おおみち礼治のてくてく日記
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2004年01月31日(土) ●200億円

●200億円
 大発明の報酬が2万円では哀しい。すぐに成果を認め、特許の所在についてハッキリさせた上で、誠意を持って宝くじの1等くらい、どーんと渡してあればこのような裁判は起こされなかったんじゃないかな。
 この判決が確定となった場合、じゃあオレも、と裁判を起こすお金の好きな科学者がたくさん現れそうだ。そうなったら大変で……まあ、そうそう大発明なんてないから、今回のような桁外れの数字が出てくることはあまりないだろうけど、それでも何千万、何億という金額が当たり前に出てくることになり――すべての発明や特許の報酬を、(いまさら)会社が個人に支払わなくてはならないとしたら、無茶苦茶になりかねない。下手をしたら会社どころか社会が混乱する。
 発明できたのは個人的能力のたまものであったとしても、自前で研究費用を調達したわけではなく、同僚や上司や部下たち、各部署で働いている人すべてがいて成り立っている会社というものがあった上でのことなんだから、オレが発明したんだ、とまったくひとりの手柄のようにいうのは感心しない。
 いや、この辺は報道のされ方に問題があるかも知れないけどね。
 発明に関してキチンと契約を交わしていなかった両者の責任、ノーベル賞級の発明に対する報酬をわずか数万円で済ましてしまっている会社、という現状に対して、一石を投じたという意味で「それでいい」と思うが、この判決がまかり通って万事オッケーとは思わない。
 もうひとつ、「発明をするとお金がいっぱいもらえて子どもたちも云々……」という発言には違和感があった。正当な成果報酬を得ることに異論はないし、それでやる気が出るというのも分かるが、あくまでお金は結果に対するものだからね。お金が目的でエンジニアを目指すのだとしたら寂しい。別にお金が好きなのはいいけど、世の中とにかく金だ、という人ばかりではないのだし。


2004年01月27日(火) ●隊長●世界の基本は自分

●隊長
 町内会の青年団で隊長を決めるという段取りがあり――働き始めてから35歳までは、強制的に青年団員ということになるのだけれども、実は私は入っていない。
 学校を卒業し、就職してから透析を始めるまでの数年は活動していた。年末に、真っ赤に塗られた軽トラに乗り込んで、取り付けられた拡声器に「火のよーじん」などと言って町内を回ったりとかね。
 だが、透析を始めて、肉体的にも精神的にもそれどころではなくなってしまい、その時から私の代わりに弟が出ている。いまはだいぶ落ち着いて、決して活動に無理があるわけではないが、なんとなくそのままになってしまっている。
 いや、すまんすまん。
 で、まあ、私の代わりだから青年団で弟は35歳扱いになっているわけで、来年度の隊長をその35歳組から出さなくてはならない。その集まりが先日あったらしい。
 そこで、みんなウダウダ言ったらしいのだな。やりたくないから、仕事が忙しいとかなんとか。みんな働いているのだし、条件は同じはずなんだけどね。で、あんまり、ダラダラ言っているんで、弟が切れて「おまえら、そんなにやりたくないなら、オレがやってやる!」と怒鳴って書類をたたきつけて帰ってきたというのだ。
 真面目なヤツだからねぇ。しかし、ポーカーフェイスの弟が感情をあらわにしてあんなに怒ったのを見たのは始めてかも知れない。よほどひどかったんだろうね。「まったくろくでもないやつらだ」とうなっていた。

 しかし、考え込んでしまったよ。地域社会のつながりなんて、田圃が広がりコンビニがひとつもないような田舎でさえ、その程度なのだ。いかに逃げるか、責任を回避して美味しいところをいただくか、ということしか考えていないのだから情けない。
 弟にそういう態度に出られて、同席した人たちがどう思ったのかは知らない。恥じ入るようならまだいいけれども、隊長が決まって表面的に申し訳ないような顔をしても、内心で舌を出しているのだとしたら哀しいことだ。
 しかし、じゃあ、隊長になった弟の代わりに、もう元気になったから復帰しようとか、そういう気概が自分にあるのかというと、ぜんぜんないので(爆)、同級生たちを責めるわけにもいかない。ただ、なんだか悪い気はする。

 で、何を理解したのか、ということなんだけど、「責任を果たせ」ということだな。私は病気をしたから、働いて結婚して家庭をもち自立していくという、ごく普通の人生を送るのが難しいと思い込んで自ら道を閉ざしていた。だが、病気をしたことを含めて、それで人生完全なのだと分かってからは楽になった。
 また、最近はもう、世俗的なものに迷わされることもあまりなくなった。たとえば、若くして成功し、年に何千万という収入があるセレブなんて人を見ても、何とも思わなくなった。以前なら、なにもない自分と比べて心の奥の方がじんわりと焼けるのが感じられたかも知れない。けど、道を見つけたからね。セレブになるのが自分の道ではないと分かるから、それはそれ、と思うだけで済む。
 自分が何をしていけばいいのか、外のことに影響されることはないという話しだ。すべきことは分かる。

●世界の基本は自分
 都合の悪いことはすべて他人が悪く、自分は被害者であると思い込んで他人を攻撃しだす人が多いような気がする。私に言わせれば、すべての現象は自分が招いているのだが、いまの人は、自分は被害者だとうったえてしまう。
 これはマズイ。
 自分だけでなく世の中を汚す。
 なぜ、自分にそのような現象が訪れたのか理解しようとせず――たとえば引ったくりにあったというなら、その犯人を突き止めて逮捕して罪を科したとしても、そんなものに意味はない。いや、外的には必要かも知れないけどね。本質的な意味はない。鞄をもって人気のない道を歩いている人なんてごまんといるのに、なぜ、自分だったのか、そこを理解しない以上、意味はない。
 そういう理解をしていくと、テレビなんかで様々な問題を抱えている人が、人のせいにして怒ったり泣いたりしているのをみても、被害者への同情も加害者への憤りも何も思わなくなる。その人自身が招いた事だと分かるからだ。こういうとよく勘違いされるから、あわてて付け加えなくてはならないけれども、被害者が100%悪いと突き放しているのではないよ。
 加害者は悪い。たしかに悪い。しかし自分が招いたとするなら、自分を変えることで変わるのだから、光が見えてくる。繰り返すが、同じような環境にある人はごまんといるのに、なぜ、自分なのか?

 いろいろなレベルがあるから一概には言えないけれども、まず自分の近くにいる人、近づいてきた人は自分の鏡であるという気づき。その人をそうさせている、そういうところを引き出してしまっている自分がまずあるのだ。
 たとえば、掲示板に荒らしが現れたとするなら、そういう人を招くような荒いバイブレーションを発していた自分がまずあるのだな。荒らしの張本人を突き止めて、とっちめてやろうなんて、まったく中心がずれている。気持ちは分かるけどね。
 意味はない。
 一生、意味のないことを繰り返していてもしょうがない。だから、自分が荒くしていたな、と分かったら、よくリラックスして必要なら生活を見直し、ストレス発散して気持ちを優しく落ち着かせることにエネルギーを注ぐべきである。
 もちろん、外的に必要な処置はするとしても、事の中心は自分自身がどうか、ということである。それができれば荒らしは消える。やってみればわかる。表面的にではなく、心からできればだよ。

 ある意味、世界は自分が作りだしている。下らない世界というなら――たしかに下らないけれども、自分と自分の周り、手の届く範囲の世界が常に下らないのだとしたら、それは自分が下らないからだという他ない。
 自分が落ち着いていて安心立命なエネルギーを発しているならば、周りもそのような世界が形成されていく。逆に、お前が悪いのだと荒くて不調和なエネルギーを出していれば、当然、周囲もそのようになる。関係ないと思っても世界は繋がっているのだから、個人の有り様は身近な場所でも離れた場所でも良い悪いにかかわらず影響力を持って現象化する。
 世界の基本は自分である。高慢でもなんでもない、人間の基本的な理解のひとつではなかろうか。

 って、我ながらなんかスゲイこと書いてるな。


2004年01月12日(月) ●成人式

 自分の時(15年前だ!)は、ニュースで取り上げられるほど大暴れする人はいなかったけれども、会場は市長が話している最中でもざわついていたし、席を立ってふらふら歩いている人もいて、おいおい、と思った事を覚えている。
 そんな式はいらん、という議論もあるが、やはり(法的に)大人とされる時期に何もなく過ぎてしまうのでは、張り合いがない。形式だけだったとしても、また同窓会に過ぎなかったとしても、イニシエーションとして式はあっていいんじゃないかと思う。それがあるというだけで、参加するしないにかかわらず、少しは、大人なんだ、という意識が芽生えるからね。いや、父兄同伴なのが「成人」式なのかとか、一部の暴れる「あれ」が成人なのか、という疑問はあるにせよだ。
 法的には突然大人になるんだけど、中身はそうはいかないから、それまでに周りが大人扱いして精神的に自立させていかないといけない。また、そういうふうに育てた大人や社会の方がまずあるのだから、暴れる子どもばかり非難してもはじまらない。
 ただ、成人式はエンターテイメントのイベントじゃなくて儀式なんだから、式自体に楽しさを求めるのは違う。儀式とは厳かに行われるものだ。そこだけ分かって、後は(大人として)好きにしたらいいんですが。


2004年01月01日(木) ●新年のご挨拶●曙vsサップ

●新年のご挨拶


 あけましておめでとうございます。
 早速、お宮参りに行ってきました。といっても、ウルティマオンラインですけど。

 年末ですが、30日にDVDプレーヤーを買いました。これが昨年の唯一の贅沢みたいなものです。プレステ2では再生しないことが多くって。
 安物ですがやはり画面がクリアなので、自宅でも映画を見ている気分に浸れます。31日は、借りてきたハルクと攻殻機動隊の12巻、13巻を見て、以前買ったけど見ていなかった(見られなかった)浜崎あゆみのライブビデオというかDVDを見て、曙がぶっ倒れるところを見て(笑)、風呂に入って寝ました。
 まあ、これはこれで有りな年末だったように思います。

 今年はどんな年になりますかね。
 いいことありますように!

●曙vsサップ
 相撲は立ち会い後、まずぶつかり、それから力と技のせめぎ合いになるわけだけど、総合格闘技となると話が違う。押しの強さでいったら、曙にかなう選手なんていないのではないかと思う。相撲勝負だったら、体重のない選手なんて一発で土俵の外に吹っ飛ばされているだろう。
 曙のあの体型はやはり相撲のものであって、今後K-1で戦っていくにはつらいような気がする。逆三角形とまでは言わなくとも、体をしぼって軽くし、スピードをつけ、技を磨かなくては勝てないんじゃないかな。あれでは、あまりにのろい。
 曙の戦法は、あの体格とパワーで圧倒するというものだった。初期のサップと同じですね。素人相手なら充分だが、相手は(サップがそうかどうかは別にして)、まがりなりにも格闘家を自任する強者だからまず通用しない。スタミナを浪費するだけだ。パンチも大振りで……まあ、ヒットすれば相当なダメージになるだろうが、当たらなければ意味がない。いまの曙に必要なのはダイエットであって、筋トレで力を付けるのはよくないような気がする。筋肉はつければつけるほどのろくなるのだから、曙には逆効果だろう。
 K-1 WORLD GP2003で優勝したボンヤスキーのように、むしろ痩せていてすばしっこく、技にキレがある選手のほうが有利のように思える。正確に当たるかどうかが問題であって、力ばかりつけたってしょうがない。

 話は変わって。
 心技体というが、いまの武道は技と体だけで、心が失われてしまった。私に武道の精神性を語る資格などないけれども、つい言いたくなってしまう。心もあるといっても口先だけなのは、やっていることを見れば一目瞭然である。
 日本武道は、勝っても負けても顔色ひとつかえず、静かに礼をしてすっと分かれるという――今日勝ったのはたまたま調子が良かったからですよ、と相手を気遣うものであって、勝ったからといって、えげつなくバンザイして喜び合うなんて違うと思うのだ。
 だから、K-1やPRIDEといったものは格闘技であって武道ではない。道としてやるものではないね。観客としては、エンターテイメントで面白いかもしれないが。


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