おおみち礼治のてくてく日記
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2004年04月27日(火) ●いまさらだけど

●いまさらだけど
 自衛隊、サンダーバード化計画。
 国際救助隊ですね。
 ……だめ?(^^;

 自由の裏には責任が張り付いている。なんで? といわれても、人間の作りだした法律やら社会システムに関係なく、世界――というより、宇宙自体(といってもいいと思うんだけど)がそのように出来ているのだから仕方がない。責任を否定した自由を、自分勝手という。立場によって容認される度合いは違うかも知れないが、何人たりとも押し通し続けることは出来ない。頭で否定したり、あるいは無視したとしても、そうすればそうなって当たり前という絶対的な法則が働くべきときに働き、否応なく相応の責任をとらせるからだ。

 ひとりひとりが、自分の身の回りのことをキチンと行っていれば、環境は自然と整ってくる。水にしずくが落ちるように、内側(自分のこと)が整えば、その影響は外側に波及する。すべてを救うことは出来ないが、自分を中心とした半径何メートルかの人間は、自分を整えることで、同じく整えてゆける。自分を救うだけでいいのだ。もし、これが逆で、外側が整わなければ内側が整わないとしたら、永遠に自分だけが整わない。外側は限りなくあるからだ。だが、安心すべし。そんな法則はない。
 内側を整え、快適に生活していれば、どうしてそんなに安定しているのですか? と相手の方から見に(学びに)来るだろう。自主的に、というところがミソである。他人のことに首を突っ込む必要はないと分かる。

 それはともかく、正義感からか、誹謗中傷がひどい。この事件から(法則と自分自身の)何が理解できるかが大事であって、批判(というより罵倒)すればいいというものではない。無謀だったのは確かだけれども、自分の行動について迷惑をかけたことをちゃんと謝ったのだし(批判的な人をさらに刺激するような発言もあったが…)、そこで終わりにすべき事ではなかろうか。あまりの誹謗中傷に耐えかねて、早まった考えを起こされたら、どうするのでしょうか。それこそ、ものを言うにも責任というものがある。
 「汝ら罪なき者この女に石を投げよ」とはキリストの言葉でしたっけ。誰だって、間違いを起こす可能性はある。そのとき、ミソ糞に罵倒されたいなら別だけど、そんなことは誰も望んでいまい。しかし、そうされるとしたら、それは自分がそうしたのである。言わなくてはいけないこともあるが、程度というものがある。発したものは返ってくる、という法則を理解するだけでも、だいぶ違った世界になると思うんですけどね。

 さてさて。
 自分を快適に。


2004年04月13日(火) ●感情について●神観

●感情について
 自分ではポーカーフェイスのつもりだったんだけど、そうでもないらしい。
 人に「今日はなんだか嬉しそうですね。いいことあったんですか?」なんて言われて、はじめて、「そうか、おれっていま嬉しいんだ」と認識することがある。典型的な内向思考タイプだからねぇ。思考の反対側にある感情には疎いらしい。
 もう12、3年前、腎不全で透析をしなくてはいけなくなるかもしれないという時、まだ会社員だったんだけど、上司にそのことを相談していたら、声が詰まってちゃんと話せなくなってしまったことがある。それまで、別に大したことじゃないと自分に言い聞かせていて、本当にそう思っていたと思っていた(ややこしい…)のだけれども、実は相当に参っていたのだね。
 どうしてこんなことを思い出したのかというと、ある人のことが好きなのかどうか分からなくて、ちゃんと対応というか、行動できないでいるオレってなんだろう、なんて考えることがあって。
 感情は、もちろん思考ではないから、好きなのか嫌いなのか頭で考えたって答えは出ない。ところが、感情的なことにも、得意な――というより自分の傾向である思考をつい使ってしまうのだな。思考で答えが出るとすれば、それは損得であって、好悪とは違う。
 疎いのに、気が付いているということは、そういうことなのかもしれない。なんだか、何度も(?)チャンスを逃しているような気がする……。

●神観
 目には見えないけれども、自分を背後で守ってくれている存在というものはあると思う。宗教には入っていないけれども、自分なりの信仰はある。
 宗教(という人間が作りだしたもの)については、やっていること見れば分かるようにこれは悪であり、また、そうではないと認めても人生をかけてやるようなものではなく、趣味のひとつのように、あればあったで面白いかも、という考えである。宗教をやっているあの人のようになりたい、と思うことってないからね。大したものじゃない。

 教義という、外側の教えに縛られて不自由な思いなどしたくない。そんなものに依らなくとも常に答えは自分の内にあるのだ。外に答えを求めたら洗脳されるだけである。
 よく人間は神の子といわれるように、自分が神の系統であるなら、わざわざ外側の神様を拝む必要はない。単なる事実として、自分がいなかったら、神も宇宙もないのである。
 人間は完全である。外側から何か付け足す必要はなく、むしろ付け足したものが邪魔をして、本来ならば見えるものが見えなくなって不自由しているのが人間であるように思う。余計なもの――宗教用語を使うなら、「業」を取り省いて、元々ある光り輝く本体を現すことに注力していけばいいのだ。

 自分が神であるなら、想ったことは成るのである。瞬時に成らないから分からないのであって、長いスパンで見たら、都合のいいことも悪いことも、想ったようになっている。ただ、想い(原因)と現象(結果)の間には法則があり、意識は法則によって現象化されるので、法則を知らないと、とんでもないことになったりする。
 神様は、個々の人間自身が作りだした原因を元に(法則に沿って)着実に現象化している。聞けば現象から教えてくれる。自分がすべてを招いているのだが、そこを認めないで、人のせいにしているとおかしなことになってくる。都合の悪いことの原因とは、弱さや未熟さ、身勝手さなど、最も見たくない(精神的な)恥部であったりするから、認められないのも無理はないけどね。しかし、受け入れなくては、先に進めない。

 どんなに信仰しても、良くならないのは、自分がそうすればそうなるという絶対の法則を知らず、法則を無視した生活を送っているからだ。盲目的に、ただ神様に手を合わせていればいいというものではない。キチンと見て――自分を知り、そうしたらどうなるのかという法則を知った上で、手を合わせるのが筋である。デタラメな生活をしていながら、信仰で何とか埋め合わせできないかなんて手前勝手な法則はない。
 ある本に「つらいことが多いのは感謝を知らないからだ。苦しいことが多いのは自分に甘えがあるからだ……」なんて言葉があったけれども、そうじゃない。つらいことが多いのは無知だからだ。苦しいことが多いのは無知だからだ。ここでいう無知とは、もちろん自分と法則についてである。
 信仰を含めて、人生に特効薬なんてない。現象はゆっくりと現れる。坦々と法則に沿ってやることをやり、やめることをやめて生きてゆくしかないのである。


2004年04月10日(土) ●困ったお姉さん

●困ったお姉さん
 今日は、ある方の講演会に行って来た。
 で、会場の設営などのお手伝いをしたのだけれども、会場のスタッフがちょーっとよく分からないというか、人をイライラさせるお姉さんで困ってしまった。わしのような温厚な人間なら、だまってハイハイいって流してしまえるけれども、このお姉さんと同じようなタイプ(レベル)の人だったらケンカになったんじゃないかね。
 性格なのか、それともそういうように教育されているのか知らないけどね。

 月水金と火木土の担当者が違うようで、12時に来ますので鍵を開けてください、という話しになっていたのがまったく通じていなかったらしく、鍵を取りに行ったら担当者が食事に行ってしまって分からない、と言われてそのまま30分近く待たされたり(失礼な!)、帰りも、ホワイトボードを片づけようとしていると、「このままにしておいてもらっては困りますので」などといってくるのだ。
 片づけようとしているのですけどね、見ていないんでしょうか。始終、この調子で――何も問題になるようなことはしていないのに、いちいち、こうされては困る、あれは言いましたよね? などと人を責めるような、馬鹿にするようなことばかり言うので不愉快だった。
 おとなしそうな顔なんだけど、大らかさや余裕というものがまるで感じられない。主催者も気が付いていたようで、終わった後で「あそこは二度と使わないから」と言っていた。

 お姉さんは、自分の発言や行為が人をイラつかせていると気が付いているのかな。少しでも噛みついてきたら、「私は規則について言っているのだから、そんなことをいわれても困る。私が何か悪いことをしたのですか?」なんて、怒鳴り散らされそうだった。
 もしかすると、そうやってストレス発散したがっているのかもしれない。人がイラつくことをワザと言って、噛みついてくるのを誘っているのかもしれない。規則だといわれたら、こちらはその会場を使用する以上逆らえないから、そういう意味では(負けないから)誘い放題だしね。
 しかし、これは明らかに悪循環であって、ストレス発散できたとしても、マイナスの満足と、規則――その会場でしか通用しない小さな正義を振りかざして人を不愉快にするイヤな女という評判を強固にしていき、また、お客さんも減らすことになるのだから、彼女自身にとっても雇っている会社にとっても不幸である。

 元はといえば、彼女自身の言動なり行為が原因となって、ストレスになるような人間関係を招いているのだから、そこ(自分)を徹底的に見つめなおすべきであって、お手軽に(?)内側の見えないイライラや不満を他人にぶつけ、傷つけて、解決しようとするのは良くない。それは解決にはならない。その生き方のまま、10年後、20年後、どうなっているだろうか?
 これもまたしかし、自分が何をしているのか分からない、のだろうな。自分がどう生きているのか分かっているかどうか。そう生きていたらどうなるか分かっているかどうか。
 時間はあっという間に過ぎてゆき、知らない間にオジサンオバサンになり、気が付くと体が自由に動かなくなって、悩みも何も解決せず死んでいく。いや、単なる事実として。そんなことをしている場合なんだろうか?
 焦っても仕方がないけど、自分のことだけは分かっていきたい、と思いました。


2004年04月07日(水) ●ネットショップ(その5)●落ち度?

●ネットショップ(その5)
 いやー、ぜんぜん売れませんねー。(笑)
 この間、申し込んだメールマガジンへの無料一括投稿だけど、受信数がシャレにならなくなってきたので、メアド自体を削除した。だって、1日2千通以上届くんだよ。前も書いたけど、内容は広告――楽して儲けようというようなサイドビジネス情報が圧倒的に多く、しかも最近流行のウイルス、Netskyがじゃんじゃん舞い込んでくるのだから、たまらない。さすがに、いいかげんにせーい! と思いましたよ。最初は、投稿内容が反映したら、そのメルマガを解除する、なんて真面目にやっていたんですけども。とても対応できません。
 宣伝したい人しか登録しないようなメルマガを発行し、独占広告なんていってお金を取っている。内容は、おそらく投稿をプログラムが自動的につなぎ合わせただけのもの。リソースの無駄使いだよなぁ。

 ヤフオクに出品してみました。これはどこかにまた書きたいと思うのだけど、みんなとにかく安いものに飛びつくんだよね。それと、売れる定番商品があるみたいだ。
 日本のサプリメントというのは、あくまで「食品」なので、法律の不備により、それってホントに「健康食品」といえるものなのか? と疑問に思う製品は山ほどある。
 消費者は、いいかげんな製品を見抜く力を付けた方がいいと思うのだが、分かってない人が圧倒的に多い(と思う)。安ければいいというものではない。だからといって、高ければいいわけでもない。製品の善し悪しは、価格だけでは判断できない。
 出品されている商品を見ていて驚くのは、定価の半額以下、下手をしたら10分の1くらいで「落札」されているものがあることだ。注目されるために1円で「出品」するのは分かるが、最低落札価格が設定されていなかったりする。消費者としては、これお得! と思うのかも知れないけれども、ちょっと待った、その商品の原価っていくらなんだろう?
 もらい物を、使わないので出品しますとか、赤字覚悟だとか、高く売れると分かっていてやっているならいいが、定価の10分の1で売れても利益が出るなら、原価はさらにそれ以下だということになる。安い原価の製品を安く売るならいいし、消費者もその程度のものと分かって購入している……かどうかは分からないが、ともかくそれ相応の価格なら何も言うまい。しかし、原価の10倍以上の定価をつけておいて、安く出品し、お得に見せるのは許せん。
 安物は安物でしかないのは確かだ。中には9割以上が添加物で、目的の有効成分は数パーセントしか含まれていないなんてものもある。知ってました?
 高い製品でも、有効成分は証明できるものか、含有量はどうか、原材料は安心できるものか、製法はどうか(有効成分を壊していないか)を確認できないものはやめた方がいいでしょう。食品といっても、有効成分が目当てなのですから、しっかりしたものを選んでください。

●落ち度?
 ひどい奴! と思われるだろうからハッキリ書かないけどね。
 ある施設を利用しようとして、ケガをしたり、最悪死んでしまった場合、その施設を管理している会社や、施設を作った会社が非難される。
 管理会社にとっては管理会社自身に落ち度があった。製作会社にとっては製作会社自身に落ち度があった。それは間違いない。だが、被害者にとっては管理会社と製作会社に落ち度があった……のだろうか?
 たまに、電車やファミレスなんかで、子どもが騒いで他の客に迷惑をかけているのに、親は知らん顔で、おしゃべりに夢中になっていたり、無視しているのを見かけることがある。
 そういうことじゃないんですかね。

 テレビに向かって吠えるだけでは何も進歩がないし、この出来事自体の意味も薄れる、と考えます。
 そうしていたらどうなるか? それでいいのかどうか? 常日頃、自分の身近な出来事におきかえてシミュレーション(理解)すべき。死んでからでは遅いのです。
 初めから問題を発生させないように生きるのがベストでしょうか。いまの人は都合の悪いことはすべて他人のせいにして争うのが当たり前みたくなってきているけど……それじゃ、人間はどんどん馬鹿になります。アメリカでは、木に穴を開けるようなドリルの注意書きに、「これで歯を磨かないでください」と書いてあるという。でも、そんなことする奴って明らかに馬鹿でしょ。ドリルが問題じゃない。なのに、注意書きがないと、ドリルを作った会社は賠償金を支払わなくてはならない。馬鹿の一人勝ち。そうであるなら、誰も物事を理解しなくなる。分かっていて訴えているのなら、それは「イヤらしい」というのだ。

 この間、飼い猫の前足を後ろから抱え上げて伸び伸びにしたら噛みつかれたのですけどね。(^^; 猫がいやがるような事をしたのだから、ゴメンね、と謝るのが本当。ところが、馬鹿は、何をするんだ! とさらにいやがることをする。
 自分が何をしているのか分からない。
 話しがずれてきましたが、本質的な話しとして、招いたのはすべて自分であって、誰かが問題なのではないと言いたかったわけです。
 でも、これからますます良くない傾向――自分は正しくて他者が悪いとする争い事が様々なレベルで起こり、何も解決しない、泥沼な世の中になっていくのでしょう。ニュースや身近な出来事からシミュレーションして、そういうものに巻き込まれない生き方をしていきたいものです。


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