう感じなのかも知れないな、と思った。確かにあれでは面白くも何ともない、柔らかみのない、余裕というものが感じられない、生真面目としか言いようがありません。
 非難しているわけではありませんよ。ただ、もう少しくだけた感じになれるといいなぁ、と思ったわけです。内的には、変なことを考えてヘラヘラしていることもあり、それが文章に現れることもあるから、決して生真面目一辺倒というわけでもないと思うのだけれども。

 ちょっとこのことで怒ったり、イライラすることは確かにある。というか、そういう性質があることは知っているから気を付けるようにしている。
 でも、それが原因で爆発することはありませんね。怒るというより、しょーがないな、と呆れるといったほうが正確かな。ただ、感情がたまるのは確かなようで、現実ではなく、夢の中で半年か一年に一度くらい、怒り狂っている夢を見る。
 ハッキリとは覚えていないのだけれども、相手が、もー、何を言っても聞く耳持たなくて、それは何々のせいでしょ、自分は関係ない、という顔をしているのだ。私から見たら、あなたがそうしているからそうなったんだろう、とハッキリ分かるので、そこを言うのだが、まるで分かろうとしないのだ。で、頭が真っ白になって気が狂ったかのように怒り続ける――という夢を見ることがある。それで発散しているのかもしれない。
 最近は、物事をとらえることが少なくなってきて、いちいち他人のことでイライラしてもしょうがない、その人はいまそういうレベルのことをやって分かることがあるのだから、と流せるようになってきたとは思う。それが、気を付けているということなんだけど。

 自分に自信がなく、さみしがりやで臆病。弱い自分を隠すために、他人からはずれてでも「強い個人」を演出――って、まあ、その通りですね。
 よく当たるな。
 ところで、ときどき、都合の悪い結果に対して怒る人がいるけれども、それはお子さまの証拠。そういう人が社会ではまともに扱われません。だって、お子さまなんだから。受容しなさいね。かといって、卑下することもない。ただ、受け入れる。
 それはともかく、強い個人を演出、という箇所には少し異議がある。
 体調が悪くても、無理に人に付き合ってしまうことがあるのは、寂しいから。これが「強い個人の演出」ともいえるが、強く見えるわけでもなんでもなく、ただ、そこにいるだけなんだよね。
 私としては、常に体調が悪い状態だから、無理をしなくては普通に飲みに行ったり遊びに行ったりすることが出来ない。自分の体調を最優先にすれば体が楽なのは間違いないが、その分、人付き合いが出来なくなる。
 どうバランスをとるかが難しい。

■メガネ
 レンズを光にかざしてみると、横に細かな傷がたくさん入っていることに気が付いた。お金がなかったので、なかなか行き出せなかったのだけれども、やっと行きつけのメガネスーパーに行ってまいりました。
 フレームを変えてから、まだ3年くらいかと思っていたのだが、もう5年になるらしい(お店のデータベースですぐ分かる)。うげげ。いったいいつの間に……。
 レンズを磨いてもらったが、やっぱり傷は消えない。レンズだけ変えようと思っていたんだけど、「5年もたつと流行りも変わりますから。イメチェンされては」と言われて簡単にその気になり、予定外だけど新しく購入することにした。
 で、選んだのは銀縁の四角いフレーム。店員さんが「知的に見えますよ。うへへへへ……」などというので、すっかりその気になり、やっぱり簡単に決めてしまいました。
 目の検査をしてもらったところ、現在のメガネをかけていても0.2か0.3しか視力がないことが判明した。
 これで車を運転しているんですけどねぇ。
 そんなに見えていないとは思わなかった。度数を7段階アップさせて、0.9くらいになるレンズにする。これだけ視力がないと、普通のレンズでは、それこそ牛乳瓶の底みたくなってしまうので、屈折率の高い、いいレンズ――つまり価格が高くて薄いレンズを選ばざるを得ない。
 すこし色も入れてもらい、技術料込みでおよそ6万円。

 うっふーん。
 って、なんのこっちゃ。
 身につけるもののなかで、いちばん高額ですね。眼鏡をかける人は、けっこうそういう人っていると思うんだけど。
 仕上がりは一週間後。知的なおおみちの出来上がり……であることを祈る。


 前回も同じ店で買ったのだが、前は実際にフレームをかけてみても、レンズの種類を見せられても、どれにすればいいんだかサッパリ分からなかった。
 気に入ったものを選ぶとか、良いものをとか、そういう当たり前のことではなく、とにかくなんでもいいから早く買って、店を出てしまいたい、という気持ちが勝っていた。
 普通の人から見たら、なにそれ、という感じだと思うのだけれど、人が苦手――というのは、私はつい人に合わせすぎて自分を見失ってしまうので、人がいると、居心地が悪くて仕方がないのだ。自分がなくなってしまうから。

 今回は、わずかながらだけれども、感じる力を引き出して自然に出来たと思う。良い買い物が出来たとも思える。前は、買ってきてもこれで良かったのかどうか不安に思ってしまったからね。

 人間は、無意識からくる直感や感覚を信じられないと分裂してしまう。思考なんて、外からの情報を自分のもっているフィルター――既成概念といっていいかもしれないが、そういうものを通してまとめ上げただけのものであって、思考によって得た回答が自分なわけでは決してない。思考には限界がある。なんでも思考で片づけられはしない。
 それなのに、自分(感覚や直感で得た、自分の「心地良い感じ」とでもいうべきもの)を無視し、自分がないまま、思考に頼って外側の「こうあるべきこと」という答えをもって動こうとするから、わけがわからなくなってしまう。

 頭のいい誰かの答えを探して動くのではなく、自分の感覚を信頼することが自由自在への第一歩だろう。普段、いかに頭の中だけで生きているかが分かった。日常、よく自分を見つめ、感じて素のままパッパッと動けるようになりたいものだ。
 って、希望を述べていても仕方がない。
 実際に、いますぐ、そのようにすることだ。動くことだ。


 もうひとつ。
 いやー、貧乏くさいというか、汚いというか(^^;、そこまでいかないにしても、自分のイメージと鏡に映る自分との落差に、ちょっと驚いてしまいました。
 まだ3年くらいで、新しいと思っていたメガネが、知らないうちに5年にもなっていた――中学に入ったばかりの子どもが、18の青年になるほどの時間がたっていたのかと思うと、愕然とします。
 確かにもう若くはないのだ。
 自分の顔に責任を持つ、ということをしなくてはならんのだな、と思ったわけです。

 メガネスーパーに行ってきただけで、こんな事を考えてしまうのは、自分でもある意味すげいな、と思うが、それと同時に、下らないことを言い合ってゲラゲラ笑いあう人も時間もないなぁ、と思ったりする。
 そういうのって、バカにしていたからね。
 あってもいいかもしれないし、それどころではない、とも思う。ま、いいか。目の前のことを坦々としていくしかありませぬ。


2004年07月18日(日) ■この世は私のためにある■ハッコツ温泉■日本に到着■辛口性格診断

■この世は私のためにある
 「ウーララ、ウーララ、ウーラウララ」って、山本リンダの曲があるでしょう。テレビをつけていたら、その曲が流れてきたのだけれども、この歌詞で言いたいのは「この世は私のためにある」=「この世は、私につくすためにある」という意味であろう、と。
 誰もが経験により、そんなはずはないことを知っている。しかし、「この世は私を鍛えるためにある」といえば、その通りかもしれない。

 人間的には、健康で、体力もあり、お金もあって、容姿にも優れていて、学歴もあり、社会的にも尊敬されるような仕事についていて、性格も明るくて、異性にもてて……なんていう人生を望むと思うのだけれども、これもまた、万事そううまくいくはずもない。
 もし、そのように見える人がいたとしても、それは一方的な見方に過ぎず、見えないところで人知れず苦労や悩みがあるものだ。
 人間の理想や都合は、ときにいとも簡単に粉砕され、不運を嘆きたくなるが、「この世は私を鍛えるためにある」のであれば、理想も都合も、人間を鍛えるひとつの道具に過ぎないのだな、と分かる。
 理想を追い求め、都合のいいように事が成るよう望み、動くのはいいけれども、この世の本質はそこにはない。だって、鍛えるのが目的なら、鍛え上げられることが本質だということになる。その結果、求めるものが得られるのであれば、求めるものに一直線に向かうのではなく、本質の方をやっていけばいいのだ。
 鍛える(本質)とは、世の中――といっても人間が作りだしたせせこましい、いわゆる世間のことだけではなく、当たり前のこと、を理解していくことにある。ただし、自分を中心に考えること。一切、人のせいにしないことが最低限の約束事だ。だって、「この世は「私を」鍛えるためにある」のだからね。

■ハッコツ温泉
 中学生くらいのときさー。面白い地名はないか探したことってありませんか?
 そのとき見つけたのが、いま話題の「白骨温泉」であった。
「おー、すげーよー、ハッコツオンセンだってよー。うひゃひゃひゃひゃ」
 などとバカが顔つき合わせて笑っていたことを思い出してしまった。「しらほね」温泉だったんですねー。(爆)

 このニュースから、いくつか分かることがあると思う。
 いやーばれちゃいましたねーと嗤ったり、サギじゃないか! と怒っても意味はない。自分はどうなんでしょうか?
 前も書いたけど、まあいっか、といい加減にしていることはないかどうか。もし、ばれたらどの程度の問題になるか分かっているかどうか。大丈夫だろう、とたかをくくっていることがないかどうか。嘘をついて、人を騙し、信用を裏切っていないかどうか。
 そんなニュースばっかでしょ。あれはおれだ、と思えばそのようなことはなくなるのである。そこが肝心なのであって、他人がどうかは自分の後のことです。

> 長野県では、「温泉法には湯の色に関しての項目はなく、触法行為ではない」としている(産経新聞)

 すぐに、法律の問題にするのはどうかと思う。法律に違反していない=すべて許される、ということでもないだろう、と。じゃあ、法律以前の、常識やマナーなのかというと、そういう言葉でくくるのもイヤで――だって、そんなの当たり前、自分がそうされたらどう思うのか、という、ものすごくベーシックなことであって、マナーとかなんとか、言葉にすることですらないと思うからだ。これは、多分、言葉にすると、そうしなくてはならぬ、という固定観念と強制力を感じるからで、私などは、もっと自然にすればいいじゃん、と思うのですけどね。

 法的な問題ではなく、そうしていたらどうなるのか、という当たり前のことを考えられていないのが問題。
 まったく関係ないようだが、この前、ハワイに行ってきた人から聞いたのだけれども、ツアーのバス運転手が、片手でハンドルを握り、もう片方の手でマイクを持って案内しているので、それは危ないのではないか、と言ったら、運転手は「こういうスタイルは法律で認められている」と答えたのだそうだ。
 実際、危ないのに、自分は正しいと法律を持ち出して証明(?)しようとする。かたくなに自分のやり方を押し通そうとする。法律云々ではなく、「危ない」んですけど……。法律に抵触していない、という理由で勝手をしていたら、いく先々で困るのは、結局、自分でしょう。

 法律もいいが、そういう問題ではない。
 その現象を招いた「自分がまずある」。触法行為でなければいいのではない。世界は自分を中心とした、必然の賜物である。その賜物をどう招くかは、己の生き方ひとつにかかっている、と思うのです。

■日本に到着
 テレビをつけたら、そればかり。マスコミは騒ぐのが仕事だから、騒ぐだけ騒げばよろしい。私はしないけども。どこかにさらわれたとか帰ってきたと聞いても、別に嬉しくもなければ哀しくもない。本当に嬉しければ、何をおいても空港に迎えに行っている。連れ去られたことに本当に怒りや哀しみを感じるのなら、助けるために某国に潜入していた。
 それをせず、ただ垂れ流される情報に浸かって、よかったですねぇ、なんて言うのは、それは偽善者である。
 自分が、偽善者であることを認識できない人が多いのは、「本当に」という意味をたいへん甘く認識していることと、普段から「本当」「真剣」というものに触れていない、もしくはやっていない証拠である。そうやって生きて満足ならそうすればいいんだけど(いやみっぽいな)。

 偽善をいくつ重ねても善にはならず、むしろ悪になってしまいかねない。
 このニュースに関しては、冷たいようだが、もう好きにして、としか言葉が出ない。それなのに、勝手な感想を抜かす輩が多くて、うるさくてかなわない。
 自分の手の届く範囲での事件なら、これはもう大変なことだけれども、そうじゃないからね。私にとっては、自分の健康と仕事の進み具合の方が、100兆倍も重要です。

■辛口性格診断

 http://www.jmrlsi.co.jp/cgi-bin/ego/diagform.pl
 をやってみた結果……


困ったことにあなたは「かんしゃく玉」タイプです。このタイプの人は生真面目すぎるために心配性で不安にのみ込まれやすい性質を持っています。常識があり、曲がったことが嫌いなので規則や規範を大切にし、そこからはずれることはありません。何事も厳しい批判力、強い責任感で見てしまうために、ちょっとのことでもすぐに怒ったり、いつもイライラしがちです。イライラが高じて過食にはしることもしばしば。追求の姿勢から対人関係においても、相手の立場を考えることができず、ついつい攻撃的な態度をとってしまいます。その一方で「人によく思われたい」という気持ちも強いあなたの心のなかはいつもモヤモヤ。しばらく感情をためこんでいるとついには大爆発!誰彼かまわず罵倒してしまい手をつけられない状態になってしまいます。そのため周囲からはうるさがられることも・・・。このタイプの人は本当は自分に自信がなく、さみしがりやで臆病なのです。弱い自分を隠すために、他人からはずれてでも「強い個人」を演出し、そんな自分を誰かに認めて欲しい、理解して欲しいと思っていますが、もう少し許容範囲を拡げないと自分自身が損をしますよ。


 うへへへ。


2004年07月10日(土) ■ロボット自動車

■ロボット自動車
 5月に「ロサンゼルスから約160キロ離れたモハーベ砂漠で13日、無人型ロボットの自動車レースが開催されたが、出場した15台全てが完走できなかった」というニュースがあって、この間、NHKで特集が組まれていた。
 中にはロボットオートバイを研究している人がいて、最初はすぐに倒れていたのが、しばらくすると、かなりの時間、自動的にバランスをとりながら走れるようになっていたりした。すごいことだと思うし――二輪が元気よく勝手に走っていくのを見るのは、気味が悪いような、滑稽で笑えるような気もする。まあ、さすがにそんな元気に走っていくというところまではいってなくて、よろよろしながら何とかバランスをとって前に進んでいるという感じだったけどね。
 なぜ、このようなレースが行われたのかというと、結局は軍事目的なわけで……これは、想像すると恐ろしいものがあります。この技術が完成して実用化したときには、人間が一切、戦場に赴くことなく、ロボット戦車たちが命令されるまま他国に攻め込み、容赦なく人を惨殺していくというのは、まさにターミネーターの世界だからです。
 しかも、無知で傲慢で、戦争大好きな国が、そんなものを持ったら、どういうことになるでしょうか? 完全に、人間が戦場に行かないで済むことは無いでしょうが、今のように、人間――命があり、家族もある生きている人間を大量に送らなくても済むということは、より気軽に(?)戦争できることになります。

 開発している人たちは、これは将来すごい(軍事的な)ニーズがある=すごい金になる、と思ってやっているわけだけど、自分の作ったロボットが他国で人を殺しまくることになるかもしれないことを、どう考えているのでしょうね。金になりさえすれば、他人の命なんてどうでもいいとでも思っているのでしょうか……。
 もちろん、この技術が民間に転用され、目的地まで自動的に走ってくれる車なんて出来たら便利でしょう。しかし、夢があっていい、などと、ボンヤリしたことを言っている場合でもありません。

 日本のロボット技術は、介護や福祉に優れているといいます。同じロボット技術でも、国によってまるで違うものを作ろうとしていることは、興味深いことです。


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