ヤグネットの毎日
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2001年10月31日(水) 少年少女合唱団の再生へ また確かな一歩

 31日は、午後から文化パルクで少年少女合唱団のスタッフミーティングをやった。
 12月25日に、クリスマスパーティーを開くのだが、それに向けての招待状のハガキの宛名はり、CDのラベルはりやら、結構、忙しかった。
 これで、また、再生に向けての確かな一歩をふみだした。

 夜は、寺田西保育園の保護者会に保運連の役員としてよばれて、お話をしてきた。本当に、保育行政への要望は切実なものがある。

 地域もOBもまきこんで大きく運動を前進させよう、とよびかけさせていただいた。


2001年10月30日(火) 本が読みたい!!

 月末。いろんな仕事がたてこんでくる時期。順序よく、効率的にこなさないと、たちまちパンクする。

 でも、そんなときに限って、「本が読みたい!!」という気持ちがわきおこってくるものだ。おまけに、昨日は、党事務所の宿直で大変ご苦労をかけている大先輩の方から、一冊の本を手渡された。
 「湯布院発、にっぽん村へ」という粋なタイトルの本で、著者は中谷健太郎氏。あの有名な哲学者、鶴見俊輔が推薦のことばをよせられている。

 読み始めたら、冒頭数ページを読みすすめたところで、「これははまってしまいそうだ」となんとか、「自制心」を発揮して、もう少し落ち着いた頃、そう、赤旗まつりのバスの中ででも(読めるわけないか?)読みたいと思った。

 それから、メルマガの発行が一週間近くも滞っていたので、なんとか書き上げた。
 夜は、地元の党の会議だった。

 う〜ん!読みたいテーマはいっぱいある。

●新自由主義の理論とそれに対抗する思想と運動とは…
 とくに、人間の日常生活、っていうか労働組合や地域の活動、教育にどういう影響を与えているのか、などなどがとても興味がある。
●小説
 高校時代に読みあさった外国文学などももういちど読みたい!
 とくに、チェーホフなんか懐かしいなあ〜
●そうそう、内田康夫の本も、積んだまま。     以上!


2001年10月29日(月) 山砂利対策での議会の様子

 29日は、市議会の東部丘陵地整備対策特別委員会(なんて長い委員会名だ!)があり、委員でない僕は少しだけ、様子を傍聴した。
 城陽市のまちづくりにとって、絶対に避けてとおることができないのが東部丘陵地の山砂利問題だ。
 今からかれこれ40年前、骨材としてそれまで木津川の川砂が使われていたものが、城陽市の山からきわめて良質の砂がとれるということで、砂利業者が山を買い占めた。以来膨大な砂が削られ、また公共残土として他から運び込まれた砂で埋めもどされ、砂利を積んだダンプが道路を往来し、付近の住民は砂埃、震動、騒音などなどで、筆舌につくせぬ苦しみを味わってきた。また、京田辺や井手町から城陽市を仰ぎ見ると、山を削り取って急崖地となった姿がくっきりと浮かび上がる。
山砂利採取を一日も早く終わらせて、住民の声を反映した修復整備、まちづくりをすすめてほしい。そして、当面、ただちにダンプ公害をなくしてほしいーーこれが、地元住民をはじめ多くの市民の願いである。

 ここ1〜2年、議会で議論の俎上にあがり続けたのは、久世奥山2番地という原則として山砂利採取を行ってはならないとされる場所(ゾーン)で例外的に砂利採取を認めるか否か、ということであった。
 細かい経過は省くが、採取を認めるか否かの許認可は京都府しかできない。前の大西市長は、この久世奥山二番地の採取を京都府が認めるという判断をくだす場合には、その不可欠な条件として「ダンプ公害をなくすためにも、久世奥山2番地の採取にあたっても、このアクセス道路の建設時期を明らかにしていただくことが採取の前提条件と考え」ると表明されていた。さらに、採取についての規制条例の制定にむけても準備をすすめていた。
 
 橋本市政は、当然この立場を引き継ぐべきだが、僕が注目したのは、議会のなかでの中立会派や、新与党のみなさんのスタンスである。

 「城志会」の畑中完治議員は、結局、久世奥山2番地が採取OKとなったことを取り上げて、「業者のごね得」と行政の取り組み姿勢に厳しい意見をぶつけ、与党である「緑の会」の議員さんの中からも、地元住民への説明不足等々、行政の取り組みの甘さを指摘していた。

 他の会派はどうか?30日付の「洛南タイムス」の記事を以下紹介する。

 「一方、いっかんして採取を推進してきた『自民党市民クラブの』の野村修三議員、安村治議員、「反対」から「賛成」に回り、京都府の認可に大きな役割を果たした『市民クラブ』の内田茂議員、南村竹夫議員、『公明党』の西村満議員、千古勇議員はまったく発言しなかった」
 注)内田茂議員の会派は、現在「ひびきの会」…矢口

 議会は市民の代表として市民の利益になることは何か、という角度から議論する場だ。
 その点で、与野党の垣根を超えて、行政の取り組みを問いただすことは、大事なことで、拍手を送りたいくらいだ。他方、まったくだんまりを決め込むというのは、いったいだれを守るためのものなのか。
 首をかしげたくなったのは、僕だけではないはずだ。こういった情報をもっとみんなに知らせたいと思った。

 ちなみに、僕はどう考えているかというと、これ以上の山砂利採取による環境の悪化、ダンプ公害の被害を広げないようにするためにも、住民参加のもとに、山砂利採取についての規制条例を策定し、跡地利用もふくめて、市民の声が反映されたものにしていくこと。その過程では、業者への指導や対応を行政が厳しく行っていくこと、当面ただちに、ダンプ公害をなくすための対策(ダンプ専用道路)の建設を強くつよく京都府に働きかけていくべき、だと考えている。


2001年10月28日(日) 宣伝の力、人間のつながり


28日は久世校区の敬老会があって、午前中いっぱい出席させていただいた。
今回、第二部では、久世の体操スポーツ少年団の演技に続いて、文教短期大学付属家政幼稚園の園児さんの歌。(元気いっぱいで、かわいかったなあ)
この子たちみんな少年少女合唱団に入らないかな〜と、一人で考えていた。

 体操のスポーツ少年団は、40人のお母さん達のボランティアで支えられているそうだ。秘けつは、語り合いやイベント、子どもの技術の向上をみる機会などなどやはり保護者たち自らが楽しめる工夫をしていること、だといいます。大いに参考になった。
 それから、宇治田原出身のハープ奏者、内田奈織さんの演奏(ハープを間近にみたのがはじめての僕は、あの調べにいっぺんに魅せられてしまった。)また、宇治中学校の先生で、テノール歌手の奈良学さんの独唱もよかったな。

最後は、東城陽中学校の吹奏楽演奏。とにかく、音楽づくしの敬老会で、僕にとって
は大満足だった。(来賓でいったのか、地域の音楽好きのおっちゃんでいっ
たのか、みなさんからお叱りをうけるかもしれないな。)


 それと、昨日の宣伝行動で、芝が丘で家の中から私の演説を聞いていただいていた方がいた。その方が、私の電話の留守番電話に一度訪問してほしい、と録音してくれていたのに、僕はそれを聞き逃してしまった。
 夕方、もう一度電話をいただいて、介護保険の事、近くの公園の管理のこと、など行政への意見などを聞かせていただいた。
 最後に、私の演説を家の中で聞いていていただいたことをお話してくださり、憲法九条がなぜできたのか、それを日本政府と国民はなぜ守る必要が有るのかなどを、熱くかたっていただいた。「あなたの言うことはまったく園とおりだ。頑張って!」と激励された。
 宣伝の力というのはやはり偉大だ!

 それから、夕方は、僕たちの機関紙「しんぶん赤旗」を広げる行動で、子育てを通じて知り合った友人の二人の方に、購読してもらえることになった。普及活動があまり上手でない僕にとって、同じ子育てに励む友人たちと、子どものこと、教育のことを語りながら、政治の話ができたことは、とってもうれしくて、ジ〜ンと来てしまった。

 


2001年10月27日(土) また、泣いてしまった…

27日の夕方、マイクを握って地域を宣伝。陽はすでにとっぷりと暮れてしまっていて、家々の台所で夕食の準備でしょう、明かりがつきはじめたころ。

 「この空の果てで、アメリカ軍の爆弾で何の罪もない子どもたちが女性が命を奪われています。アメリカの国防長官は、ビン・ラディンを捕まえられないかも知れないといい、タリバン政権の転覆とテロを支援する国家への新たな爆撃さえ示唆しています!武力行使では、テロ容疑者を捕まえ、裁きを受けさせることができないことを当事者が認めています。
 爆撃で心と身体に傷をおい、命を奪われた子どもたちの無念に思いを馳せたとき、この戦争は、私は心の底から間違っていると叫ばざるを得ません。」

 はしなくも、涙がこぼれてきて、地域の人には、聞きづらい演説となってしまい、迷惑をかけてしまった。
 
 明らかに地球的規模での「錯誤」をおこしている。
そのことへの怒りと、自分の子どもと同じくらいの年齢の子が、この戦争で命を奪われることへの無念を思うと、自然と涙があふれてしまう。
 以前、議員であり市民の代表なのだから、感情の高ぶりなどはできるだけ、おさえて泣くべきではない、とある人から言われたことがある。

 そうかもしれない。でも、言わねばならないあふれる思い、自分がなぜこの言葉を発するのか、という内的な必然性ともいうべきものを、形にすることもまた、大事なことではないか。

 


2001年10月26日(金) 一日京都市内で会議

 今日は、一日京都市内で会議。
 子育てと教育に関して、全府から私たちの党の議員が集まって、情報交換と活動の交流をはかった。

 とても、充実していた。

 たとえば、こんな話し。

 ある町では、町長をはじめ町幹部が「保育は子守り」だと頑強に思い込んでおり、行政がなぜ支援せねばならないのか、と超アナクロニズムな発想にとどまっていること。

 30人学級の実現を、というが過疎化で子どもが少なく、もっと子どもを増やしたい、というのが切実な願いという声。などなど。

 地域によって、実情が違うわけだ。だから、それぞれの自治体に応じた、同じ顔をした行政ではなく、個性的で弾力的な行政運営が求められる。
 国からの押しつけ、府からのしめつけ、に抗して住民の声に基づいた行政運営こそ、21世紀の自治体のあるべき姿であることを確信した。


2001年10月25日(木) 党議員団への期待の大きさ痛感

 25日は、午前中に10月議会の一般質問の事前の行政との「打ち合わせ」。打ち合わせというと、なにか、質問前にお膳立てが全部できているように受け取るかも知れないが、そうではない。
 城陽市議会では、一般質問は「事前通告制」をとっており、議会の開会日に質問項目を提出することになっている。
 それで、その提出された質問項目にそって、行政の担当者が(たいがい、現課の課長や部の次長の人)が「なに質問しはりますの?」と取り上げる角度や論点を整理するために、打ち合わせをもつわけだ。

 保育行政の問題と市民参加の方策について、僕が取り上げたい問題を話した。さて、どんなやりとりになるか。こっちも調べて、真剣勝負で臨みたい。
 僕は、よいことはよい、悪いものは悪いとはっきりと言うつもりだ。
 
 午後からは、議員団会議で議会対応と活動方針の論議。
 I議員は、毎日曜日ごとに地域を訪問し党勢拡大でもがんばっていることで有名な方。その方が、たとえ成果に結びつかなくても、地域の人と顔をあわせ「この方は普段こんなことを考えていらっしゃったのか」と新たな発見があったときなどは、とてもうれしい。そういう出会いを求めてまわっているのかも…と話されていた。
 僕は、なにかプレッシャーがすーっとひいていくようで、とても得心した。とても考えさせられる話で、元気になった。

 夜は、党議員団主催の予算要求懇談会。市内の団体や個人のみなさんから、積極的に参加に参加していただいた。
 感想は、党議員団への期待の大きさ。
 要求でむすびつき、市民運動と連携した議員団活動をいっそう大きく展開する必要性を痛感した。


2001年10月24日(水) 少年少女合唱団の再生へまた大きな一歩

 24日は、少年少女合唱団の再生にむけて、また大きな一歩をふみだすことになった。
 午後1時からスタッフミーティング(メーリングリスト「メールのわ」に参加するメンバーが実質、新スタッフの中心に)を開いた。
 その中で、同窓会を兼ねた団のクリスマスパーティーを12月25日(火)午後1時から文化パルクの大ホールで開くことになった。
 
 在団している人、卒業した人、そしてその保護者を中心に招待状を出して、スタッフが作成した、思い出のCD(かつて演奏したものをCD化したもの。)を販売もすることにになった。

 新スタッフの意気込みを見せようと、たとえば、ハモネプ風にアカペラで歌うことの楽しさ、魅力、を知ってもらおうか、そんなことも話し合った。

 「家庭の事情等で日常的に関れないが…」とこれまで中心でがんばってこられた方も、率直に悩みを出してくれて、「都合のつくときに、少年少女合唱団の活動をのぞいたら、自分がホッとできる、癒される、そんな風に位置付けて気軽に参加してくださいね」とみんなで声をかけた。とにかくみんな前向きだ。

 必ず成功するように、可能なかぎり僕も頑張りたい。

 朝、保育園に子どもを送っていったら、ある女の子がお母さんの靴を背中のほうに隠して、お母さんが出てくるのを、茶目っ気たっぷりの顔で待っていた。お母さんが困る顔を見たい、そんな思いだったのか、それとも「お母さんと少しでも長くいたいからかな〜」とも想像した。
 茶目っ気な顔が印象的で、やさしく降り注ぐ朝の日ざしが眩しいふりをして、涙を急いで拭いた。


2001年10月23日(火) 新市長“受益者負担は当然のこと”発言

 23日は、文教常任委員会だった。
 
 議題が盛り沢山だった。言いたいことが山程あったのに、漏らしてしまった問題もり、反省している。

 ダイジェストでまとめておこう。

1、スケートボードの専用施設の設置を求める請願

 全会一致で採択された。他の議員さんからも前向きな発言がされた。僕は、大要次のように述べた。詳細はメルマガで書こうと思う。

 若い高校生たちが、自分たちが住むまちをよくしたい、自分たちの願いをかなえたいと思って、請願をだされた勇気と行動に何よりも敬意を表したい。行政は、この若者たちの気持ち大切にしながら、どういう施設がふさわしいのかもふくめて、意見を聞く場を設けたいという表明があった。ぜひ、具体化をお願いしたい。

2、陳情審査 文化パルクの駐車場料金の軽減を求める陳情

 ここで、橋本市長の表題の発言が飛び出した。そのまえに、少し経過を説明する。

 この陳情は、昨年の12月議会から出されているもので、現在、2時間までが無料となっている、文化パルクの駐車料金を3時間までを無料とするなどして、軽減すること。また、高齢者などを含めたなんらかの軽減策を考えること。このことを求めたものであった。
 私たちの党は、公共施設で駐車料金をとるのはおかしいとして、文化パルクができた当初から有料化そのものに反対をしてきた。
 現在、あの駐車場は、借地をしている関係で、借地料と催しのときのガードマンなどの人件費などを、主にこの駐車料金でまかなっていることになっている。(実際には約300万円の市財政からの持ち出し)。

 1)2時間から3時間までは300円がかかるが、この区分での収入が約600万円。だから、陳情の趣旨のとおり、3時間まで無料にすると、市財政で約1000万円もの出費となる。だから、市財政が厳しい折、この要求を受け入れるわけにはいかない、というのが行政の基本的考えである。
 
 2)また、この間、文教委員会では、私たちの党以外の議員さんは、次のようなことを主張。
●「文化パルクの駐車料金について議論するなら、総合運動公園の駐車料はどうするのだ。ゲートだけつけて無料、文化施設は有料で体育施設は無料というのはおかしい」「市役所南側の駐車場は夜や休日ともなれば車でいっぱい。福祉センターなどを利用する人が止められない」
●こうしたことも総合的に勘案して、結論を出すべきだ。

 3)2)の意見については、行政は「引きつづいて検討中」という態度で、これが昨年の12月から今日まで続いているわけだ。

 私たちは、陳情者の気持ちも大切にして、なんらかの努力をすすめるためにも他の公共施設の駐車料金の問題とは切り離して採択すべき、と主張した。しかし、他の議員さんは、リンク論にたって、行政が他の公共施設の駐車料徴収について、方針がでない以上、今回も継続、という立場で一致し、僕と飯田議員のみが採決を主張して、結果継続扱いとなった。

 橋本市長は、この質疑のなかで、行政として今後の方向性を問われ、答弁する中で、
 「こんなことを言ったら、おしかりを受けるかもしれないが…」と前置きをしつつ、「自分たちが利用する施設について、利益を受けるものが応分の負担をするというのは、当然のことではないか」と言い放った。

 私は、ムカーッときて、市民のくらしが大変な時、何でも受益者負担が当然だ、という姿勢は問題と思って、反論したがすれ違いに終わった。

 このことは、メルマガでももう少し詳しく書こうと思う。

 その他、2000年度の生徒指導のまとめや空き教室の活用計画、学校給食での異物混入、狂牛病にともなう牛肉の使用の取り止め、新センター移転計画の進ちょくなどが議論された。  

 さらに、富野幼稚園の建て替えにかかわっての報告。
 結局、新市長のもとで、現地での幼老複合施設の建設は断念ともうけとれる説明だった。
 「議会の意向を尊重して」というが、教育行政を預かるものとしての主体性、熱意というものが感じられない。ほんとうに失望するばかりだ。

 こんなことで、よいのか!と強く思った。


2001年10月22日(月) 説明責任を果たすということ

 22日は、城陽市議会の福祉経済常任委員会があり、傍聴した。
 公立保育園での延長保育の実施についてが議題となるので、注目した。
 
 久世保育園のみの実施ということで、なぜ久世だけか?
 他の園とアンバランスがでてくるのでは?などの質問が集中した。

 
 「財政がキビシイから」「国の基準云々」と行政は、枕詞のように説明する。しかし、それは、現象をなぞっているだけにすぎない。

 子どもと働く親がおかれている現状をどうとらえているのか、それに対して行政としてはどういう役割を果たそうとしているのか、その具体化として実施した、あるいは実施しようとしている施策がどれくらい、市民のニーズと合致しているのか、どういう改善が必要だと考えているのか、あるいは改善する必要がないと考えているのか、こういったことを、具体的な数字も含めて市民の前に提示をして、市民の判断をあおぐことが、いまの時代何よりも大事なことではないのか?

 11月6日には、この保育行政の問題で一般質問をさせていただく。
 このあたりもふくめて、大きく行政に問いかけてみたい。

 夜は、学校給食を考える会のみなさんと懇談をもった。
 妻の学校の関係で、子どもに御飯を準備していた関係で、僕は行くのが遅くなった。
 市長選挙の結果をうけて、いま行政が給食問題でどういう方針を具体化しようとしているのか、市民の願いはどこにあるのか、今後どうしていったらよいのか、活発な意見が交換され、たくさん要望も出された。

 僕は、正直いって、とてもうれしかった。心の中で泣いていた。
 市長選挙にむけて、合計2万をこえる署名を集めて、自校方式を、の声をあげてくれたメンバーのみなさん。
 結果として、現段階で実を結ぶ形になっていない点で、私たち議員団の力不足、責任というものが問われるのは当然だ。
 それなのに、こうして、また、私たちに向って、懸命に前向きに「子どもたちによりよい学校給食を、教育としての給食をもっとよいものに」と必死に訴えてくださる。
 
 この人たちに真剣な声に報いるためにも、僕は頑張らなければいけない、と心から思った。
 明日は、その給食問題が議題になる文教常任委員会だ。
 


2001年10月21日(日) 風邪でダウン!でも…


 いや〜久しぶりに風邪でダウンした。っていうか、肩凝りからくる頭痛かも知れないが、とにかく頭が痛くて立ち上がれなかった。
 今日は、保育の署名や他の重要な活動があったのに、全部キャンセル。
 あのフォークの神様、笠木透が宇治で歌う、「平和まつり」も楽しみにしていたのに、それも行けず、妻と子どもだけで行ってもらい、CDをかってもらってきた。
 「私に人生と言えるものがあるなら」という歌がある。
 僕の中学校一年生のときの担任が、鈴木紘二先生といって、あの高石ともやと大学時代の友人だった人だ。
 鈴木先生自身が、カントリーフォークが好きで、あるとき、「今日は僕の歌を聞いてほしい」といって、学活かなにかの時間にうたってくれたのが、この「私に人生と言えるものがあるなら」だった。
 その先生とバンドを組んで、文化祭で歌ったりもした。僕は、ベースを担当したと思う。
 鈴木先生の紹介で、中学校二年生のとき、高石ともやの講演会が開かれた。そのときにも、この「私に人生と言えるものがあるなら」が歌われた。
 「ギターひとつあれば、そこが演奏会になる。歌うってことはすばらしいことだよ」と高石ともやが笑顔で話されていたことが、いまでも頭からはなれない。
 
 午後は、どうしても参加しなければいけない行事があった。
 久世小学校校区で行われた「第二回わいわい秋祭り」だ。青少年健全育成会議などが主催して行われたイベントだが、あいにくの雨で体育館中心の行事になったけれども、たくさんの親子づれの参加者。
 いつものMさんやFさん、Mさんなどがスタッフとして大活躍されていた。
 「ひょうたん島」や「たんぽぽ村音楽隊」の演奏、久しぶりに聞いた。いいなあ、いいなあ。
 
 それに久世小学校の先生たちがバンドを作って、演奏を披露。これが、よかった!歌う顔が明るくて、
 「あ、○○せんせい!」などの子どもたちの声もとびかった。
 
 ここに、一つの理想がある。子どもたちをまん中において、学校と地域と家庭と力をあわせて、「子どもを守り、育ちあう」もっともっと発展してほしい、と心から思った。
 僕も、「一参加者」から、「ともに成功させる」役割を果たさなければいけないな、と思った。
 

 


2001年10月20日(土) 古代ロマンに思いをはせる


 城陽市というところは、京都と奈良のちょうど中間にあり、「五里五里の里」とよばれてきた。
 したがって、遡れば大和朝廷との関係も非常に強く、当時の遺跡なども次々発掘され、「古墳のまち」ともいわれている。
  
 20日は、「城陽の自然と歴史に学ぶ交流のつどい」という催しが福祉センターで行われたので、参加をさせていただいた。主催は、「くらし・民主主義・平和を考える城陽の会(準備会)で、来年二月に正式に発足する組織だ。「くらし・民主主義・平和」この三つの点で賛同できる市民なら誰でも参加でき、様々な行事にとりくむことにしている。私もぜひ参加をさせていただきたいと思っている。

 さて、この「つどい」のなかで、安田豊さんという城陽市で米づくりにずっと携わってきた方の貴重な話に続いて、「城陽東部丘陵の古代ロマン ー栗隈(くりくま)氏を中心に」というテーマで講演を聞かせていただいた。講師は、斉藤幸雄先生。このお話がとにかく知的好奇心を刺激される、とてもおもしろかった。
 話の詳細は別の機会にメルマガでも書きたいと思うが、城陽市のいまの久津川、平川、久世と宇治の大久保地域を拠点に、古墳時代から奈良時代にかけて支配していた栗隈氏。大和朝廷とも深いつながりのある豪族で、財力という点でも相当力をもっていた豪族だそうだ。平川廃寺というのがあるが、この寺院はあの有名な法隆寺よりも高い七重の塔であった、というお話もお聞きした。
 車塚古墳、丸塚古墳など貴重な遺跡がたくさん残されている。
 
 話を聞いて思った。観光とは、市外からの入り込み客がどれだけあるか、ということももちろん大事で、こうした古墳などを生かした新しい観光をおこすというのも、まちおこしの一つの手法だ。
 同時に、観光とは、そこに住む人たちがしばし日常を離れ、憩いとやすらぎを感じられ、「このまちにはこんな歴史があるのか」と郷土に誇りをもてるような、環境をつくることでもある。
 自分たちが住むまちの歴史を学んでこそ、郷土愛というものも育まれるものではないだろうか。
 こうしたことに、もっと行政が力をいれていくべきだ。そんなことを考えた。


2001年10月19日(金) たいきょく的な見方

 19日は、日本共産党の第3回中央委員会総会。全党の方針を英知を結集してきめる党大会は2〜3年に一度行われるが、その間の活動方針や政策決定は、中央委員会総会で行われる。
 今回は、いまのテロ問題を中心とした国際情勢と参議院選挙総括、と今後の活動方針について提起された。
 この中央委員会総会の模様は、志位委員長の報告と不破議長の特別発言がマスコミに公開されている。また、全国の都道府県委員会と地区委員会にCS放送で中継されている。
 その報告を地区委員会で午後2時前まで聞いてきた。
 
 感想はいっぱいあるが、確信をもったのは、「たいきょくてきな見方」
 
 なぜ、ひらがなかというと「対極的」と「大局的」の2つの意味があるからだ。

 対極的とは、いまのテロ問題について小泉首相など日本政府の対応と日本共産党の対応とは、まさに対極的だということ。
 小泉さんは、まずアメリカとの同盟ありき、自衛隊を派遣することがありき。国連を中心にして法と理性にもとづいて問題を解決することについて、及び腰、というか背をむけている。
 それに対して、日本共産党は、2つの書簡を各国政府の主脳におくり、テロは人類から絶滅されるべきものであり、そのためには、一部の国による軍事攻撃ではなく、国連を中心にした、無法ものへの制裁と裁きへと転換することをよびかけている。そして、憲法九条をもつ国として国連への協力でも、日本は非軍事の分野で貢献し、積極的な平和外交の先頭にたつべきだ、と訴えている。まさに、対極的。

 もうひとつは、「大局的」

 いったい、21世紀がはじまったとたんのテロによる国際情勢の不安定化、アメリカのITバブルの崩壊、日本経済の先行き不透明で、未曾有のリストラの計画。さらに地球的規模での環境問題、などなど、「本当に地球は、人類は大丈夫か?」と空寒くなるような、事態に遭遇している。
 こんなときだからこそ、これから人類は、どういう方向へと向うべきなのか?という大局的な世界観が求められていると思う。
 不破議長の特別発言は、そのことの重要性を訴えていた。
 
 僕も、いまの自治体がおかれている状況などをみても、「新自由主義、規制緩和」万能論をどうイデオロギー的にも理論的にも、実践的にも撃ち破るかが決定的に大事だと思っている一人で、このあたりのことを突っ込んで勉強してみたい、と思っている。


2001年10月18日(木) 今日から10月議会開会

 今日から、10月議会が開会。忙しい一日であった。
 
 まず、午前10時から開会。補欠選挙で新しい議員が増えたり、会派構成が変わったりなどで、あわただしい。
 冒頭、橋本新市長が所信表明を兼ねたあいさつを行った。どんなあいさつをするのか、注目したが、正直いって、無味乾燥、あたりさわりのない内容だった。しかし、重大な内容もある。
 「安全、安心の快適なまちづくり」「市民にひらかれた市政」などありていの基本姿勢を述べたあと、「行財政改革の推進」。民間活力の導入で、適正で効率的な市政の運営に努めていくことにより、「信頼される市政の回復」を図っていく、と述べた。
 
 税金が有効に使われて適正に使われることは納税者である市民にとって、当然の願いだ。
 しかし、保育所や幼稚園、学校給食やお年よりの福祉の課題など、市民のいのち、子育てにかかわる分野が、コストがかかるかかからないか、という基準だけで簡単に切り捨てられることがあって、よいのだろうか?
 思い返すと、こんどの市長選挙でも橋本市長は、学校給食についての民間委託を示唆していた。
 日本共産党は、こうした市民サービスを切り捨てる民間活力の導入には、正面から対決し子育て支援やお年寄りの福祉の課題が前進するよう、全力でがんばる決意だし、私も行政になんでもかでも民間委託を導入することが、なぜ問題なのかを議会の質問などを通じて明らかにしていきたい。

 議会の初日の5時までが、一般質問の通告が受け付けられる。
 私は、早々と通告をだしたが、いつも先客がいる。私と同期の畑中議員だ。いつも、毎議会、一番で質問通告をだして、地元の問題をはじめ精力的に質問をされている。本当に頭が下がる思いだ。
 
 もう一つ、実は、議会初日で注目の案件があった。
 それは、例のテロ事件について、議会として決議をあげるかどうか、ということ。
 経過は、思いきって省くが、全員が出席する初日の本会議で「テロも戦争もノー、国連を中心にして問題の解決を求める」という趣旨の決議をあげるべきだ、と私たちの会派は議会運営委員会の場でも主張していたが、ほとんどの会派が同趣旨の決議(もしくは意見書)案を作成しており、結局、調整がつかず、初日にあげることができなかった。
 まあ、あげる方向で今後、「意見書調整会議」という場で調整がされていくのだろうが、新人議員として一言感想を言わせてもらえれば、こんな大事な問題が、なぜ初日までに調整をつけて全会一致であげることができないのだろうか?と基本的な疑問をもった。

 午後5時前から、地元の日本共産党支部の方と支部専用の宣伝カーで地元で街頭演説。流しと定点で四回ほど訴えた。
 「ホットな情報を精力的にマイクで訴えてほしい」との地元の要請にこたえて、今後も議会報告などもっともっと宣伝していきたい。
 
 夜は、古川地域のほうへ学習会の講師で呼ばれて参加。約一時間お話をさせていただいた。

 


2001年10月17日(水) ホームページの効用

 
 17日は、翌日から開会する10月議会にむけて朝から市役所の議員団室で会議。
 この日、思わぬところでホームページの効用を実感する出来事があった

 東京都にあきる野市というまちがある。人口が城陽市とほぼ同じくらいの約78000人、数年前に小さいな市が合併してできた新しいまちである。
 そのあきる野市の日本共産党議員団が城陽市に会派としての視察にこられていた。「ぜひ、城陽市の党議員団とも懇談がしたい」というので、午後2時ごろから懇談の機会をもった。
 自己紹介のときだ。「なぜ城陽を選ばれたのですか?」と奥村団長がきいたところ、あきる野市の議員団から、「実は、矢口さんのホームページを見させていただきまして、それで…」ということだった。この方は、ご自身もホームページを開設されて、精力的に情報発信をされている方だ。
 なんとも面映い。インターネットは、このようにしていろんなところで情報をキャッチされているのだ、とあらためて実感した。
 あきる野市では、24人の議員定数で4人の党議員団。副議長のポストを今回獲得することができた、とのことだった。共産党排除の人事を世論に訴えて改善させてきた、という生々しい話も聞くことができた。あっという間にすぎた懇談の時間だった。みなさんは、これから、文化パルクを見学されて、兵庫県の南光町へいかれるということだった。
 お互いの健闘を誓いあって、お別れをした。

 


2001年10月16日(火) 機敏に反応するということ

 
 昨日は、昼間、明日の「しんぶん赤旗」に折り込む「議会活動報告」のニュースを作成し印刷してきた(製造から販売まで何でもするのがこの稼業…)
 夜は、党の会議。
 「18日は議会開会日だけれど、ぜひ議会のようすをマイク宣伝で精力的にやってほしい」とあるところで言われた。何ごとにも、機敏に反応して、つねに市民とともに情報を共有して活動をしてほしい、という趣旨だ。まったく、その通りで「ぜひ18日は議会終了後、宣伝をさせてください」とお願いをした。

 何ごともそうだと思うのだが、ものごとには「機が熟した時」、「ただちにやったほうがよい時」、「ここはじっと様子をうかがったほうがよい時」など、タイミングというものがある。
 そのタイミングを機敏にとらえて反応することがとても大事だと思うのだが、最近、自分にはこの姿勢が弱くなっているな、と反省することがしばしばだ。とくに、人からの相談事等は、信頼関係にもかかわってくることだから、失敗すること大変なことになる。
 妻からは、「それはね、あなたの体重が重すぎるからよ」といわれる。図星だ。健康管理についても然り。結局、体がしんどいと行動をおこすのも鈍りがち。去年の今頃は、議会で質問する関係もあって、太陽が丘まで朝5時前に起きてウォーキングをしていた。
 この間、夕方に太陽が丘のあたりを車で走っていたら、たくさんの人たちが歩いていた。
 僕には、「機敏に反応すること」もそうだが、「継続すること」も足りないようだ。
 せめて、自分のサイトとこの「日記」だけは、機敏に反応し、継続させたいものだ、と思っている。

 


2001年10月15日(月) 我が家に「やもり」

 午前中は、10月の議会にむけての調査。
 その帰り、城陽市内にある「青少年野外活動センター」によってきた。
 実は、この施設の隣りが、あの「スタジアム公園」建設予定なのだ。
 すこし小高いところに登ると、砂利採取を終えて、公共残土で埋めもどした広大な土地を一望することができる。
 いまは、野花が一面に咲き乱れているだけだ。まん中に大きなプラントが残されている。実際の工事にはそのプラントの解体などに莫大な費用がかかるということだ。
 どんな公園をつくるのか、大事なのはそれらを利用する人たちの声がどれだけ反映させるかだが、「市民にひらかれた市政」を標榜する新市政がどんな提案をしてくるのか、しっかりと監視したい。

 午後からはメルマガの原稿や団の議会報告の作成にあてた。

 さて、我が家には、やもりが住んでいる。
 朝、雨戸をあけにいくとき、夕方閉める時、決まってご対面する。このあいだは、家のなかに侵入してきて、家族中でキャーキャーと逃げ回っていた。最初は、気持ち悪かったけれど、昨日はばったりと目があってしまった。よくみるととても愛くるしい目をしていた。
 やもりは「家守」。大切にしなくてはいけないよ、と以前誰から聞いたことがある。
 やもりの生態を知っている人がいれば、誰か教えてほしい。

 


2001年10月14日(日) 2つの感動的なコンサート

 
 14日は午後から「京フェスタ2001」に家族三人ででかけてきた。妻は顔の怪我の後遺症で歩くとめまいと吐き気がするので、行くかどうか思案したが、調子が悪くなったらすぐに引き返すことにして、行くことにした。
 伏見桃山城キャッスルランドは、満員の2万人。人、人、そして人だった。乗り物は乗り放題だったが、待つだけで一時間ぐらいかかりそうで、今回はあきらめた。
 ぐるりと出店などを見終わって、文化のステージの「上田正樹ライブコンサート」をみた。
 このあいだ、テレビに出演していたが、日本でブルースを歌わせたら右にでる人はいないと、そのテレビで紹介されていた。あのヒット曲「悲しい色やね」以外で、上田正樹の曲を歌ったこともじっくり聴いたこともなかった私にとって、日本でブルースを歌わせたらトップということが、どれほどすごいことなのかが理解できずにいたのだが、ライブを聴いて、理屈抜きに納得できた。
 こいつはすごい!バックの演奏も抜群、ベースとドラムのリズムが心臓のあたりをズンズンと突き上げる。
切なさとやさしさが織り混ざったような上田正樹のハスキーボイスは、冒頭からいまのテロと戦争の理不尽さを、日本の政治の腐敗を告発。そのあとも、次つぎと歌い続け、あの「悲しい色やね」は会場も一緒にシングアウト。
 ブルースとは、人間の醜さや弱さと正面から向き合い、それに打ち勝とうともがく人びとの心を歌うものなんだ、そんなことを考えた。
 ライブがはじまったころは、少しどんよりしていた天気も、終わる頃にはすっかり秋の空に。すこし舞台がセピア色に染まった頃、キーボードのやさしいメロディーにあわせて、上田正樹がやさしく語りはじめた。
 「いま、世の中、すこしおかしい、テロもそうだし、教師が自分の生徒と同じぐらいの年齢の子に手錠をかけたり…でも、音楽は、戦争や暴力や争いごとともっとも対極にあるものだ。だから、オレはこれからも歌い続けていきたい。」「小さな子どもたちが知識をいっぱいつめこんで、賢くなって、すばらしい世の中をつくってくれるように」そんなメッセージを送ってくれた。(メモをとっていなかったので、正確に言い表わしていないかも)
 ベースとドラムの音がいつのまにか、僕の心臓の鼓動と重なるくらい、僕もテンションがあがって、自然と体が動いていた。(巨体が揺れ動いて後ろにいた方にはたいへんな迷惑だったろうに)
 帰り、ニューアルバムに上田正樹からサインをしてもらった。サインをしながら、「まさあき、まさみ…。そして僕がまさき。近い名前やね」といって、握手してくれた。サングラスをはずした上田正樹の目はとてもやさしくて、手はあたたかくやわらかかった。
 ブルースを地でいく人間なんだなと、あらためて思った。これからも応援していきたい。

 夜は、梅原司平さんの歌手生活30周年の記念コンサートを聴きに、京都市内へ。
 
 梅原司平さんは、自称「売れない歌手」と自分を表現する。だから、コンサートをひらくスタッフは必死にチケットを売ってくれ、みんなの心が集まって、すばらしいコンサートになる。
 私のとなりのほうに座っていた人が、休憩中、「なんで、こんなすごい人が売れなかったの?」と興奮ぎみに友人に話していた。それくらい、司平さんの歌には、愛があり、メッセージ性があり、高い音楽性があるのだ。彼のトークは、絶品である。昨日も、高校を卒業してから、職を転々とし、生活が安定しなかったこと、失業やシャンソン歌手として花開かなかった頃の苦しみ、そんなときに、いつも自分を励ましてくれたのがギターであり、音楽であったとしみじみ語る。こんな話を聞くだけで、僕は泣けてくる。僕のこれまでの人生も決して一度になんでもクリアしてきたものではなかったから。父親の借金で家をなくし、家族もバラバラ。そんななかで、人のやさしさとかあたたかさ、というものに救われてきたことが何度もあった。
 だから、司平さんの歌声は、「僕もいっしょだよ、心配しないで」と語りかけてくれているようで、癒されるのだ。
 プログラムには、いま、学校現場での演奏機会が増えていると書かれていた。演奏の合間のトークでも、先日は愛知県の校長会で校長先生1500人を相手に歌ったそうだ。
 小さな出来事でも人間の真実に光を充あて、ありのままに歌う司平さんの歌が評価されているのだと思う。とくに、昨日のトークでハッとさせられたのが、「いまの子どもたちに、自分に光りがあてられるような出番があるでしょうか?まわりの大人たちは、子どもに出番をつくってあげているでしょうか?」というメッセージ。子どもの心をひらいて、豊かな感性とまわりを大切にする思いやりを育てる。音楽の役割がますます大切になっている、とつくづく思った。
それにしても、一日で二つも感動的なコンサートを聴けて、本当に贅沢な一日だった。
 昼間の上田正樹と梅原司平に共通しているのは、どちらも自らを「あまり売れていない歌手」と表現していること。売れるものを求めていく、音楽産業の流れにくみせず、自分が表現したい音楽を追求し続けている点において、二人ともこだわりつづけている。だから、人の心をとらえてはなさないのだ。
 こんなすばらしいアーティストが注目をあびて、メディアにのっていかないのは、いまの日本の音楽界が商業ベースにのりすぎていることから生まれる弊害だと思う。
 僕は、二人を賞賛し少しでもそのすばらしさを広げるために自分ができることをしようと思う。
 すばらしいアーティストの音楽を一日に2つも聞くという、本当に贅沢な一日を過ごすことができた。
 


2001年10月12日(金) はじめてのオフ会

 
 城陽市の少年少女合唱団を復活させよう、という仲間がインターネットで「メーリングリスト」をつくり、音楽を中心に交流を深めている。その仲間がはじめて一同に集まる「オフ会」が夕べ開かれ、参加させてもらった。不思議なものではじめてお目にかかる方もいたのに、ことあるごとにメールで意見交流をしているので、初対面という感じがしない。

 少年少女合唱団が誕生した経過、運営の苦労ばなし、そして活動休止にならざるを得なかった背景など、スタッフの中心でがんばってこられた方がたが切々とお話しをされた。

 音楽を通じて、子どもたちに感動する心を育て、異年齢集団のなかで育ちあう。そして、保護者にとっては、学校とはまた違った集団のなかで、わが子が育っていく姿を見つめながら、親同士がまた様々な合唱団活動を通じて育ちあっていく…こうしたすばらしい活動を、ボランティアで支えてきた人たちがいる。その人たちの思いが、ふたたび花開くように、私ができることならなんでもしたい、そう強く思った。

 


2001年10月11日(木) 議会運営委員会開催

 11日は、朝10時から議会運営委員会が開かれた。
 市長選挙後はじめの議会で、新議員の常任委員会への選出や会派構成が変わったことによる議席の配置変更などが議論された。

 テロ問題で、市議会で決議をあげられないか、と考えている。
 他の会派もそういう方向で議論をしているようだ。

 別の会派のある議員さんが、全会一致で実現できるようにしたいですね、と精力的に動いてる。
 党派関係なく、議会としてアピールできることに力をあわせようと、がんばっている姿をみた。とても、新鮮にみえた。うれしかった。
どういう内容がふさわしいのか、僕も真剣に考えたいと思った。


2001年10月10日(水) バタバタとした一日

 10日はバタバタとした一日となった。
 午前中は、市役所の議員団室で執務。議会対応などについて話し合った。
 午後からは、保育運動の署名の作成の段取り、そして夜は久世保育園の保護会。妻の体調が悪いので夜はできにくくなってしまったのだが、署名のお願いなどもあったので出席した。

 そのあと、寺田東と深谷地域の市長選挙のごくろうさん会に顔だけだしてすぐに失礼しようと思ったのだが、あいさつまでさせられ、おまけに歌まで歌わされた。マイクをむけられたらその気になる僕なので、山本さとしさんの「ヒロシマの有る国で」と「そんな町を」を歌わせていただいた。

 夕方、署名の印刷をしているときに、宇治市を中心に子どもたちを集めて、合唱指導をされている方から、城陽市の文化行政の水準をあげる必要性を熱く訴えられる。
 共感するところが、多かった。ぜひ、メルマガで紹介したいと思っているし、議会でもとりあげていきたいと思った。
 とにかく、音楽を中心に支援する体制があまりに乏しい!わが城陽市は。


2001年10月09日(火) 保育の会議

 今日は、夜に行われる保育の会議の準備に追われた。
 ひるは、けがの治療のため学校を休んだ妻と外食にでた。
 
 トンカツ定食を食べる私に、「共食いはみにくいね〜」のきつ〜い言葉。
 キビシイ〜!

 夜の会議では、夏の全国合研に参加してくれた会長さんのレポート報告をしてもらった。秋葉英則さんといって、大阪教育大学の副学長さんのお話を聞いての感想を話してもらった。
 
 いまの時代、「命を守るこだわりが薄れていること」がキーワードだとお話をされたそうだ。まさしくそうだと思う。
 自分の命を大切に育てることができない子ども、また、人を殺す戦争が現にあとを絶たない現実。
 命を守るこだわりを声高に叫び続けることの必要性を強調されていた。会長さんのレポートもとてもよいものだった。

 秋は保育要求実現のための署名運動を大きく展開することが確認された。頑張るゾ!


2001年10月08日(月) ついに戦争ぼっ発

 朝、目を覚ますと悲しいニュースが飛び込んできた。
 ついに、アメリカは報復のための武力攻撃を開始した。「ターゲットは、ラディンとアルカイダの関連施設」ということだが、現に市民の犠牲者がでているではないか。
 
 舞台演出家の妹尾河童さんがあるエッセイで、戦争について次のように書いていた。いま、このメッセージをかみしめたい。

 “戦争”というものの恐ろしさは、戦渦の被害だけではなく、一人一人の心など、全く無視される状況に追い込まれてしまうことでもある。 “戦争”は過去のものではない。今も地球上のあちこちで、現実のものとして起こっている。“日本は関係ないし安全だ”と無関心になりがちだが、「戦争ってなんなんだ?」と、自分に問いかける心を失わないでほしいと思う。
         (妹尾河童 教科書のための書き下ろしエッセイから)


2001年10月06日(土) 久世保育園の運動会

 6日は、息子が通う久世保育園の運動会だった。
 ご多聞にもれず、片手にビデオカメラ、そしてもう片方にコンパクトカメラを構えて、息子のベストショットをとらえようとはりきっていた。
 
 息子の慧(さとし)は、お兄ちゃんお姉ちゃんたちが競技をしている間も、あちこち動き回って、とにかく落ち着きがない。カメラをとっている親に気付くと手をふったり…。

 息子の意外な姿を垣間見たのは、「かけっこ」の競技の時のことだった。
 組みをつくって、かけっこをしたのだが、息子の順番になったとき、「よーい、ドン!」と先生が合図すると、一緒に走る子は元気にゴールで待ち受ける先生めがけて一気に走り抜けたのに、慧は、下をうつむき、そう、「欽ちゃん踊り」のように、両手をぶらぶらさせながら、ゆっくり走っている。ようやくゴール、という感じだった。

 家に帰ってから、さとしに聞いてみた。「どうして、走らなかったの?」
 すると、さとしは「走るのが遅いから…」というではないか。しかも、一緒に走った子に直前ちょっかいをだして、逆に泣かされてしまったようだ。
 両手をぶらぶらさせて、ゆっくり走ることで、走るのが遅い自分をごまかそうとしたのだろうか?この子は自尊心が高いんだ…。
 そんなことを感じた。

 夜、お風呂に入りながら、「慧君、走るのが速いとか、遅いとか、気にすることないよ。慧君が納得いくスピードで、自分らしく走ったらいいんだよ」と話して聞かせた。
 子どもは、どんなに小さくてもはっきりとした人格と個性をもちあわせている。そんな子どもの心のひだ、気持ちの動きを敏感にとらえることができる親でいたい。そんなことを妻とも話し合った。
 


2001年10月05日(金) カメラが故障。やむなく…

 午前中は党の会議に出席した。
 午後からは、10月議会の議案説明会と上下水道部からの聞き取り調査の予定だったが妻がケガをしたため、急きょ迎えと看病のため午後から家に。

 このあいだ、「ネット署名」のチェーンメールの件で、ネットで知り合った方から、問題点を指摘した文章をいただき、ご本人の了承を得てネット上にアップさせていただいたが、思いのほか反応があり、感謝のメールが届いている。僕も、指摘をしていただいた知人に心から感謝したい。ありがとうございました!
 チェーンメール方式の署名が実態として広がっていることと、この問題を正しくとらえることがますます必要である、ことを認識した。
 
 明日は、息子が通う保育園の運動会。カメラの準備をしていたら、これまで使っていたカメラが故障。「どうしよう、本番は明日なのに…」と焦ってしまった。
 愛用していたカメラには思い出がある。妻と結婚したのが94年。新婚旅行で長野方面を回って、岐阜の実家に立ち寄った時のことだ。
 わりと深い用水路を踏み外して、カメラごと落ちてしまい、着ていた服もカメラもびしょびしょに。やむなく、買い求めたものだった。
 あれから7年。思い出もいっぱいつまっているが、可能であれば修理をしてまた使うこととして、新しいカメラを買いに大久保の「キタムラカメラ」へ走った。店員の男性の方がとても、わかりやすく説明をしてくれた。どこか、えなりかずき君に似ていたな。
 結局、オリンパスの170ミリズームのコンパクトカメラを購入した。
 大切に使っていきたい。


2001年10月04日(木) 市役所の議員団で終日作業と会議

 午前中、来年度の予算要求懇談会の案内を郵送するための作業。ところが、僕は、タックシールやらプリンターのインクが切れて、そのかい出しで到着が遅れ、みんなに迷惑をかけてしまった。
 予算要求懇談会というのは、毎年当初予算の編成にむけて、市内の団体や個人から聞き取りなどをさせていただくものだ。
 詳しい案内などは、またホームページで載せようと思っている。

 午後からは、議員団会議。10月議会の対応などを話しあった。

 最近、妻の仕事が忙しいく、保育園の迎えも僕の日課に。
 いまの学校現場は、たいへんだ。
 
 ホームページの「私の本棚」に載せさせてたいだいた著者の娘さんから、丁寧なメールをいただいた。僕のホームページも見ていただいたようで、感想を寄せていただいた。うれしかったな。ありがとう!
 


2001年10月03日(水) 息子を背負って雨戸閉め

 アメリカの報復戦争の準備は整った…マスコミは一斉に報じ、小泉首相は、「戦前の戦争に走った教訓は、国際社会から孤立したから。だから、いま国際協調のもとに、テロ根絶のために日本にできることをやろうとしている。国際協調抜きに、日本の平和と繁栄はない!」と議場で声のトーンをあげた。「最近の首相の答弁は官僚の棒読みのよう」と批判の声があがっていただけに、少しパフォーマンスを入れたのか?

 いきつけの喫茶店のマスターが、日本は弁護士のように、アメリカとの間に入って、外交の力で解決できるような日本にしかできない役割を果たすべきだ、といっていた。このマスターを僕は、「北斗七星」と表現したが、動かぬ場所から、いろんなお客さんと話しをするなかで日本と世界の動きをよ〜くみているな、と思った。

 今日は、満月なので、保育園から帰ってから、少し散歩をして、夜空を見上げたが、見えなかった。雨戸を閉めようとすると、息子が「僕もする」というので、息子をおんぶして雨戸を閉めた。我が家には、平家建てで三方に雨戸があるので、3歳になる息子をおんぶして閉めるのは結構大変だ。
 
 しかし、そのとき、僕の頭のなかでフラッシュがたかれたように、思うことが遭った。

 この間、読んだ「大陸の花嫁」では、著者は「この子と故郷に帰ろう」という一心で、中国大陸を二歳の愛娘を背負いっぱなしで歩き続けた。どんなにつらく、苦しかっただろう。そして、今、アメリカの報復戦争におびえて、アフガニスタンの難民が必死に避難しようとしている。行くあてもなく、テレビの映像で子どもを背負う母親の姿も見えた。
 
 こうした人たちの「子どもを思う気持ち」に思いを馳せることが必要だ。どこまで共感できるのか、人間力のようなものが、今の僕に求められているのではないか、と思った。

 ようやく、雨戸を閉め終えた時、息子が一言「あ〜重たかった。」
 それは、お父ちゃんの言う言葉だっちゅうの!


  


2001年10月02日(火) 「情勢ボケ」というキツ〜イ一言

 メルマガの読者が本日現在で、66名になった。携帯電話用のメルマガも発行しているが、読者が一気に26人になっている。携帯電話の普及が広がって、手軽に扱えるからだと思うが、どんどん読者が増えているだけに、j発行する側の責任も重大だ。

 けさ、よく存じ上げている方から「情勢ボケ」というメールが入った。
 共産党の議員として、いまもっとも知らせるべきは、「米国のテロ報復事件で日本政府の動向がどうなっているのか、国民の世論はどうか、日本共産党はどう考えているのか」ではないのか?そういうメルマガを期待していたのに、内容がそうなっていないので、がっかりした、ということだった。

 ネットのいいところは、やはり即時性だ。自分が発信した情報に機敏に意見が返ってくる。私は、一瞬、ハンマーで殴られたようなショックをうけたけれど、こんなにインパクトをつけて私のメルマガへの返事をくれる、というのは、すごいことであり、喜び感謝すべきことではないのか、とすぐに思った。
 
 メールをくださった方のところへは、高校生が「自衛隊が武器をもって海外へいけるようになったのって本当ですか?」などを心配するメールが届くそうだ。
 
 自分の「情勢ボケ」を心底、反省した。さあ、それを克服すべく頑張ろう!


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