Mother (介護日記)
IndexYesterdayTomorrow


2003年01月31日(金) 一喜一憂

母が意味もなく 「あ〜 ま〜 う〜 んまんま」 などと声を出しているさまは
例えようもなく実に気持ち悪い。


2003年01月27日(月) MRIの診断

先日土曜日に耳鼻科にてMRI画像の診断が出たのだが、
その時に借りてきた画像を、今日初めて開けてみた。

その中には医師の手書きの「MRI診断報告書」が入っていた。

カルテ同様、英語混じりである。


   Brain MRI

  テント上下ともに、皮髄質萎縮が目立ちます。
  両側大脳半球深部白質に
  1cm前後の多数の斑状のT2.FLAIR高信号が散見されます。
  上咽頭の左背側上部に、1cm大のT2高信号ポリープが見られます。
  
  Cunclusion ) 
  Cortico−medullary atrophy of the brain
  Lacunar infaction
  上咽頭ポリープ?? ( muco−cele? ) 



医師の書く文字は、何と言っても読み取りにくい。
まるでパズルのように、翻訳サイトや医学用語サイトをめぐって推理し、
どうにか理解できるに至った。

以下、私が訳したもの。

   終わりに )
   脳の皮髄の萎縮  
   ラクナー梗塞=小梗塞
   上咽頭ポリープ?? ( 粘液瘤? )


Brainは、脳。

MRIとは Magnetic Resonance Imaging 磁気共鳴画像の略称で、
磁石と電磁波(ラジオ波)を使って体内の水素の原子核から出てくる共鳴信号を画像にしている。
体内の水分を画像化していると言った方がわかりやすい。

画像をパッと見て、
水成分が黒く写っているのが、T1強調画像、
水成分が白く写っているのが、T2強調画像。

T1強調画像では解剖学的構造を明瞭に捉えることができ、
T2強調画像では多くの病変が白く写るので、病変の拾い出しに有効。

同じように見える画像も、あぁ、そういうことだったのか、と納得。
画像情報の数値によってもT1、T2を識別できる。

T2強調像で見られる脳室周囲や深部白質の高信号病変は、
現時点では脳血管性病変とは特定できず、無症候性脳血管障害には含められない。

FLAIRとは、Fluid Attenuated Inversion Recovery の略で、
簡単に言うと水分のところを黒く映したT2強調画像であり、
脳室や脳溝に接した病変も明瞭に描出可能。




・・・つまり、母は脳の萎縮が進んでいるということなので、
今後、痴呆の進行や脳梗塞も起こりうるということも頭に置いておいた方が良いだろう。

めまい以外に、頭痛、嘔吐、しびれ、麻痺などが重なれば、
脳梗塞、脳溢血、脳卒中、脳腫瘍の類が疑われるので、
即刻、救急車を呼ばなくてはならない。


2003年01月26日(日) 夜のご飯は?

0時を過ぎたばかりの夜中、寝ようとした絹江がトイレに立った時、
「夜のご飯は、まだだったね?」 と言う母の声がした。

「もう食べたでしょう? ヾ( ̄。 ̄;)」 と絹江が答える。

私が見に行くと、既に寝たはずの母が照明をつけてベッドに座っていた。

「私は、夜ご飯、まだだっけね?」

「今日は、お刺身だったよね? サンマの丸干しも食べたよね?」

「そうだっけっか・・・」

仕方がないので、ゴミ箱から刺身の入っていたスチロールの器と、
お隣にいただいたサンマの丸干しの残りを持って行って見せた。

「あぁそうか・・・なんだかわからなくなっちゃった」


普通の人なら、時間的に考えて夜中まで何も食べてないわけがないと思うのだが。

ご飯が少なめだったか?とも考えたが、
今日はその、母の大好きな刺身がメインであって、
レフティーが自分の分まで「食べていいよ」と言ってくれたので、
相応の量は食べているのだが・・・

体重は相変わらず少しづつ減少しているものの、食欲はあり、
食べられる量も、一時に比べて回復している。



 * * * * *



今朝は、
ベッドの上で腕を伸ばし、パジャマとシャツの袖がずり落ちて腕があらわになったのを見て、

「ねぇ、こんなにシワシワ・・・もう死んじゃうんだろうか?」と言った。

減少し続ける体重は、測定時に目盛りを隠すことでごまかして来ているが、
体のあちこちには急激な痩せ方ゆえにシワができてしまって、
さすがにこれをごまかすことはできないので、トイレに行くように促して話しをそらした。

下着は、買い換え分はMにサイズを落としているものの、
腕があわらになるくらいなので、着ていたシャツはおそらくLであったのだろう。
無用な心配をしなくて済むように、すべての下着をMサイズに買い替えた方が良いだろう。

ズボンも同様で、
母は痩せ型にしては下腹のひどく出ている体型であったので、
これまではLLサイズを履いていたが、それも最近はゴムで調整している。
おむつを履き、ももしきを重ねているので、かろうじてごまかしてはいるが・・・

お風呂に鏡がついていなくて、むしろ良かったかも知れない。


2003年01月25日(土) 耳鼻科MRI診断

今日は、脳外科で撮ったCTの画像も参考までに持参したが、
耳鼻科の医師はそれを開けることもなく、MRIの画像を並べて一気に話し始めた。

「いろいろな先生に画像を診てもらったけど、頭に出血などは見られませんが、
加齢による脳の萎縮などがあちらこちらで見られます。
めまいもそういうことが原因かとは思いますが、
私の知り合いにめまい専門(耳鼻科)がいますので、
紹介状を書きますから、気になるようでしたらそちらで診てもらってください。」

画像の写真を撮らせてもらおうとしたら、
またしても「貸してあげます」と言って渡されてしまった。(-_-;)

母の耳の粘膜は非常に弱くて、耳掻きを使うとすぐに血が出てしまうので、
これまではかかりつけの耳鼻科(個人病院)に定期的に通って、
取ってもらっていたようだった。

前回、この総合病院の耳鼻科で取ってもらおうとしたら、なかなか取れないので、
リンデロン液をもらって帰り、昨夜と今朝と右耳に数滴たらしてから受診した。
掃除機のように、細い管を耳に差し込んで吸い取っていたが、
ピンセットで取り出したのは、非常に大きな塊だった。

「これはちょっと気になるので、検査に出しておきますから」と言われたが、
耳垢から何がわかるのだろうか?

左耳の、先週はずしたチューブについて、なんのために入れてあったのかと聞いたが、
「それはチューブを入れた医者でなくてはわからない」と言った。

そんなものか? それならなぜ今、はずす必要があったのか?・・・と、
おそらく私が怪訝そうな顔をしていたのだろう。

「鼓膜が破けているので、水が溜まりやすく中耳炎を起こしやすいので、
 それを防ぐ目的だったのでしょうね」

もういらないんだろうか?

「両耳とも鼓膜が破けているので、あまり関係ないんです」

なんだか良くわからない説明だ・・・

結局、次回の予約は取らずに、
内科や整形に受診する時に、ついでに来れば良いとのことだった。

耳垢の分析?結果は、2週間ぐらいで出るだろうとのこと。
それならば、2月の7日金曜日の整形外科と一緒に受診すれば良いだろう。


2003年01月24日(金) 受け入れるということ

最近の我が家はとてもいい感じだと思う。

老人介護の模範的家族かも知れない(^^ゞ



家族の誰もが、母の機能低下を受け入れて優しくなってきたと思う。

今まで母ができていなかったことができなくなると、
「どうしてちゃんとできないの?」
「どうして自分からやろうとしないの?」 と責めてばかりいた。

だけど、いくら言ってもできないものはできない。
できない項目が次第に増えてくる。
私たちが先回りして準備するか、手を貸してやらせるかしかないのだ。



みんなで寄って集ってガミガミ言うことはない。
大抵は誰か1人がキレているのを、他の2人が何気なく聴いていることが多い。

しかし、そのことが「人の振り見て私が振り直せ」につながる。

レフティーにしても、私や絹江が激しくキレているのを見て
“ オレが倒れたら、あんな風に言われるのか ” と恐れ、

絹江にしても、
“ ママ(パパ)、将来、アタシにそんな風に言われたらどう思うの? ”と言い、

私も私で、
“ レフティーったら、なにもそんな言い方しなくたって ” と思い、
“ 絹江、おばあちゃんに対して、その口の利き方は何? ” と叱る。


介護の中で疲れたりイライラしたりがあって、母に優しくできないこともあるが
家族のみんなが同じ体験をしているからこそ、お互いの気持ちもわかり、
『こういうことはいけない。 だからこうした方が良い。』という解決策を
生んでいくのだと思う。



最近は、食事を毎回共にし、その後、テレビを見たり話したり。

母は相変わらず毎日幸せだと言い、
薬ひとつ、お箸一膳渡しても「ありがとう」と必ず頭を下げる。
何かを頼む時には「よろしく〜」と言う。

手をつなげば、子供のように喜びギュッと握り返し、
レフティーがおんぶすると照れながら「レフティーさん、優しいのね〜」と言う。


注意されても、
「あら、ホント? やだぁ、私、ボケちゃってるのかしら? あはは〜♪
 みんな片っ端から忘れちゃって。悪かったわね〜 ごめんね〜」と笑って
小首を傾げる母に、それ以上、何が言えるだろうか・・・

「歳をとってボケても、こんなふうに明るく過ごせたらいいね」とは、
最近のレフティーとの会話である。


そう言えば少し前までは、レフティーが帰宅すると私は、
まずはその日1日、どれだけ母の世話が大変であったかを報告していた。

近頃はレフティーも、
「今日は調子いいみたいだね」とか、「こういうことができるっていいよね」と、
自主的に母の様子をチェックするようになり、
残った機能についてありがたく思うことができるようになってきた。

 “ 失われた機能を嘆いたり否定しても何も始まらない ”

このことは、きっと、どの分野にも共通することだと思う。


2003年01月22日(水) MRI

今日はレフティーが休みだったので、車で行ってもらうことにした。

私は先日耳鼻科にかかった際にもらったはずの、予約票をなくしてしまったようで、
10時だったか、11時だったか、思い出せない・・・
朝、受付が開始されてから電話で確認を取ったところ、11時だった。

受付機に診察券を通すと、内科と整形外科しか表示が出てこない。(-_-;)
また受付のミスだな・・・

受付で
「耳鼻科にかかるのは2回目で、今日は予約が入っているはずですが」と言って確認。
それにしても、ミスについていつも謝らないのが不思議だ(-_-;)

今日は耳鼻科自体の診療はお休みであったが、
診察室の前でカードを出すようにと言われていた。

隣の眼科の患者たちが、
ひっそりと静まり返っている耳鼻科の窓口に診察券を入れている私を
不思議そうに見ていた。

しばらくして眼科の看護婦が「○○さんですか?」と私たちに話しかけて
「今、耳鼻科の看護婦を呼びますから」と言った。

じきに、パタパタとナースサンダルを鳴らして、若い看護婦が階段を駆け降りて来た。
「診察券は入れてもらえましたか? はい、それでは」と、院内の案内図を差し出し、
「検査室はここにありますので、これを持って行ってください。
 検査の後、写真を渡されると思いますが、
『今日はもう終わりです』と言って置いて帰ってください。」と言った。



MRI検査は、レントゲンやCTとは違って放射線を使わず、
強力な磁石と電波によって、病変を調べる機械である。

そのため、体内に金属が埋め込まれている患者には適さない。
検査室の中には、鍵などの金属類はもちろん、
携帯電話や時計やキャッシュカードなども持ち込むことはできない。
酸素ボンベも然り。母はカニューラ(チューブ)をはずして、
病院の酸素を吸いながら検査を受けることになった。

入れ歯には針金状の金属が入っていることを、
来る途中の車の中でレフティーに指摘されて気付いたが、
検査の部位によってははずすこともあるが、母はそのままで良いとのことだった。
補聴器ははずした。



検査の時間は30分程度とのことだった。
レフティーと私はMRI検査について記したポスターを一通り読んだ。

その後、レフティーは居眠りを始め、
私は片手にデジカメを持ち、検査室を廊下かからのぞいていた。

途中で内科の看護婦がやってきて、手首あたりに静脈注射を打っていた。
ポスターには、それが造影剤であり画像を鮮明に写すためと書いてあった。

医師の許可がもらえたので、母の様子を撮ろうとしたが、
なぜかこういう時に限ってシャッターが降りてくれず、思うように撮ることができなかった。

検査は思ったより早くに終わった。
起き上がった母はめまいを訴えてしばらく座ったままだったが、
抱き起こした検査医の手を握りしめて、
「先生の手を握っていれば大丈夫(^_-)-☆」と言うのを忘れなかった(^_^;)
母はこの歳にして、
滅入りがちな病院で毎回ボケては診察室に笑いをもたらす、すばらしい人なのである。


出来上がったMRIの画像は、
素人目には先日のCTとほとんど変わらないように見えたが、
専門家が見れば、やはりその中の情報は違うものであるらしい。

これも、写真に撮りたかったが、
やはり専用のバックライトがなければMRI画像がキレイに写らないので無理だった。

25日の土曜日に耳鼻科の担当医から画像からの診断を受ける予定になっている。


2003年01月20日(月) 叔母らの訪問

昨日、電話があり、
今日、叔母と従兄弟が母の様子を見に来てくれることになった。



二人の叔母は、私の父の妹にあたる。
隣の市に住んでいるが、
高齢の叔母達にとっては、バスと電車を乗り継いで来るには足腰も弱っているので
今回は従兄弟が休暇を返上して、運転手役を受けてくれたのだ。

従兄弟は私の二つ上。
真っ白な、超カッコいいスポーツタイプの車でやって来た(@_@;)
車には詳しくない私が見ても、
充分に手を加え、お金をかけたのだろうと推測できる。

ホイールが大きくて、タイヤが薄い。
両側に2本出ているマフラーにはカバーみたいなものがかかっていて?
いや、元から太いマフラーなのか?
円筒の淵にはなにやら英文字がぐるりと入っていた。

見たこともない車に目を丸くして、なんという車なのか聞いたが、
ごめんなさい、忘れてしまいました(^^ゞ
確か、頭文字がCで始まるような名前だったと思うんだけどな(^_^;)




何も聞いていなかった母は、叔母達の突然の訪問に驚き、とても喜んだ。

母にはお見舞い金を、絹江にお年玉までいただいてしまった。m(_ _)m
ほかに、リンゴやみかん、里芋の煮物、
花粉症の時期だからと、柔らかい高級ティッシュペーパーをダンボール1箱もいただいた。

自宅介護が始まってから、親戚と頻繁に会うようになった。

私としては、母が訪問者が誰であるのかをきちんと認識できるうちに、
たくさんの人に会わせてあげたいと思う。

これまでは義姉と月に一度程度、電話で話していたが、
叔父の家でも従姉妹の家でも介護をしているとのことで、
連絡を取り合うようになった。

そこで「酸素吸入をしている」などと聞けば、一般の人であれば、
重篤な状況を思い浮かべてしまうので、心配して様子を見に来てくれるのだが
実際には、訪問者があると母もハイテンションとなり、会話も弾み、
タンを吐き続けることなく、セキひとつも出さないので、
心配して駆けつけてくれた人は、
“なぁんだ、元気じゃん”と拍子抜けしてしまっていることであろう。

連絡を取り合うにしても、
いろいろと心配をかけてお見舞いを戴いたり来てもらったりでは、
病状報告の仕方も考え直さなくてはならないだろうな、と少し反省(^_^;)

何のおもてなしもできず、お茶の一杯だけで申し訳なかったが、
およそ1時間、いろいろな話をして盛り上がった。

もちろん、母を入れて4人での写真も撮らせてもらった。
これで母は、昼寝の後でも、今日のことをまた思い出すことができる。


2003年01月18日(土) 耳鼻科。

タクシーの急ブレーキによる頭部打撲の後、
内科の問診と脳外科でのCTでは特に異常は見当たらないとの診断であったが、
依然として就寝時のめまいが続いているので、今度は耳鼻科で診てもらうことにした。


駅の階段を歩いて降りることができなくなってからは、
これまで母が通っていた個人の耳鼻科に行くことが難しくなった。
仮にタクシーで行ったとしても、待合室が狭いので車椅子で乗り込むことはできそうにない。

私の勝手もあって、結局、いつもの総合病院の中の耳鼻科で診てもらうことにした。
ここなら、車椅子や酸素の心配もない。


初診なので、問診票を書く必要があったが、
既往症については事前に作成してあるファイルを抜き取って一緒に渡した。


最初に看護婦に呼ばれて聴力検査をすることになった。
「聞こえたら手を挙げる、ということは理解できるでしょうか?」
「たぶん、大丈夫だと思うんですけど・・・(^_^;)」

補聴器をはずし、診察室内のプレハブのような部屋に入って検査が始まった。

終わった後、看護婦に聞いてみたら、
「最初は聞こえた時だけボタンを押していたけど、
 最後の方は聞こえていなくても一定の間隔で押しているように思えた。」と言われた。
痴呆老人の場合、正確な情報をつかむのはやはり難しいようだ。


担当医は、内科の時と同様にボールペンを顔の前に立ててそこに注目させ、
ペンをゆっくり移動させながら、母の目の動きを念入りに調べていた。

その後、奥の診察台に移動し、
母にゴーグルのようなものをかけさせて見ていたが、
動きの良くない左目に対し、
「元々、斜視があるようですが、
 斜視のせいで動きが鈍いのか、他に原因があるのかを調べたい」とのことで、
22日にMRIを撮ることになった。


2003年01月14日(火) ひなたぼっこ

洗濯物を干しに庭に出たら、風もなくて暖かだった。

お隣はお孫さんをおんぶして、広い駐車場をお散歩していた。

寒くなってからは風邪を引かさないことに注意して、
買い物に行く程度になっていたが、そうだ、庭に出て日に当たるのも良いだろう。

いつもは庭に出るための踏み台となっているビールケースの上に、
座布団と電気座布団を重ねて、そこに座ってもらう事にした。

酸素は、ボンベを使わずとも、部屋からチューブを引っ張って使えた。

外に出たら激しく咳き込んでしまい、その声がご近所中に響き渡ってしまったが、
ご理解をいただくしかない。

途中、部屋に戻そうかとも考えたが、しばらくして落ち着いた。

「暖かいね」とうれしそうにしていた。 お隣とも挨拶を交わした。

写真を撮った。

30分ほど、まったりと過ごした。

午後になると風が出てきた。 ひなたぼっこは良いタイミングだった。


 * * * * *



病気の老人を、特に痴呆があると、
まるで世間から隠すようにして外に出さない家庭が多いと聴くが、
そのことが、逆に世間の偏見を生んでいるような気がする。

今後急速に増える高齢者に対応するためには、
経験者だけが考える福祉では追いつかないだろう。
老人の特徴や介護の様子などができるだけ多くの人の目に触れる機会が必要なのだ。

例えば駅のエスカルや車椅子対応エスカレータにしても、
それを利用しているところを見た人が
「あぁ、こういうものがあるんだ」と、知っておくことが大事だと思う。
それによって、家族なり身近な人なりがそういう状況になった時に、
気軽に外出できることができるのだ。

お互いに高齢者を抱えるようになり、
街では当たり前のように車椅子を押す家族が増えて、誰もがそれを理解し、
そういう人たちに対してどう手助けすべきかを自然に覚えていく・・・

歳を取ることがどういうことか、
障害者にとって何が不便なのか、どう工夫すればいいのかを、
健常者も子供たちも、みんなで考える社会になることを願う。


2003年01月13日(月) 存在の大きさ

昨夜、U氏の通夜に行くことになり、私はY氏夫婦の車に乗せてもらうことになった。


出かける直前になって黒のストッキングの爪先に穴が開き、
アッと言う間に伝線してしまった。 白い足の指が目立つ。
途中のコンビニに寄ってもらい、走行中のワゴン車の最後部座席で履き替える(^_^;)

駐車場に車を止めて歩き出してから、
先ほど買ったばかりの香典袋に、まだ名前を書いていなかったのを思い出し、
車のライトを頼りにあわてて記入していたらY氏に叱られた(T_T)

読経の流れる中、ホールには多くの人が集まっていた。
仕事関係と思われる人、町内の人、お兄さんの友達、そしてU氏の友達。

いつもの飲み仲間とこうして会うなんて・・・


読経の流れる中、コートを脱いで受付をし焼香に進む。

写真立てのお父さんは、私が知ってるままのお父さんだった。
笑顔が切ない。
焼香台の近くにお兄さんがいたので挨拶をした。
お兄さんは同じ高校の二つ上で、通学路で見かけると、
いつも、ねじったタオルを頭に巻いてゴム草履を履いている人だった(^_^;)

後で聞くと、U氏は親族とともに、祭壇前の椅子に座っていたらしい。


読経が終わって出てきたU氏が、私たちのところに歩み寄って来たと思ったら、
ほんの数秒だけ、下を向いた。
同級生の顔を見て緊張が解けたのか・・・

「遠くからありがとね」

いや、車で20分程度だし・・・
さすがに今は、いつもの毒舌で返す場面ではなかった。
私は、黙って頭を下げただけだった。



お父さんは10年ほど前からアルツハイマーが始まり、このところは寝たきりであり、
U氏も“こんな状態ならいつ死んでも仕方ないや”と思うこともあったようだが、
いざ死んでしまったら、そう簡単に割り切れるものではない。
彼自身、感情のギャップに戸惑っていた。

親を失くした誰もが「どんな状態でも良いから生きていて欲しかった」と口を揃える。



U氏は現実を受け止め悲しみに暮れる暇もなく、
葬儀の準備に追われて寝る時間もないとのことであった。

「やはり、ある程度の準備は必要だよ」




お母さんは、気丈にもいつもの明るさを保っていた。

「いつまでもキレイでいてくださいね」

「わざわざありがとうね」

「モツ煮が食べたかったな」

「また来てね」

「それじゃ、梅酒をたっぷり造っておいてね」

「去年漬けたのがあるから」

「色もキレイに出たころですかね」

ちっとも、なぐさめになっていない会話になってしまった。
私はこんなにおしゃべりなのに、どうして気の利くことが言えないのだろう。



弔問客も減り、友達6人が最後まで残った。
料理をつまみ、お酒を少し飲み、
会話の内容も次第に砕けて、毒舌の飛ばし合いもできるようにもなったが、
昼間はとても暖かいのに、やはり夜は空気が冷たい。


2003年01月12日(日) 近づいてくる・・・

今朝はなぜか早くに目が開いた。
もうずいぶん寝た感じで「何時だろう?」と枕元のケータイを見ると7時前だった。

メールが来ていた。
お通夜の連絡だった。

同級生のU君のお父さんが亡くなった。
このHPの掲示板にも時々カキコしてくれるU君である。

彼のお父さんは駅前で居酒屋をやっていて、
高校の同窓会や、彼の中学時代の同級生との飲み会でお世話になっていた。
銀行に入ったばかりの頃は、上司に連れられても行った。
彼の家は私が勤務していた銀行のお取引先でもあったので、
ロビーではお母さんにお会いしていた。
お父さんが具合が悪いことは少し前に聞いてはいたが、
今日、友人に聞いたところでは、しばらく入院をしていたらしい。
お店は、彼のお兄さんがやっている。

私は、高校の同窓会で自家製の梅酒を何杯もいただいて飲んだ。
モツ煮という食べ物を初めて食べたのが、彼の店だったと思う。
とても美味しかった。
華やかなお母さんに比べて、寡黙なタイプのお父さんだったと思う。
白衣が似合っていた。





私はまだ、お布団の中でアレコレ考えていたが、
昨夜、夜中に母が起きたかどうかの記憶がないので、逆に心配になった。
そうだ、7時になるのに、今朝はまだカーテンの開く音を聞いていない。

母とは、どのような最期を迎えるのであろうか。
朝、起きたら・・・と言うのだけは、どうか避けていただきたい、と思う。
家族が見守り、手を握ってお別れしたい。
それは誰しもが願うことであるが、なかなか叶えられることでもない・・・


2003年01月11日(土) 脳外科と警察署

昨日の分の続き。

T脳神経外科を利用するのは、今回が初めてである。
いつも総合病院なので、個人病院の待合室は狭く感じる。

受付には既に先方の保険屋からの連絡が行っているはずであった。
名前を言うとすぐにわかった。

私が受付票と問診票を書いている間に、待合室で看護婦が母の血圧と体温を測った。

その後、車椅子のまま処置室の奥のCT室に入り、
検査の間の5分程度、酸素をはずすことになった。
看護婦が介助したおかげか、この時は母はめまいを起こさずにベッドに横になれた。
脳外科では酸素吸入の患者がめずらしいのだろう、
看護婦はボンベの取り扱いなどをいろいろ質問してきた。

CTの画像ができてから診察室に入ると、
医師は体のガッチリとした、明るくハキハキとした、まだ40代かな?という人だった。

幸い、CTの画像からは異常は発見されなかった。
脳の萎縮が見られる・・・つまりは、痴呆症状につながるのであるが、
ここで気になるのは、前の胸椎圧迫骨折の時もそうであったが、
「痴呆」とわかった時点で患者に対する医師の判断に強い先入観が出てしまうと言うことだ。
『症状を訴えても、まともに相手にしてもらえない』という雰囲気がぬぐえない。
今回も、めまいについて「あぁ、もともと痴呆があるのか」という一言が気になった。

CT異常なしとのことで、
それなら今回のめまいは、昨日の急ブレーキとは関係ないのかと問えば、
「まったくないとは言えないが・・・」

「何がそんなに心配なのか」と言われてもねぇ(-_-;)
これまでは一度もなかっためまいを、事故後に訴えるようになったのだから。
素人考えだけど、CTで見てみない限り頭の中のことはわからないのであって。
極細い血管が切れた場合は、症状が出るまでに1ヶ月ぐらいかかるみたいだし。

結局『頭部打撲、全治3日』という診断書が出された。
治療、投薬などなし。

CT画像をデジカメで撮ろうとしたら、
医師が「欲しいなら持って行っていいよ」と気前良く言ってくれたが、
結局は「要返却」と書かれていて、大きな画像は車椅子の私たちには邪魔になった。
家に持って帰ってもなぁ(^_^;) 
自宅ではバックライトがないので、ああいう画像をキレイに映し出すことはできないのだし。
次回、かかりつけの病院にでも持って行って主治医にでも見せますか・・・

診察費・診断書料は直接保険屋に請求するとのことで、その立替、なし。
診断書を持って、そのまま警察署へ回った。


 * * * * *

いつも、運転免許の更新にしか行ったことがないから、
どこが交通事故の受付なのかとキョロキョロしていると、
「○さんですか?」と二人の署員が近づいてきた。

「はい、そうです。良くおわかりになりましたね(^_^;)」

「これ(酸素吸入)をしているのが見えたので」
そう言えば、先ほどの電話でこういう状態だと話してあったっけ。

それにしても、妙に手際が良い。用意してあった書類がサッと出てきたし、
応対の感じもとても良かった。

いくつか私に質問をしながら、署員が“被害届け”に記入をし、
最後に母と立会人として私の、署名と拇印で完成した。
その書類の控えとして、デジカメで撮影しようとしたら断られた。
「コピーはもらえますか?」と聞いてみたが、それもダメだと言われた。
「控えを渡せないので、確認の意味で署名をもらうのです」 あぁ、そう。

こんなことは滅多にないので、手続き上のことを記録したかったんだけどな。
ちょっとやり過ぎかぁ(笑)
滅多に警察に来ないからって、署内を撮影するわけにも行かないし、
署員とツーショットって言うのも、頼めるわけないか(笑)

帰宅後、やはり母は寝ようとする体勢の時にめまいがするようで、
「私はもう死ぬんだろうか?」と少し不安になっているようだ。

これが、79歳の誕生日(1月10日)。
病院2往復、お疲れ様でした。

バースデーケーキの注文はしそびれたけど、ケーキ屋さんで数種をチョイスして来た。


2003年01月10日(金) 知識がないと振り回される・・・

昨日のタクシーの急ブレーキが起因していると思われる母のめまいについて
今朝は一番でかかりつけの病院に行き、診察をしてもらった。

「交通事故によると思われるので診てもらいたいが何科にかかれば良いか」と尋ねたところ、
受付の女性は、どこかに電話をしてから「それでは内科でお待ちください」と言った。

主治医は木曜日にしかいないので、今日はK医師の診察を受けた。

状況を説明したが、
K医師は母の顔の前に差し出した人指し指を目で追わせるのと、
自分の手を母に握らせてみただけで
「今のところ目立った障害は出ていないので、様子見。」と言った。
診断書のことも「必要なら書くけど」と言っただけで、それ以上の説明はなかった。

来たついでにかかった整形外科でも事故の話をしたが、
特にコメントはなく、いつもの注射エルシトニンとフォサマックの処方箋だけで終わった。

9時半に社長が出勤すると聞いたので、タクシー会社に電話を掛けてみたが、
「今、警察に事故届けに行っているので、いません」と言われた。
今回の内科の診察については、先方の保険で出してもらうことを確認し、
整形だけ会計を済ませて帰宅した。
思わぬ外出によって酸素ボンベの残量は、0に近づいていた。



帰宅してベッドに横になろうとした母が、また、
「ベッドが斜めになっているみたい、目が回る」と言った。
やはり、その動作をすると症状が出るようである。


先方の保険屋から電話があった。
「警察署に、事故届けを出していただけましたか?」
事務的で、冷たい言い方の男性である。
「はぁ?」
「こちらは既に出しましたが、
 そちらが出していただかない限り“事故扱い”にはならないんですよ。
 かかった病院で診断書をもらって、
 それを持って警察署に事故届けを出しに行ってください」

もう、帰って来ちゃったじゃん(-_-;)

「朝、タクシー会社に連絡した時に、その件については聞いていなかったので」
「タクシー会社さんは、保険屋ではありませんから、そういうことはわからないと思います。」

それから
「治療費は保険から出しますが、交通費については“公共の乗り物”を使って・・・」
タクシーって、公共の乗り物じゃないの?
「電車やバスで」
それが無理だから、タクシー使ってるんじゃないか。



それから、診断書について病院に電話をしたが、これまたラチが開かない。
診断書をもらうためには「受付で申込書を書いてから2週間後」と言われた。

保険屋は「交通事故用に警察に出す診断書なら、その場で書いてくれるはず」だと言い、
病院は「それなら医師に聞いてみるが、今日できるかどうかはわからない」
と言う。

保険屋は「早く」とせかす。
しかし、すべての酸素ボンベを使い切ってしまった。

酸素屋に、急ぎで持って来れるかと電話。

病院からの電話で、
「先生は、事故が原因かどうかはっきりわからないので、
 事故用としての診断書は出せないと言っています」と言われた。
それならば、もう一度脳外科にかかって、その場で書いてもらおうとしたら、
「今日の診療は、午前で終わりました」とのこと・・・(-_-;)

警察に電話して、事故届けは代理人でも良いかと聞こうと思った。
「本人が来れない場合は、代理人でも結構です。
 タクシーの乗客ですから、現場検証に立ち会う必要もないし。
 内科にかかったんですか? 普通は脳外科ですよね?
 内科の先生じゃ、わからないでしょう?
 車は、相手のタクシーさんに送り迎えしてもらえばいいでしょう」

で、勤務中のレフティーと相談して、これから別の病院(脳外科)にかかることにした。

タクシー会社からは、何の連絡もないので、こちらから電話すると社長が出た。
保険屋から手続きをせかされるわ、病院の医師も受付も気が利かないわで、
私は振り回されているというのに、当のタクシー会社からは何の連絡もないので
私も次第にイライラしてきて、そのことを言うと、
「決して手抜きをしていると言うわけではありません」と低姿勢であった。

保険屋はタクシー代を出さないと言っているので、そちらで出して欲しいと要求すると
「お近くのタクシーを使っていただいて、領収書をいただければ結構です」と了承した。

保険会社の、今度は女性からの電話で、
「これからかかる脳外科の診療費・診断書・交通費はこちらで持ちます」とのことだった。

酸素屋さんが来てくれたので、ボンベを持ってこれから脳外科に行ってきます。


2003年01月09日(木) 検診。

今日は検診。


まずは、タクシー運転手、3連発(笑)

(その1)

タクシー、小型を頼んだら最短の営業所になくて、少し離れたところから配車してくれた。
会計の時に時間がかかった。
障害者割引のための一覧表を持っておらず、割引率をも知らなかった。


(その2)

帰りのタクシーは悲惨だった。
待っているタクシーがいなかったので、電話で呼ぼうかと思っていたら
5分もしないうちに空車が入って来た。
この運転手は乗り込む時からやる気がなかった。
病院玄関には救急車が停まり、私たちのタクシーの後ろには、
同じく車椅子の患者を乗せた家族の車や、業者の車などで詰まってしまっているのに、
言わなければトランクを開けないし、手伝いに来ない。
いや、これは車椅子を積み込むのを明らかに嫌がっていた。
トランクが閉まらないことをブツブツ言っていたし、
私が持参したフックをどこに引っ掛けようかと、じれったいほど悩んでいた。
よほど、乗るのを辞めようかと思った。

後ろに詰まった車にお詫びの挨拶をしながら、やっと私も乗り込んだ。

まっすぐに帰宅するつもりで目的地を告げたが、
このタクシー、前の車との車間距離が短く、
前の車数台がブレーキをかけたのに反応が遅れて、ものすごい急ブレーキをかけた。
前を見ていた私はとっさに身構えたが、母は思いっきり振られて、
運転席の後ろについた『にぎり』(乗り込むときにつかまるところ)にアゴをぶつけてしまった。

コワ〜イ! 町なかで、スピードが出ていなかったから良かったけど。
言っちゃ悪いけどかなりお年も召していらっしゃるし、
このまま自宅までの15分、ハラハラしながら乗っているのはごめんだ。
・・・ってことで、2分後にはスーパーでの買い物を理由に降りました。
「10分ぐらいなら待っているけど」と言われたけど・・・結構です。



(その3)

本日3度目のタクシーは、最近私がヒイキにしているタクシー会社だった。
結構応対良くて“これからは指名が良いかな”と思いつつ、
その運転手の名前をチェックしていた。

ところが、降りる段階になって、
自宅がやっている居酒屋と卵の地方発送のチラシを持ち出してビックリ。(@_@;)
個人タクシーじゃないのだから、
副業の(とは言っても、どっちが副業だかわからないが)宣伝と言うのはいかがなものか?

この不況のご時世、いろいろと生活が大変だとは思うが、
このチラシを助手席の後ろに設置し、自ら配る行為を、
タクシー会社が承知しているのだろうか、と疑問に思った。


 * * * * *


内科は混んでいて、1時間ぐらい待たされたと思うが、
今日はそれほど苦痛に思わなかった。

母も、一度トイレに行きたいと言ったので連れて行ったが、
特に咳き込むこともなく、静かに待っていた。

中の待合室でも会話せずに待っていたので、
主治医は「トイレにでも行っているのかと思った(笑)」と言われた。


「どうですか?」
「先生、私を見ていただいて、
 私がお化粧をして来なかったら、母の状態が悪いってことで・・・」
「そういう見方もあるね〜(笑)」

確かに、一番きつかった時の検診には、私は口紅もしていかなかった。
私は日頃から素ッピンだが、検診も今の私にとっては“お出掛け”なので、
気合を入れることが多い。


酸素を3リットル/分にしているおかげなのか、今日のパルスオキシメータの値は98%。
「大変落ち着いているようですね」と言われた。

体重が41kgだと言うことを、母に気付かれぬよう英単語混じりに伝えた。
昨夜、絹江が母の体重を計った時、あれほど注意をしておいたのに、
「45kg」と言ったため、母が「ええっ?」と驚きの声を上げた。
私が目で合図し「あ、47kg」と訂正させた。
47kgと言うのは、病気をする直前までここ数年間維持していた体重である。
「絹江はド近眼だから、困るねぇ(^_^;)」とフォローしておいた。
母にとって、体重の減少は何よりも不安材料となる。
昔から『太っている方が魅力的』という絶対的な価値観を持ち、
『痩せてきたら、ガン』だと信じ込んでいる人であるから、
ガンでもないのに、無用な神経を使わせてはならない。
ましてや、実兄が近年、ガンで亡くなっている。


いつもなら、主治医の顔を見ると一気にハイテンションになる母だが、
今日は普通だった。
昨夜入浴した際、主治医の顔を忘れたなどと言うので、今朝は写真で確認して来たのだった。
それでも診察が終わると
「センセー、好きよ〜♪ 
 センセーの顔を見に、また来るからね〜 (^▽^)/~~~」と言うのを忘れなかった。(^_^;)

病状が安定しているとのことで、薬も酸素もそのままの量で、
次の検診は3週間後ということになった。
寒い時期なので検診に来るのも負担だし、風邪引きの患者も増えるし、
長く待っていてインフルエンザなどをもらっても困る・・・との理由だった。


 * * * * *


病状安定に喜んだのもつかの間・・・

自宅に帰って横になろうとしたら、「わぁ怖いっ! 今ベッドを動かした?」と言った。
横になるのと同時に、右側にトイレットペーパーを置いて上げたことを
錯覚してのことだと思って笑っていた。

ところが就寝の時間になり、着替えをさせてから寝かそうとしたら再び、
「いやっ、怖い! ベッドを動かした?」と、また言ったのである。

これは、本当にめまいがしているらしい・・・と思った。



そして、私は、この日記を書いているうちに重大なことに気が付いた!!!

母のめまいは、今日のタクシーの急ブレーキによるものではないか、と。
明日、病院に行って診てもらおう。
今、念のため、タクシー会社にも連絡をしておいた。
高齢だし、いつ何が起きても不思議ではないが、めまいはこれまでに一度も起こしたことがないのだ。


2003年01月08日(水) レフティーの休日の使い方。

今日はレフティーの休暇で、午後から日用品の買い物に出掛けた。
よく晴れて暖かかった。

明後日が母の誕生日になるので、年金や恩給関係の現況届けを出さねばならず、
市役所出張所で証明を受けた後、郵便局に行って投函。 
ついでに介護ベッドのレンタル料の振込みと預金の引き出し。

銀行2件にて記帳と残高確認。

マクドナルドに寄って、駐車場の車内で取り敢えずおやつ。

生協の店舗で調味料などを買い、
ドラッグストアで酸素吸入機で使用する精製水と私の化粧品を買った。

それからパソコンショップに行って、A4とB5の紙とフォトペーパーを買った。
パソコンはちょうどこれからニューモデルへの入れ替え時期になり、
レフティーの欲しい機種はなかった。

雑貨屋でティッシュ・トイレットペーパー・米などを買った。

車中、絹江から帰宅した旨、電話が入った。

最後にミニストップでミルクティープリンパフェを買って帰宅。

こうして改めて書き並べてみると10件も回っている。
2時近くに出かけて3時間半の外出だ。

レフティーの休暇は、おおよそ、このように使われる。

そして今夜からはまた、ボウリングのリーグが始った。

リーグの開始時間に遅れないようにするため、
リーグの日に休暇を入れることが多いので、
買い物の後、あわただしく入浴と食事を済ませて、出かけて行くのだ。



 * * * * *


外出用の酸素ボンベが、どれもこれも使いかけで15分程度の量が残っていたので
今日は3本を持参して、途中で交換しながら過ごした。

私が車椅子で買い物に連れて出掛ける時には、
何本も持つことはできないので、どうしても充分な量が入った物を持って行くようになる。
そこで、使いかけが溜まるというわけだ。

ボンベには2種類あって、ひとつは、常に酸素が供給されるタイプで、
もうひとつは、鼻から吸った時だけ酸素が供給されるタイプ。

扱いが簡単な「常に供給されるタイプ」を使うことが多かったが、
母の酸素必要量が3リットル/分になったことから、
ボンベ1本を消費する時間が短くなってしまった。
おそらく、1時間半程度で使い切ってしまう。
まして、酸素屋さんが計ったら、母の1分間の呼吸は普通の人よりも速いのだった。

「吸った時だけ供給されるタイプ」を使用していると、
吸った時には緑のランプが点き、カチッっと音がするのだが、
その間隔は私たちの倍ぐらいの速さである。
『そんなに吸ってばかりで、いつ吐くのだろう?』と思ってしまう。

そんなわけで、これからは「吸った時だけ」の方を使わないと、時間が稼げない。
明日の検診にも、もちろんそちらを持参する。
あぁ、そうそう、酸素屋さんに電話して、ボンベの交換をしてもらわないと・・・


IndexYesterdayTomorrow


ALLURE  ☆ MAIL

読んだら、押してね ↓ 

My追加