<僕が全然ダメ人間だった高校時代に、ピカソの「ゲルニカ」が日本に来たんですよ。それを見て、麻痺してた部分が戻ってような感覚を味わったんです。> ―引用:「ザ・ロングインタビュー4 人はなぜ笑うのか?―太田光」の一節
P君とは、僕の友人だ。 P君は笑わない人、と思うのはおかしい。 彼は実際には笑っている。 しかし、普段の笑っていないときの表情があまりにも笑いそうにないものである為、そんな印象を受けやすいのである。 そして彼は、僕らの共通の友人、仮にT君の赤ん坊を見た時に、僕が今まで見た中で一番の笑顔を振る舞っていた。 確かに僕もその赤ん坊を見たときに、この上ない尊さと愛情を胸の中に沸かせていたが、P君がその時に見せた表情には何か引っかかるものがあった。 普通、とって置きの笑顔というのは自分が幸せだなと感じたときにするものなはずだ。 それとも、そう思い込んでいるのは僕だけで、彼のそういった行為はまともなことなのかもしれない。 しかし、僕はこう思う。 彼が友達の赤ん坊にとって置きのそれを見せるということが、よく分からない。 まじかに見た事が今までに無かったのだろうか? やはり何かに引っかかったのである、彼の笑顔が。 やはり赤ちゃんという存在は、何度見てもその神秘的な存在に魅了されいつの間にかに表情がほころばせてしまうというのか? よく解らないが、笑うという事はが緊張の状態から解放された時に生じるものだと仮定した場合、彼はよっぽど日常の生活にゆとりがないのだろう。僕も人のことは言えないが、そんな風に感じてしまったのである。 僕にとっては、赤ん坊よりも、赤ん坊に見とれて表情がほころんでいる彼の方が、よっぽど笑えた。 確かに、笑顔になる事と笑う事は違うのかもしれない。 言い方を変えると、人は緊張状態の後に顔を緩ませるが、どんなことによって緩ませるかというのには何種類かのものがある。 例えば人は面白い状況に遭遇したときに笑ったり、また今までに感じたことのない神秘的なものを感じたときに笑ったりする。
笑うということは、ピンと張っていたものを緩ませる効果があり、本来、人間が本能的に欲するもののはずである。 しかし今の世の中、日常の中で笑うことが少なくなっている、と思う。 それは何故か?簡単に言えば、現代人は新しいものを生み出す事を忘れているからである。 何かを新たに生み出す事は、けして楽な事ではない。 楽なはずがない。 P君はたまに思い出したかのようにこう言っている。 「音楽とか作りたいし、絵も描きたい。」 彼は昔、学校の先生に絵が上手だねと言われたことがあるらしい。 本人も自分は絵の才能があると言っている。 彼は、自分の脳の奥の方の麻痺したように眠っている部分を蘇らそうと賢明である。今はそのチャンスを伺っているのであろう。
理屈ではない。 彼のあの時の、赤ちゃんを見下ろして笑っている姿は、僕の目には正直無気味に映ったのだった。 まるで彼は、赤ちゃんを見る事によって自分がどこかへ連れ去られる心配が消えたかのように笑っていた。 今思い起こせばそのように感じる。
―終わり―
ついしん、改めて上の文章を読んでみると、少し抽象的な事を言ってるな、という気はするが、しかし、頭の中にあった整理したい思いを自分なりに処理できた事を、彼という友達がいる事と同じくらいに誇りに思う。
2002年04月27日(土) |
タモリのお尻はキレイ |
<シーラカンス> 最近、よく疲れる。 何をしても、疲れる。 そして、何もしなくても疲れる。 唯一、夜ベッドに潜りこんだ時、全身の疲れ、特に足の疲れが肉体からスーッと離れていくような快感がある。
例えば友達との会話が盛り上がっている時には、疲れなんて感じていない。 しかし、会話を中断してトイレに行こうと席を立った瞬間、その時まで感じてなかった疲れを感じてしまう。
この日記を書くのにも、「何だか疲れてるな」と思う時は書く気にならない。 なかなか、何事においてもやる気にならないのである。 そして、一旦何かをし始めたとしても、集中力が続くかと言われると、それさえも疑わしい。 一体、どうしてしまったんだろうか?
<うちのTV事情> うちはキッチンにTVがあって、もう一台は洋間にある。 しかし、殆どの場合は皆キッチンで見る。 そして、ビデオデッキはキッチンのTVにしか無く、GOのビデオを借りてきて見るにはキッチンでしか見れない。 何が言いたいかと言うと、ビデオを洋間で見る事が出来ないと言う事だ。 当たり前な事ではあるが、結構この事は辛い。 例えば母やおばあちゃんがキッチンで何かを見ている場合、僕は昨日録画しておいた好きな番組を見る事が出来ない。 母やおばあちゃんは、98%以上の確率で洋間では見ない。 じゃあ僕が「ちょっとビデオ見たいからあっちで見てきて。」と言えばいいじゃないか!とも言えるが、それはさすがに僕の良心が許さない。 そんな時、(僕にもまだ良心っていうもんがまだあったんだなあ〜)としみじみ思う(笑)
キッチンは暖かい。 それは、それが位置するのが南側であるからで、またそこには当然の事ながらコンロがあるからだ。 冬には出来る限り洋間には居たくない。 そこの空間はいかにも寒々としているからだ。 そして実際ストーブでもたかないと、なんだか寂しくなってしまう。 しかし、矛盾しているかの様に聞こえるかもしれないが、春にも、夏の期間でさえも、あまり洋間には居たくない。 それはなぜか? それは、あの部屋の雰囲気に原因があるからとしか考えられない。 うちの洋間は、所謂客間として造られたものであるから、雰囲気もどこかよそよそしいのである。 あの部屋は、<過ごす>部屋ではない。 だから、どうしても洋間でTVを見る場合というのは、誰かがキッチンで見ている時に、僕も違う番組が見たいという時だけだ。 出来るだけ、特に夜の時間には居たくない場所である洋間。 こんなに僕に居たくないと言われている洋間は、あくまでも来客用の部屋なんだろうか? そんな存在のその部屋には、滅多にお客がやってこない。 たまに、僕の友達が来るくらいだ。
<行定勲監督作品> 今日は「めちゃイケ」「デリスマ」が野球で潰れたので、母とキッチンで映画を見る事にした。 僕は「GO」という映画をビデオデッキに入れ、再生した。 僕は映画館で一回見たのだが、母がこの映画を見てどう反応するかに興味があったのもあって借りてきた。
映画はあまりにも有名になっていた。 日本アカデミー賞授与式でもかなり目立っていた。 どうやら日本での各映画賞を総なめにしているのだという。 ところで本家のアカデミー賞には外国映画賞部門へ出品したらしいが、どうやらノミネートさえもされなかったらしい。 それもその筈、この映画の話には、在日韓国人(朝鮮人)の日本での問題が扱われているからだ。 そんなんをアメリカ人が見たって、あまりピンとこないのは目に見える。 まあ、そんなことはどうでもいい。
この「GO」という映画は、とても面白い映画だ。 小学生よりもひどい感想に聞こえるかもしれないが、そんな事はない(笑) 具体的にここがこう面白かった、とかいう事は言えるが、そんなのは見てみれば分かる。 面白い、というのは、この映画を全体的に捉えての感想だ。 やっぱりそれは、主人公が負のエネルギーをプラスの方に転がしている点にあるのだろう。 その転がし方っていうのに対して、僕は頷けたのが面白いと思った訳であろう。 そしてそういう事が、監督も脚本家も俳優も優れていたからこそ仕上がったのだと思う。
さっきも言ったが、話の筋の所々で、ユーモアの効いた笑えるシーンがあるが、やはり最後の杉原の怒鳴り倒していた独り言が好きだ。 この映画を日本人の監督が撮って、本当に良かったと思う。 もし在日の人が撮ってたら、僕らは申し訳ないと思う事しか出来ない。 しかし、日本人の監督が、自分達の身に降り注いでくる火の粉を覚悟の上で、あの怒鳴り倒していた独り言を杉原に言わせるシーンを撮ったということが、理屈抜きでカッコ良く思えた。 在日である杉原というキャラクターにああいう事を言わせたからには、その点において、「GO」を見た僕らは蹴りをつけなければいけないだろう、自分達の気持ちに。 ま、見てない人にとっては何のこっちゃー?ということなので、はやいとこ見てない人はご覧になってね。
―END―
ついしん: 僕の友達は、たとえ自分の家の机に「GO」のビデオが転がっていたとしても、きっと見ないだろうと言っていた。 あほか! そんなに窪塚が嫌いかい? そんなに人の薦めるもが受け入れられないのかい? そんな彼には、騙されたとおもって見て欲しい。 僕が彼に「GO」を見て欲しいと思うっていう事自体は、僕自身にも彼にとっても悪い事じゃないでしょ? ある一つの作品を、あーでもない、こーでもないと語り、共有するということが如何に大事か、もっとしみじみと感じなさい。 と言っている僕はかなり傲慢で押し付けがましくて、それでいてわがままな生き物だと思う次第です。 だって・・・ちゃんと彼が僕に薦めた「デッドマン・ウォーキング」見たもん。 「最終絶叫計画」も見たもん。 「裸のガン・・・」のパート1も、半分見たもん。(時間の都合上)
「ドキドキと世を救う女性像」 本当は歳を重ねる毎に、人間は何も感じなくなっていくのだと思う。 言い方を変えれば、次第に無感動になると言う事だ。 この事は、芸人の島田紳助が言っていた。 以前その事を聞いて、なるほどと思った。 しかし、僕は二十歳にもなってむしろ段々と胸がドキドキする事が多くなっているような気がする。
昨日、地下鉄の階段を上がっていたら、先を膝上のスカートをはいている女性・・・というか女の子が歩いていた。 長時間椅子に座っている時などによく首を回したり前に伸ばしたりしてマッサージをする事がよくあるが、まさにそんな要領の仕草で、そして夜空の星に見とれるかのようにしていた。 そんな時は未だに胸がつかえるような感じになるのだが、じゃーそんな時に沸いてくるこの想いはどうすれば良いのか?っていう話なのである(笑) そしていつも思うのだけど、昨日の場合は特に問題は無かったんだけど、よく最近では短いスカートをはいているくせに堂々としてない人が多い。 特にそれは女子高生に多く見受けられるのであるのだ。 別に見たい訳ではない(笑) そうでなくて、そんなに気になるならそんなのはかなきゃいーじゃんという事なのである。 ましてジャージを下にはくなんて・・・ 要は僕が願うのは、もっと態度を堂々として欲しいなということなのである。 確かに制服なんかだと、周りの目の事もあって長くするわけにもいかないっていうのは分かるんだけどね。 ま、大変だなとは思います、そこんところは。 でも、個人的にはそれならロングスカートかズボンはいてくれよと思ってしまうのです。(制服では無理だけど)
僕は、どんなものをはいていようが、階段を上る時にも普通の平坦な道を歩いている時のように歩いてる人って格好良いなーと惚れ惚れするのである。 そして、膝上のスカ−トをはいているにも関わらず、堂々と上がっていっている人を見ると、そうだ!こういう女の人が時代を引っ張っていくんだなと思う。 僕はカッコイイ女性が好きなのである。(男勝りと言う事ではなくて) でも、やっぱりどっちかというとスカートはいて下さい(究極ロングでもいいから(笑))
―完―
2002年04月22日(月) |
今ではすっかり偉くなっちゃって |
「世界の名言集」 ○結局お金を持ってる人間が得をする(仏、フランソワ・デ・ナシノツブテーヌ、1889〜1903)
通算11枚目のミスチルのアルバム「青色のばか」平成16年7月30日発売決定! 0.ニュートラル 1.空間の限界 2.少年パーティー 3.たまには跳ね返す 4.ぼや 5.石油王の<目指すは月>!? 6.フェイキング・トーク 7.切れ味 8.開いたスプーン 9.踊るよ桟橋で 10.がっちり 12.爪切り職人のキセル 13.日本万歳 14.My name is… 15.クッションの機能 なお、11番はこのアルバムには入ってません。 申し訳ございませんが近所の駄菓子屋さんで別途お買い求め下さい。
平山綾が笑うと・・・。
人間というのは太古から自然から脱却しようとする生き物だ。
憧れの世界を思い浮かべながらここまでやって来た。
いいともで、007にはボンドガールがいますから良いですよ、と言われて答えたタモリの一言→付き合うの面倒くさそうだもん。
関根さんに合ってみたい。何故かと言うと、きっと根は厳しい人だと思うから、TVで見ている時と、実際に会ってみた時とのギャップがあると思う。だから会ってみたい。
―END―
ストーリーのない映画というのはやはりつまらないものなんだろうか? 尺の長さにもよるだろうけど、やはり一時間半とか二時間半くらいのものになると、やはりストーリーに乗せて語られるべきなんだろう。 人一人がじっと宙を睨んでいるだけの映画ってのはやはりありえないのだろうか? 映画にするべき題材というものがあるとしたら、それはやはり…
釣竿を池に投げ入れても 何の反応もありゃしない 僕はただじっとたたずんで 池に映る月の光を眺めて
「魚が池の中にいるなんてまだ思っているのか?」 そう言ってその光は揺らぐ その時初めて知ったわけではないけれど 知らぬふりしていた僕は一体何?
冷めた気分でぼうっと辺りを見渡しても 何の発見もありゃしない 近くに停めた車の中には 残りわずかのガソリンが入ってる
僕はまた、池の辺に蹲る 月の光はさっきよりも弱くなっているけれど もう釣竿は車の中で 魚の餌は池に放りなげた その時、やけに背中が刺すように冷たく 同時に後ろの方からの眩しさを感じられた
四時間後にやってきた太陽が差し込んできて 僕はズボンに付いた砂を払い立ち上がった 後ろを振り返ると、なぜか車は跡形も無かった そして手前を向いて分かった 池の中心に車は沈んでいく光景が目に映った
その一瞬の出来事を僕はすんなりと受け入れた 帰り道を歩いていると、車が通りかかった その車のドライバーは、近くの駅まで乗せていってくれた 家に着くと、僕の家は月の光にさらされていた
―END―
ついしん、論理的思考は大切だ。
ヒトはそれぞれに自分の中で到達点というものを持っているような気がする。 今日、僕は「コンタクト」という映画をビデオで見た。 ところでMr.Childrenの「NOT FOUND」という曲は、「コンタクト」の内容とつながっているような気がする。 〈僕はつい見えもしないものに頼って逃げる〉〈君はすぐ形で示して欲しいとごねる〉 コンタクトの主人公の女性科学者は、まさに君であり、僕であった。 彼女は宇宙という途方もない空間に釣竿を振り上げ、手ごたえを感じ、糸を手繰り寄せた結果十八時間分の魚を一瞬にして釣り上げ、持ち帰ったのである。 〈こんな広い宇宙に、人類だけではもったいない〉 そう彼女が子供達に言った時、ヒト一人が求めているものは、自分以外の誰かが持っているんだと思った。一体誰が持っているんだろうか? ついしん、この映画は地球外生命体からの〈接触〉がストーリーの発端になっていて、実際に主人公がそれらしき生命体に出会うまでが大筋の展開だが、劇中僕らが普段想像してるような宇宙人らしき姿を一切見せていないのが本当に良かった…あ、少しネタをバラしてしまった。 御免。
―END―
火曜の夜には決まってテレ東系列のチャンネルで爆笑問題の番組を見ていたのは三月までの事だ。 もう火曜の深夜枠、11時55分からは彼らの番組はやっていない。 あー悲しいよ本当に。 でも新番組も同じテレ東やフジテレビで始まるそうだしまあいいか。 それにしても火曜の夜にΓテッカリ開いた穴は何が埋めてくれるの? そうだ、「ぷっすま」があるではないか! 新聞のテレビ欄を見ると、いつの間にかぷっすまが一時間番組になっているのに驚いた。 ぷっすまは他愛もないが、ふとんに入る前に見る番組としては丁度いいような気がした。
2002年04月09日(火) |
もし嫌いな人がだんご虫だったら何回もつついて丸くしてやろう! |
「無駄」
>「勝手にそんなことされたら我々貧乏人がとばっちりを受けるんですよ!!」 ある会場で主婦はそう叫んだ。 その姿は必死だった。 誰に叫んでいるのかというと、相手は文部省である。 文部省は子供を抱える母親に向かって説明をしていた。 この春から小学校などでは学習内容が三割減るそうである。
>ビートたけしは小さい頃、よく母親に勉強をしなさいと言われていたそうだ。 貧乏人がお金を手にするにはそれしかないという理に適った言い分である。
>日本には古くから<量より質>という言い回しがある。 また、経験を積み重ねる事の大切さというのもあるだろう。 何にしろ、僕はお母さん方の集まりの中に立ち、学習内容の三割削減を痛烈に批判していた母親の形相が忘れられない。
>僕はなぜか好かないのである。 何がと言うと、三割削減に対して五月蝿く批判する人達の事である。 甘いと言われるかもしれないが、母親というものは、あんな風に、あんな所にエネルギーを使うものなのだろうか? もっと違う所に使うべきなのではないのだろうか?
>基本的には英才教育の風潮だって嫌いである。 ただ、その言葉の響きに問題があるのかもしれないというのを補足したい。
>規律があるからこそ、自由を感じる事が出来るのだと思う。 親は子供に五月蝿く言うものであろう。 また、子供の事を理解しようともしなければならないと思う。
>松本人志という芸人は、ロッカーを蹴る少年の気持ちが分かると言う。 そのロッカーとは、大抵どこの小学校や中学校の教室にも置いてあるような奴の事である。 「そんな事に理由はない。」 「ただ何となく蹴るのである。」 「何で蹴ったの?と聞かれても分からないものである。」 「今僕が言った事を小学生の前で言ったら(よう言った!松本は僕らの気持ちが分かってる!)と思うでしょう。」 こんな事を以前雑誌で語っていた。 僕はこれを見て、その時何故か泣きそうになったのを今でも思い出す。 彼は、TVで見せる表情では想像が付きにくいが、意外にもいい父親になるだろう。 そういうことなのである。 いい悪いというのは裏腹でなんとも判別の付けようが無いが、ピーンときてしまったのである。 「お前がそうだから駄目なんだよ、あらゆる意味で。」と。 今度ファミレスで友達と語る機会があったら絶対言ってやろうと思う。 あーいう親がいるから日本は駄目なんだ、と。
>少なくとも、僕はこう感じてしまうのである。 会場で勇ましく叫んだあの母親は、子供の事を分かっているのかな?と。
>補足しておくが、学習内容が減った事に関しては、現段階ではなんとも言いようが無いと思う。 ただ、NHKでやってる「課外授業 ようこそ先輩」という番組を見て、僕もあんな授業がやりたかったなぁと今にして思うのである。 理由は、面白そうだからである。
>子供は大人が思う以上に賢く、勝手に育つものである。 親というのは、子供に何を補う存在なのか? それは各々の子供次第で変わってくる。
―お前なんか爆笑問題著「対談の七人」でも読んで出直してこい!文句あるか!!バーカ!!!絶対お前なんかより僕の方が幸せだ、母のおかげで―
「やべっちFC」という番組が始まった。 彼らしさが出ていいね。 ついにナイナイもばら売りっすね。 でもそのままバラバラに空中分解しそうにもない所がいいね。 開店祝いならぬ開番祝いのお花が岡村から届いてたのにはちょっと笑えたしね。 一人で岡村さんは何してんだろか? お家で独り何してんだろか? ところであの番組は生なんだろか? 生だとしたら、丁度僕がこの番組を見ていた時に岡村っちも見ていた可能性もあるね。 相方が自分から離れて活躍する姿。 彼の目にはどう映ったんかね? なんで僕はこんな語り口調なんかね? そんなんはどうでもいいけどね。 まぁね、この番組の後のニュース番組のキャスターが良くってね、何か。 乾貴美子とかもいいなってたまに思うんだけどね。 こういう人達が結婚したいタイプだなって思ったりしてね。 そういうイメージが僕んなかで膨らんでいくのが悲しくってね。 もうワーなるね。 眠れない夜だなぁ。 息の詰まる夜でもあるなぁ。 寝たくない。 眠れない。 何もしたくなくて、これをただやっているだけで、 色んな事をやらないといけないんだけど、 やっぱりする気にはなれないんだけれど、 意味の無い、周りから見れば意味の無い満足感には妙に満たされているね、何かね。 これはもう生き地獄のエクスタシーだね、ほんとにね。
「二秒弱のもどかしさ」 ビデオ屋の階のトイレはすんごいよ。 トイレがっていうか手洗う所がすんごいよ。 一回押したらある程度水がジャーなるタイプの蛇口でね、 その時間が二秒弱。 もう手先のコメディー劇場みたいなもんでね、 押してすぐ蛇口の下に手持ってったらもう途切れてる。 で、すぐに押してまた持っていってね。 「なんだこの短さは!」っていっつも思うんだよね。 両手でこすって洗いたいからね、 片手で押しててもう片方の手は絶えず蛇口の下にってのは嫌なんだよね。 だからもどかしいんだよなぁ〜。 たまに笑いそうになるもんね。
ビデオ屋でのもどかしさと言えばもう一つある。 時間って気になるんですね、僕は。 映画の尺がね。 で、パッケージを裏にして見ようとする。 と、見えない。 なーんでか? もう絶対隠れてるもんね。 92%隠れてるもんね、バーコードでね。 何であの位置に?思うなぁいつも。 パッケージの下の方に小さくある<91分>とせっかく印字されてるのにね。 かわいそうに。 で、変わりにビデオテープ本体の方には書いてあるかな?って思って出して見てみると、これはほんとにフィフティー★フィフティーであるかないか?という具合なんだよなぁ、<91分>の文字とかが。 会社によってだと思うんだけどね。 まあね、間に星いれてみたりしてね、すべってしまったりね、するよね。 ゴメンね。
「表のない裏」 表のない裏とは一体何か? それは壁に書かれた<裏>という文字だ。 これにはさすがに裏はないと思うのだが・・・ でも一休さんに解かれそうで怖いなぁ。
「絶叫フロア」 このフロアは映画「M・I」(ミッション・インポッシブルではない)に時折登場するスペースだ。 何かいいね、この響き。 <ゼッキョウフロア> 実際にこんなフロアが現代社会にあったら凄そうだな。 何叫んでんだろ? 僕、何叫ぼうかな?
「M・I」 引き続きM・Iネタで。 この映画のパンフレットに吹き替えにチャレンジした爆笑の田中のコメントが載っている。 彼はその中でこう言っている。 「マイク(彼が吹き替えをしたキャラクター)には映画を見てすぐに愛着が湧きました。でも表情が人間以上にすばらしかったので、その表情に負けないように・・・」 え?比較すんなよ! 人間とCGのキャラを比較すんなよ! つっこみの彼に心の中でそう突っ込んでいる僕がいた。
「本当の役割」 引き続き田中ネタから。 彼は一般に言う所の<ツッコミ>という役を、本業のほうでは担っている。 がしかし、本当は違うのだと言う人がいる。 その人に言わせると、彼は本当は<怒り>なのだという。 そういう役を担っているのだと言う。 彼は他にもいろんなツッコミの人の事をこう言っていた。
・とまどい(浜口) ・指摘のち笑い(濱田) ・「違いますやん岡村さん」(やべっち) ・調教(天野) ・一番近くのお客さん(ひらはた) ・入り突っ込み(三村) ・腫れ物扱い(えんどう豆) ・逆に突っ込まれるのを知っていながらのツッコミ(徹)
三村さんの<入りつっこみ>については、まぁこの言葉の雰囲気で理解してね。 ん〜何て言うかね、よく巷では三村もボケになっていると言われてるが、あれはボケの発言に対して突っ込んでると言うよりは、ボケの世界観の中に入り込んでそれに対して突っ込んでいるのだと僕は思う。 例えば相方が、シュールなおやじギャグを言うボケをした時の場合で説明してみる。 ボケ:鹿を叱る、夜中まで。 ツッコミ:許してやれよ! これがその一例である。 「鹿を叱る」というのは単なるおやじギャグだ。 それに「夜中まで」を足したことによって、鹿を夜中まで叱る状況を想像させることによって、このやりとりに面白さが生じる仕組みになっている。 なので、通常のツッコミならば「夜中まではいらないよ!」とか「後ろがいらなによ!」というものになりがちな所を、三村はあえて客の視点で突っ込んでいるのが<入りつっこみ>ということなのだ。 つまり、ボケの世界観に入って突っ込む、ということだからそういうネーミングにしたのだと、その人は僕に言った。
―エンドウ豆―
明石家さんまが喋っていない時ってのは、「スティング」や「フィールド・オブ・ドリームス」を観ている時だけだろう。 (寝ている時でさえ寝言を言ってそうだし)
「構想」 耳の聞こえが悪い男は作曲家。 次第に聞こえが悪くなっていく。 もうすぐ聞こえなくなるのは自分でも分かっている。 「私はこれから最後の作品を作らねばならない。」 そう決意した男。 最後の作品にとりかかった彼。 創作過程の途中で耳が聞こえなくなり、それでも彼は作り続けていた。 ずっと泣き続けながら作っていた。 実はこの男、今まで本気で作曲というものと向き合った事が無かった。 もしこの世に神という存在がいるならば、神はその男に悪戯をしたのであった。 耳が聞こえなくなってからの自分を想像し、苦悩する男。 しかし、彼の耳が実際に全く聞こえなくなってから、意外な程に安らかな気持ちに浸る生活を送る事になる。 その<安らかな気持ち>というものはどんなものなのだろうか? 今まで気がつかなかったものに日々気が付いていく幸福な時が彼を包み込んでいる日々。 しかししかし、彼はまだ森の中を歩いているのに気付いていなかった。 そして、彼はお釈迦様の手と手の間に挟まれたのだった。 そして出来上がった作品はどうなったのだろうか? ―END―
「ビィローン」 ビィローン担当の役者、植松良祐(うえまつりょうすけ)。 ビィローンとは、はみ出しものの存在である。 基本的に、今回彼が出演する作品は、一着の服そのものが主人公であり、服の視点で話しは進んでいくのである。 因みにこの物語を発案した人は、お笑いコンビ<アップタウン>の不朽のコント作品<動物王国>からヒントを得ていた。 もっと詳しく言うなら、ビィローンとは、一着の服になぜかビィローンと付いているアクセサリー的なものである。 その服は青い色であり、そのビィローンは違う色である。 いや、ほんとは同じ青色なのであるのだが・・・ 最後に言っとくが、この物語は、ビィローンにまつわる御話である。
―本当のEND―
其の一、最近岩崎ひろみがつぼだ。 其の二、ミスチルの「雨のち晴れ」はシングルバージョンの方が好きだ。
圧 死 だ け は し た く な い ! (あ、麒麟(きりん)と猥褻(わいせつ)っていう漢字はやたら難しいなぁ。珈琲・・・は微妙に難しいかな?鮫肌・・・?吉村・・・全く難しくない。樹艪・・・?図胃図胃?痔簿?須嬢?・・・ん?ん? もう寝ます。)
―頭が薄っすら痛い―
2002年04月02日(火) |
この日記、4月4日に書いているので |
この日記、何と4月4日に書いているので、要は「何で2日の日記んとこに?」という疑問がお沸きでしょーが、ここは一つ、今から語る映画をこの日に観たということなので、まぁそういう事なのでご理解の程を・・・
「私は語る、<キャリー>という映画を!」
んー、二日前の事か、あれを観たのは。 何だかもうちょっと前に観たような気もするけれど・・・ 凄く面白くてインパクトもあって、なのに二日前よりももっと前に観た気がするのはなんでだろ? 僕はこの映画を以前に観ていたのだろうか? んなわけない。
キャリー・・・デ・パルマ映画・・・ホラー系・・・少し古い映画・・・ブタの血を浴びる主人公の少女・・・原作者は「ショーシャンクの空に」「ミザリー」のそれと同じ・・・念力・・・いじめられっ子・・・ というようなイメージは、観る前からあった。
少しその映画が観る前からどんなものか?を知っていると、なかなか手放しで「想像以上の面白さだった!」とは言えないもんだ。 しかし、この代物は超えた。 98分という短さも手伝ってか、集中力が途切れる事無く僕は画面に見入っていた。
キャリーは高校生。 クラスのみんなから変な奴扱いされ、母親は宗教を狂信し、自分はといえばこの歳になっても生理というものを知らず、学校のシャワールームに血が流れ落ちる様を見て発狂してしまう。 そんなキャリー。 彼女には安らかに過ごせる居場所がない。 唯一、体育の女教師は優しく彼女に接してくれる。 校長が彼女の名前を何度も間違えると、不思議な現象が起きた。 灰皿が高速にくるくる回り、ストンと床に音を立て落ちた。 そういえばそれ以前にもシャールームでは・・・ 彼女には特殊な力が備わっていたのだ。 彼女の行き場の無い思いが、次第に形を表していったのだろうか? ある日、彼女を徹底的に見世物にさせようと企んだクラスメイトの中の一部の連中は、自分達のボーイフレンドにも手伝わせ、ある計画を実行させようとし、ついに実行に移した。 その時、その現場となるパーティー会場ではとんでもない出来事が・・・!?
いやいや、ほんとうにとんでもないんですよホントーに。 個人的にはこの映画をただのホラー映画だとは言いたくない。 だって所謂エグいしーんなんて皆無だもん、マジで。 そりゃブタの血がキャリーの・・・ いや、これ以上はいっても安くなるだけなので言わないが、この映画は凄いよ、ホント。 まさに「おばけが出たぁーっ!」的な凄さではなく、「彼女の見えない才能が出たぁーっ!!」という事なのだ、これが。 「でたぁーっ!!!?」 ほんと、出てるよ(笑) みんな死んでしまうよ・・・(笑) 不謹慎な!不謹慎な! 人が大勢死んだっていうのに!! ・・・いや、今笑っておかなければ練る時こわ・・・ (<練る時>て!何を練るんだよこんな夜中に!(午前0時47分)) ・・・そう、だからね、寝る時怖くなるからさ、(笑)を打っとかないと! これを観た直後に布団へ潜った僕は、何かはっきりとしない気味の悪さの余韻の様なものを自分に纏っていたような気がしていた。 誰もがキャリーで、誰もが死んでしまうんだろうか? この映画を観て、そう風にも思った。 そして、いじめはやんないどこうと思ったりもした。
―完―
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