Mother (介護日記)
IndexYesterdayTomorrow


2003年02月21日(金) 運転代行業に無理なお願い

昨日の検診で、
「次の予約の日(3週間後)まで風邪を引かずにいられたら、
 インフルエンザの心配はなくなるでしょう」 と言われた。

それまでは油断してはいけないのだろうが、今日はお天気が良く、
洗濯物を干している間、窓を開けていても寒いと感じなかったので、
お散歩がてら買い物に出てみることにした。

ズボンの上に私のスキーパンツもどき綿入りズボンを履かせ、
上はいつものフリースとロングのダウンジャケット。
酸素のカニューラの上からマスクをして、冷たい風を直接吸い込まないようにした。

空がとても青く、綺麗に澄んでいた。
部屋の窓から見るのとは違うような気がする。

こうしてのんびりと歩くのは、久しぶりだった。


 * * * * *


夕方になって、洗濯物を取り込んだら疲れが出て眠くなってしまった。
絹江のベッドに横になってウトウトし始めたら、絹江が帰って来た。

「ママ、ケーキは頼んでくれた?」

今日は絹江の15歳の誕生日なので、
本人の希望通り、町内のケーキ屋さんにイチゴの生ケーキを注文してあり、
夕方出来上がるとのことで、5時に取りに行くことになっていた。

まもなく5時である。

絹江はこれからピアノに出かける。

母をひとりで置いておくのは極力避けたいので、
当初はタクシーで自分だけ行くつもりだった。
ケーキ屋の近くには薬局もあるので、ついで昨日の薬も取りに行けば良いと考えていた。

しかし・・・疲れた・・・

今日はレフティーの帰りが8時近くになりそうだと言っていたので、
レフティーにお願いするわけにはいかなかった。

そこで『運転代行業』を利用できないか、と考えた。

私が勤めていた書店のオーナーから、
「最近『運転代行業』も始めたんだ」と以前に名刺をもらってあった。

運転代行業と言えば、
『自分の車で飲みに行って、帰りにその車の運転をしてもらう』のが一般的だが、
ケーキと薬を取ってきてもらうわけにはいかないものだろうか・・・

どこかで
“1人暮らしのお年寄りのためにお遣いをして来てくれるタクシー”と言うのを
聞いたことがある。

いったい、いくらぐらいでやってくれるのだろうか。

私がタクシーで行った場合、まずお迎え料金が120円。
1.5kmまで630円。その後258m毎に80円。
今回のお遣いの場合には往復で2km程度だから、
120+790=910円ぐらい。
母を置いて行く不安と、自分が出かける体力を考えると、
タクシーで行った場合と同じ金額を支払っても、その方が安心でラクである。

書店オーナーに相談を持ちかけたところ、
初めての注文に少々戸惑ったものの、快くOKしてくれた。

さっそく、薬局とケーキ屋に電話をして営業時間を確かめ、代わりの人が行くことを伝えた。
薬局には、昨日のうちにFAXが行っており、1包化が出来上がっている。

オーナーの経営する書店の場所を考慮して、
オーナーには、申し訳ないけど薬とケーキの代金を立て替えてもらい、
薬局には『処方箋の現物は後で届けるので』と無理を言って、
薬局 → ケーキ屋 → うち → 薬局 と言うコースにしてもらった。
オーナーは、夫人と二人で書店をやっているため、時間は指定せず、
ケーキ屋の閉店する7時までに行ってもらえれば・・・とお願いした。


6時前、玄関のチャイムが鳴り、
絹江がピアノから帰るよりも早くオーナーがやって来た。

「今日は、突然、無理なことを言って申し訳ありませんでした」

「いや、うちもこれからは、こういう仕事もしていかなくては、と考えていたところなので」

オーナーは、例外的な注文に対し実に良心的な料金設定をしてくれた。

「700円です」

「え? 700円ですか? それじゃ、片道分にしかなりませんよ」

「これが、代行運転の場合の料金表なんですけど、
 代行運転と違ってこういう場合は1人でやりますので・・・」

代行運転の場合、2kmでは2000円と設定されていた。

「今後、料金設定は検討してみますけど、これよりも高くなることはありませんから」


これからも『どうしても』という時には利用しようと思う。
使えるものは何でも使って、ラクをすればいい。


2003年02月20日(木) 通院介助と在宅介護

11時にケアマネージャーと新しいヘルパーのTさんがやって来た。

検診の予約時間がせまっているので、取り敢えずは顔合わせをしただけで、すぐにタクシーを呼び、ケアマネージャーと別れて病院に向かった。


病院に到着すると、私が運転手と料金の清算をしている間に、
Tさんがトランクから車椅子を降ろして準備してくれていた。素早かった。

以前、障害者料金適用の清算や車椅子の積み下ろしに時間がかかっていたが、
こうしてヘルパーが一緒なら車椅子の取り扱いや老人の介護にも慣れているから、
病院玄関や路上での乗り降りも随分スムーズになると思う。


 * * * * *


今日は内科が混んでいるようなので、
在宅介護のヘルパーIさんが来てくれる1時までに帰宅できるかどうかわからないので、
Iさんの施設に電話をして、Iさんの訪問時間を2時からに変更してもらった。
(結局、帰宅できたのが1時半だった)


いつもはただ黙って順番を待つだけの時間が、ヘルパーと一緒だと苦痛には感じなかった。
今日が初めてということもあって、母の病状やこれまでの経過などを一通り説明した。
特に母に話しかける時は補聴器をしている左側で、とお願いをしておいた。

このTさんは、ヘルパーを6年やって先月独立したばかりなのだそうだ。
ご自身のご両親も、兄弟や子供たちと順番で看たのだと言う。
私は家族の介護をしたら、もうこれでたくさん。
仕事としてやれるとは、今はとても考えられないが・・・


 * * * * *


私がトイレに行っている間に呼ばれたらしく、
ソファに姿が見当たらないので診察室の中待合に入ると、
Tさんが、車椅子のまま母を連れて来てくれていた。

母を立たせて、ダウンコートとフリースを脱がせ、ソファに座って待たせた。
Tさんはコートを持ち、車椅子をたたんで「私は外で待っています」と中待合を出た。


「あ〜♪ センセー、こんにちはぁ♪」

「今日も元気ですね(^_^;)」

「元気よ〜♪」

「はい、酸素濃度も96%、いいですよ」

「いい? ホントー? センセーのおかげ♪」

「はい、それじゃ、胸を診ますよ」

「え〜っ、センセーには見せたくない」

「それじゃ、目をつぶって音だけ聴きますよ(^_^;)」

「あら、そんな。遠慮しなくっても〜」

「いや、別に遠慮している訳では・・・(^_^;)」


昨夜の入浴の際に計った体重が、40kgを切っていたことを英単語で報告しておいた。
特に変わりもないので、次の検診はまた3週間後に決まった。


外に出ると、Tさんが車椅子を用意して待っていたが、それを見た母は、
「あら、これに乗っていいの? 貸してくれるの?」とトンチンカンなことを言っていた。


 * * * * *


会計を待つ間に、母をトイレに連れて行くことになり、こういう場合、
「私ひとりで大丈夫ですから」と言ってヘルパーに待っていてもらうべきなのか、
「それじゃよろしく」と言って、私が外で待っているべきか迷ったが、
母が初めての人にトイレの介助をしてもらうことに、どう感じるかわからないので、
結局、ヘルパーを含め3人で身障者用の個室に入った。


自宅でトイレに入る時と違って外出時には介助が必要なのである。
酸素ボンベを車椅子の背面に引っ掛けて持ち歩いているが、
カニューラ(チューブ)が短いので、
トイレ内で車椅子から下りて便座に移動する時には、
ボンベも一緒に下ろさなくてはならない。

Tさんがボンベを持って母の動きに合わせて移動してくれ、
私は、母を立たせて長いコートを脱がせて便座に移動した。

いつもは酸素ボンベを便座近くに転がしておいて、母を便座に誘導していたが、
改めて考えたら、結構大変だ。

今回は、少量だがおむつが濡れていたので、靴を脱がせズボンと股引を脱がせ、
おむつを交換しているうちに汗をかいてしまった。
ヘルパーが動き出したので、アレッ?っと思ったら、
私はズボンを忘れて靴を履かせていた(^^ゞ

身障者用のトイレの床が濡れていたら、おむつの交換などできないだろう。


 * * * * *


病院前に待機しているタクシーを無視して、いつものタクシーを呼び寄せた。
運転手さんは、私たちのことを覚えていてくれたようで、
「お客さん、ゴム(車椅子をトランクに積んだ後固定するための)持ってたよね?」と聞かれて
「はい」と返事をしたが、そのゴムがない。

行きのタクシーから降りた後、どうしたんだっけ?

ヘルパーさんが、行きのタクシーから車椅子を降ろした際、
タクシーの備品だと思って、そのままトランクにつけっ放しにしてしまったとのこと。

そこで運転手さんがすぐに、無線で本社に連絡をしてくれた。
結果的には、ゴムベルトは見つからなかったのだが、その対応がうれしかった。


 * * * * *


タクシーの中で、母は、首にかけたカードが気になって、私に訪ねた。

カードには
『今日は検診日です。○△病院、□◎先生に肺炎を診てもらいましょう』と書いてある。

「ありゅちゃん、これ、どうするの?」

「今、検診に行って来たところでしょう?」

「今?」

「□◎先生に会ってきたでしょう?」

「ううん、見かけなかった」 ヾ( ̄。 ̄;)


 * * * * *


コンビニに寄って帰宅したら1時半。

新しいヘルパーさんの事業所との契約書を交わした。

Tさんとほとんど入れ違いに、2時に在宅介護のヘルパーIさんがやって来た。

1週間連続休暇中のゆきっちが遊びに来たので、
簡単な引継ぎの後、Iさんにお任せして私はゆきっちとお茶をしに出掛けた。


2003年02月19日(水) 実感がない・・・

ネットのお友達の“みい”のおばあちゃんが亡くなった。

田舎のお母さんからの連絡で『明日の朝行こう』と決めた矢先のことだったらしい。

掲示板に早朝書き込みがあった。

「間に合わなかった・・・」

何だかそれを見て涙が出そうになった。
みいのおばあちゃんとは、もちろん会ったこともないし、
これまで詳しい話を聞いたこともなかったのだが・・・

かわいがってくれたおばあちゃんに会えなかったみいの気持ちを思い、
遠くで暮らすかわいい孫にひと目会いたかったであろうおばあちゃんの気持ちを思った。



今日はレフティーが仕事帰りに通夜に寄ったと言って、お茶を持ち帰った。
同僚のお父さんが突然に亡くなったとのことだった。
心の準備もなくある日突然に大黒柱を失うと言うのは、どれほどの衝撃か。



私は、母に対してイライラして優しくできない日が続いている。

「どうして自分からやろうとしないのか」
「どうして毎日言っているのにできないのか」

特に話すようなネタもない。
できるだけかかわらない。

アルバムでも見てれば?
音楽でも聴いてれば?
パズルでもやってれば?

同じ部屋にいて“あげてる”だけで精一杯の時がある。

母を昼寝させる時は補聴器をはずさせて、
母がゆっくり寝てくれるように私はトイレに行くにも足音を忍ばせているのだ。



夕方になって絹江が帰宅する。

絹江は今、受験勉強のため、おやつを食べ終わるとすぐに部屋に引きこもる。
やっと捕まえた話し相手、とばかりに話し込むワケにもいかない。

そんな時、物音に気付いて母が動き出し、激しく咳き込む。

私は絹江の勉強に支障をきたさないように、と母を叱り付ける。
その声の方がよほど絹江にストレスなのかも知れないが、悪循環である。



10時に母を寝かしつける。
ポリデントをして、トイレに行って、パジャマに着替えて・・・
この介助でまたイライラしてしまう。



介護なんてもうイヤだ!
介護がイヤというよりも、病気の親を疎ましく思う自分がイヤだ。

どうして母はまだ・・・生きているのだ・・・

ホントに死んでしまったら、
どれだけ大きな悲しみがやってくるのか今は想像もできないことで、
でもホントに死んでしまったら、
今のこんな気持ちは、絶対に自分を苦しめることになると思うけど・・・

だんだん介護が長くなっていって、
家族の疲労も何もかも、上手くいかないことを母のせいにしたくなったりして、
疎ましく思いながら過ごしていくのが耐え難い。



秋、車椅子であちこち電車に乗り連れて歩いた頃の私は、
母を喜ばせたい気持ちで熱く燃えていたと思う。
今はそれがない。
偽善的・形式的・義務的な介護でしかない。



もし今度入院したら、毎日は面会に行かないかも知れない。
それで母が見当識障害を起こしても仕方ない、と諦め切れるような気もする。
痴呆の進行を食い止めようとアレコレ知恵を絞ってきたにもかかわらず、
日ごと、週ごと、月ごとに、何かのネジが外れていっているようで、
“やってもムダ”と諦めてしまっている。

母には徘徊や過食などの危険がないので、痴呆の進行が怖くないとも言える。
かつての被害妄想による体力的精神的損失を思えば、
会話や行動の減少などたいしたことではない。

赤ちゃんと同じに見えても、
赤ちゃんは日ごとに習得し成長をしていくものだ。
老人は、日ごとに衰退していく・・・


2003年02月18日(火) ダブルブッキング

しまった、今度の木曜日、ヘルパーのダブルブッキング・・・


新しい事業所からもうひとりヘルパーが派遣されることになった。

今度の木曜11時半の内科検診のために、11時から3時までに来てくれる予定。

ところが、当日は午後1時から5時まで、いつものヘルパーのIさんが来てくれる日だった。


当初、ヘルパーを依頼した時には、木曜日にしか空きがなかったのだが、
木曜と言うのは母の内科検診の日でもある。
しかも母の主治医は木曜日にしかいないので、検診の曜日の変更はできない。

それで、検診とヘルパーが1週間交代で進んできたのだけど、
母の病状が安定しているのと、インフルエンザの大流行もあって、
隔週だった検診が3週に一度になったので、混乱してきた。

検診がスムーズに終わってヘルパーの来る1時までには帰宅できていたので、
特にスケジュールを変更してはいなかったのだが。

ここで新しいヘルパー派遣・・・カレンダーが込み入ってきたな。

通院介助のためのスケジュール調整って難しそうだ。
受診する間隔や曜日も時間も、それぞれの科によって違うし・・・


気付いてすぐにケアマネージャーに電話したが、
今日は休暇とのことで、調整は明日ギリギリかな?

新しい事業所からの連絡はまだないし、契約書も取り交わさなくてはならない。
明日、訪問があるのだろうか、それとも検診当日か・・・


2003年02月15日(土) 『訪問者』 と言う薬

昨夜寝たのは2時半頃だったか・・・起きたらお昼近くだった。

服に着替えようとしていたところ、玄関のチャイムが鳴った。
ケアマネージャーのIさんだった。
自身が風邪を引いていたため、しばらく来ていなかった。

最近の母の様子を報告したら
入浴介助や、通院の付き添いをしてもらったらどうか、と言われた。

入浴については、現在のところ、私が週に1度程度やっているが、
最近は夕食時間の遅延が影響して「いいや、また明日」と持ち越してしまうことが多い。

湯上りの母の世話をさせることが受験生の絹江の精神的な負担になってはいけないから、と
ケアマネージャーは私に以前から入浴介助を勧めてきたが、
うちはシャワーがなくて不便だし、沸かし湯だし、
私自身が気分転換のために外出することも多いので、まだ一度も利用していない。


通院の付き添いについては、お願いした方が良いのかも知れない。

酸素ボンベの分、荷物が増えたし、母の歩行にも介助が必要になってきた。

他人と一緒にいると確かに気を使うのだが、ヘルパーがついてくれれば、
酸素ボンベももう1本余分に持って行って、
病院の帰りに買い物に回ることもできるようになるだろう。

「同じ事業所じゃなくても、かまいませんね?」

早速今後の検診予定を控え、
できるだけ早い時期から増やせるように調整してみるとのことだった。



 * * * * *



絹江は、お友達と勉強をするために図書館に出かけて行った。

数日前にメールがあって、2時過ぎに、ゆきっちが来ることになっていた。

電話が来て数分後、手作りのガトーショコラを持って来てくれた。

ゆきっちは今日から1週間連休で、
大阪のお友達のところに遊びに行く前に、わざわざ寄ってくれたのだった。

最近、母と二人の日は、朝から顔も洗わずに昨日と同じ服を着て、
とりあえず洗濯はするものの、干すのはいつもお昼過ぎ。

仕事を辞めたからって、家事に積極的に取り組むわけでもなく、
ホコリだらけの部屋でネットと昼寝の生活。

伸びきった髪の毛は、ターバンでよけてるだけで。
こんなんじゃ、とても人には会えない、会いたくない。 

誰かが突然来るのも困る。
当然、外にも出られない。

仕方なくゴミ捨てだけは行く。
毎日の買い物は仕事帰りのダンナに任せて・・・

ボケッとしている間に子供は成長し、先日は受験に失敗。
なんとかしなくては、と思うだけで、ちっとも動けない。

そんな自分に嫌気がしながらも、よどんだ空気の中にうずくまってる。

“思うような介護ができないのは寒いからだ”と決め付ける。

風邪を引かせたら大変だ。酸素ボンベ何本も持ち歩くのは大変だ。
だからどこにも行けないんだ・・・と、晴れた空を見て嘆いている。

いったい、私はなんのために生きてるんだろう?

そのワリには、
着替えさせて、簡単なご飯食べさせて、お尻拭いて・・・と、
介護というにはあまりにラクチンじゃないか。

そんな毎日を過ごしていたのだけど、
今日はなんとか掃除機をかけて、お布団も干した。

髪を整え、スキーパンツ風綿入りズボンをチノパンに替え、
よれよれのTシャツをハイゲージニットに替えたのだった。




ケアマネージャーもゆきっちも、ホンの数分ではあったけど、
これで滞った空気も入れ替えができて、今日は気持ちがラクだった。


2003年02月14日(金) 夕陽。背中。

カレンダーを見てみたら、今月の絹江やレフティーが休みの日は13日間あった。

母と2人だけになると、どうしても荒れたり鬱になったりする。



朝食をとらないレフティーが起床するのは8時過ぎ。
毎度、母の激しい咳き込みで早い時間に起こされることが多いので、
“目覚ましの音”で起きてくるまでは、できるだけ寝かせておいてあげたい。

母を起こせば途端に咳き込みが始まるので、
レフティーの出勤までは、声を掛けずにいることが増えた。

でも、たまに思う。
絹江もレフティーも出掛けた後で起こしに行ったら、既に息をしてなかった・・・
なんてことがあったら、私ひとりでどうしよう、と。

ちょっと前は、
登校前の絹江に『母に挨拶をしてから行くように』 と言っていたのだが。



今日もレフティーの出勤直後に起こしに行った。
咳き込みが始まって、着替えをしているようだった。

私が(朝っぱらから)ネットに夢中になっていて、ふと気が付くと、
母のセキが鎮まっていた・・・つまりは・・・寝ていた。



そんなワケで今日も青い空を横目で見ながら、家の中で会話もなく、
テレビを見ながらパソコンいじっているうちに時間が過ぎて行った。



洗濯物を取り込みながら、今日の夕陽は特別キレイだと思った。
夕陽を見た時間がグッドなタイミングだったのか、雲がなく良く晴れていたからなのか。
なぜかとても得をした気分になった。

今更だけど、この太陽というものはひとつしかなくて、
世界中で何人かが、今この瞬間に同じ太陽を見ているんだと思うと、不思議な感じがした。



夕飯前、やけに母が咳き込んでいた。
そういう時に限って、おかずの中に酢の物がある。

結局、治まったかと思えばまた咳き込んで、食べた物は飛ばすし、
慣れたとは言え耳障りな音であり、テレビの音も聞き取りにくい。
きっと、みんながそれぞれに“誰か、止めろよ”と思っていたに違いない。
お互いに顔を見合わせた。

結局、一番遠い席に座っている私が、背中をさすることにした。

先日、ネットで知り合った方から、背中にセキのツボがあると教えていただいたので
背骨を中心に、あちこちをピンポイントで押してみたところ、
背骨よりもやや右側の、肩よりも少し下がったところあたりを
非常に痛がることがわかったので、そこを中心にさすってあげると、まもなくセキが落ち着いた。

「そこ、そこ。そこがすごく痛いんだけど、私、どこかが悪いのかしら?」

また始まった・・・(-_-;)

「だから。肺炎だってば」

「え? 肺炎? 私、肺炎なの? 
 肺炎って怖いんだよね〜 私、死ぬのかしら?」」

「前からそう言いながら、もう2年も生きてるよ」

「あぁ、そう。 私にはきっと長生きの運がついてるんだわ〜」

そんな話をする頃には、セキが出たことも背中が痛いこともすっかり忘れているようだった。


2003年02月08日(土) 放置。

今日はレフティーが仕事行く前に声を掛けてくれたのは覚えてるが、
学校が休みなのをいい事に、そのまま寝てしまった。

目覚めたのはお昼近かったが、
不快な音によって目覚めた時は、当然ながら機嫌が悪い。

母はトイレに入って咳き込み、
吐き気のようなうなり声をあげながら、時折、唾を吐いている。

夜中だろうが早朝だろうが関係なく、
動くたび、または何もすることがない時に、こうした症状が出る。

寝ている時、遠く夢の中からセキが聞こえてきて、
長く続くうちに次第に意識がハッキリしてきて、
「あぁ、また始まった」 と思う。

トイレは、私たちが寝ている部屋の正面にあり、
圧迫骨折をして動けなくなった時、介助することを考えてドアをはずし、
その後はカーテンをかけている。
音は容赦なく、この部屋に飛び込んでくる。

動作が鈍いのは仕方がないので、しばらくはこちらも我慢しているが
次第に「早くトイレから出てベッドに戻れよ」 と思ってイライラしてくる。

それでも構わずに延々とうなっているので、
「酸素のチューブ、はずしているんだろ?」 と起き上がって見に行くと、
案の定、首飾りのように、チューブを頭にかぶってしまっていた。

「鼻!」
「鼻?」
「鼻!」
「鼻?」
「鼻!」
「鼻? なんだかわからない・・・ あぁ、これをこうやるの?」




以前、酸素屋さんに
「母は、チューブのことをすぐに忘れちゃうんですけど」 と言ったら、
「慣れてくれば、
 チューブをはずすと苦しいってことがわかってくるので大丈夫ですよ」と言っていたが
母は一向に覚えることができない。

面倒なので、注意書きを書いてベッドに貼ったが、
それでも、「ありゅちゃん、これ、何だかわかんない・・・」 と聞いてくる。
落ち着いているときの母は、
発作を起こして苦しい思いをしていたことなどすっかり忘れているのだ。
それは、病気に対する恐怖から逃れることができて幸せなことなのかも知れないが。



トイレから出た母は、いつのまにかまた寝てしまっている。
それを見るだけでも腹が立ってくる。

着替えるように言うと、ズボンは履いていたが、肌着シャツの上にガウンを羽織っていた。
目の前に服がないと、どれを着るのかわからなくなっているようだった。

その後、また布団に入ってしまっていた。
迎えに行ったものの、もう面倒になってしまったので放っておいた。

おなかは空いていないのだろうか?
空いた時には、空いたと言うのだから、別にいいんだろ。放置。

私が食事の仕度をする様子をチラチラと見てはいるものの、
こちらに来ようともしないので、私のイライラは一層募って行った。

こういう時は、
優しく介護をしている自分と、悪魔のような自分とが向き合って苦しい。

それでも、起こして居間に連れて来る気にはなれなかった。
せっかく静かになっているのに、また咳き込みとうなり声を聞かなくてはならない。

4時過ぎ、絹江がおなかが空いたと言うのでホットケーキを焼くことにした。
母はまだ寝ていたが、起こして食べさせることにした。


 * * * * *


その後も、今日は延々と声を上げているので、キレそうになった。

夜に入って、
「ありゅちゃん、お漏らししたわけじゃないのに、ズボンが濡れてる」と言って私を呼んだ。
おむつは濡れていない。ズボンとズロースのおしり部分が濡れていた。
おそらくは、先ほどトイレに入った際、ズボンを履いたまま便座に座り、
ウォシュレットの操作盤に手をついたためにスイッチが入ったものと思われる。



最近、介護に関する事件をいろいろ聞くが、
私がもし、ひとりだったら、乗り越えるのは難しかしいかも知れない。
家族の協力と、お友達と介護保険に支えられてなんとかやっているが。

日記に書いていることは、その日によってバラバラだし、
自分の試行錯誤、紆余曲折の有様がよくわかるのだが・・・



今日は本当に、デイサービスを利用したかった。
“お願いだから誰かしばらく預かって”と思った。


2003年02月07日(金) 腫瘍?

今朝、2度寝をしようとしてふと気付いて良かった。
今日は整形外科(骨粗鬆症)の検診日だった。
しかも、予約票を見たら9時からになっている。 あわてて仕度をした。

昨夜は非常に冷え込み、頭から布団にもぐって寝たほどで、さすがに今朝は霜が降りていた。
しかし気持ち良く晴れて、タクシーの中から見る海は真っ青で、
このままどこかに遊びに行きたいくらいであった。



 * * * * *



整形外科の待合室は混んでいた。
エアコンがついてはいるものの、少し肌寒いくらいだった。
1時間弱で呼ばれた。

まずは私が上着を脱ぎ、
おむつなどが入ったビジネス風ショルダーバッグを斜めに掛け、
さらに車椅子の後部に引っ掛けた酸素ボンベを左肩に掛けてから、
母を立たせてロングのダウンコートを脱がせ、車椅子を放置。
今日はベルト状のヒモを母の腰に通して、脇の下から支えながら誘導。

私はどうしても後ろ向きに進むので、
最近では診察室入り口のドアやカーテンを見かねた周りの患者さんらが開けてくれるようになった。


エルシトニンの筋肉注射を打つために処置室に入ると、母は突然ハイテンションになり
「注射? 私、注射すんの? イヤだよぉ。 注射は痛いからきら〜い!」
途端に処置室の患者・看護婦・医師らが爆笑し私たち二人に注目する。 
・・・この風景にも慣れた(^_^;)

「注射なんてしなくても、先生の顔を見てれば治るよ〜」 と、続けると、
中には「そうですよね〜」などと相槌を打ってくれるおばさまもいる。

担当医が「具合はどうですか?」と質問しても、
「具合? どう?」 などと私に聞いて来るので、私がもう一度聞き返すと
「具合? いいよ♪」 と元気に答える。

「話し掛けられるとうれしいんでしょうね〜(^_^;)」 と担当医が言った。
いつものフォサマックを処方してもらって整形外科は終了。
次の予約はまた1ヵ月後。



 * * * * *



ついでに、
先月25日の耳鼻科受診で取り出した耳垢の検査の結果が出ているはずなので
予約外で受診することにした。

耳鼻科のM医師は、面倒くさそうに言った。

「ここまで来るの、大変でしょう。
 耳はまだキレイだし、
 このような状態(母の体調)を考えると、そんなにしょっちゅう来なくても
 2ヶ月に1度ぐらいでいいと思いますけどねぇ」

両耳をザッと診ただけで終わりだと言うので、
「耳垢の検査の結果が出ていると思うんですけど?」 と質問した。

「あぁ・・・」 などと呑気にカルテをめくり、
「言いにくいんですけどねぇ、あれは“腫瘍”です。」

言いにくいも何も、どうしてこっちが聞かないと答えないのか?(-_-;)

「腫瘍ですか?」

「この部分にできているんですけど、鼓膜がないのでこっちに流れてくるんです。
 それがあふれて脳にまわることもあるんですけど。
 良性なので、今すぐどうってワケじゃないんですけど。
 普通は手術して取ります。
 でも、年齢的・体力的なこととか、今の病気のことなどを考えると、
 そのままにしておくしかないでしょう。」

この先生の説明は、いつも良くわからない。
それでいて、質問しにくい雰囲気を持っている。
しつこく聞き返してみたが、どうも納得できるまでに至らない。
耳垢=腫瘍ではなかろうに。
腫瘍からあふれ出た分泌物が固まったものがあの大きな耳垢ということなのか?

「目の動きについても“気になる点がある”と言われましたが・・・」 と聞いても、
「あぁ、それは、別の先生が診たのでしょう?」 と言って逃げ、

「脳梗塞を予防するには、温度差に気をつければ良いのでしょうか?」 と聞いても、
「それは、そっちの専門だから、そっちで聞いて」 などと言う。

だいたい、医者になるにはすべての科について勉強をして来ているはずではないのか?
“自分には関係ない”という態度が気に入らない。

カルテには、各科すべての資料がまとめられているのだから、
他の医師が記したことを代弁しても良いのだし、
それを元に自分の知識や意見を述べてもかまわないのではないか?
その上で「詳しいことは科の担当の先生から聞いてください」 と言えば良いのに。

インフォームドコンセントなんて言葉も知らなそうな、
説明不十分なM医師との5分のやりとりで、すっかり私は不機嫌になってしまった。

帰宅後、ネットでまた調べる。

耳の腫瘍とは何か? “聴神経腫瘍”のことか?
良性だけど、大きくなると脳幹を圧迫する危険もあるとか・・・
開頭手術? それは確かに大事(おおごと)だ。


間質性肺炎に始まり、
慢性呼吸不全、低酸素症、上咽頭ポリープ、無症候性脳梗塞、聴神経腫瘍。
今後考えられるのは、心不全、肺性心、脳梗塞、脳腫瘍・・・といったところか。


2003年02月05日(水) 現状。

○ 起床後、自主的に着替えまではするが、
  その後はこちらが声を掛けない限り、洗面もせずに洋服のままベッドに寝ている。


○ 着替えは1人でできるが、
  後ろ前だったり、セーターの上にパジャマを着ていたりすることがある。


○ 薬は一包化してもらってあるが、1錠飲み残してしまうことがある。


○ 空腹の認識はある。
○ 食事は1人でできるが途中で辞めて寝てしまうことがあるので
  家族と一緒にとるようにしている。
○ 食事中にテレビがついていると、箸を置いて見入ってしまう。
○ 今、食べた物が何であったかをすぐに忘れる。
○ 夕飯が早かった日は寝るまでの間に「夕飯はまだ?」と聞く。


○ 尿意はある。
○ 1人でトイレに行ける。
○ トイレの中で「疲れた」と言って、下着を下ろしたままずっと座っていることがある。
○ おしりには手が回らない。


○ 夕方を、毎回明け方と間違え、理解するまでに時間がかかる。
○ 睡眠が常に浅く、どんなに疲れていても数分から2時間で目覚めてしまう。


○ 咳き込んで苦しかったり胸が痛かったりすることを、症状がない時には忘れている。
○ 自分がどこが悪いのか、どうして病院に通っているのかがわからない。
○ 酸素吸入の意味がわからない。
○ “酸素吸入をはずすと苦しい”ということが学習できない。
○ 咳き込んだ後、一時的に荒い息遣いとなるが、
  落ち着いた後も、それが癖になって止めることができない。
○ やることがない時には、荒い息遣いをし、うめき声を上げ、唾を吐き続けている。
○ 咳き込んだ時に、それを止める方法が浮かばない。
○ 来客時にはハイテンションとなり、積極的に会話をし、咳も唾も出ない。


○ ヘルパーのことを“遊びに来てくれる人”だと思っている。


○ おはよう・いってらっしゃい・おかえりなさい・ありがとうの挨拶は欠かさない。


○ 幼児の絵パズルは約2時間で完成させる。


IndexYesterdayTomorrow


ALLURE  ☆ MAIL

読んだら、押してね ↓ 

My追加