だだの日記
一週間ほど前、『寝ながら学べる構造主義』という本を読んだ。 構造主義の入門書として理解しやすく、おもしろいと思ったとこが多々あった。 とはいえ、よくわからないところも多くそういう部分はほったらかしにしていた。 しかし、今日唐突にその一部を理解できてしまった。
思想史的にみたら今は「ポスト構造主義」の時代だ。 そのことは知っていた。 僕はそれを、「人間というものを軽視しすぎた"構造主義"の反動として、 人間に再び重きを置く"ポスト構造主義"が生まれた (こうして、"構造主義"は終わった)」のだとずっと思ってた (「構造主義」は人間それ自体を重視しすぎた「実存主義」に対する批判から生まれた)。
だから、なんでこの本はそんな一昔前の「構造主義」について語っているんだろう? (今の「ポスト構造主義」について書いたらいいのに)と思ってた。
そのことについて著者は、 「"ポスト構造主義"とは構造主義が支配的な、 あるいは有効な思考形式である時代は終わったという意味ではない」と、 僕のような認識を否定して、 「"ポスト構造主義"とは、"構造主義"の思考方法があまりに深く私たちのものの考え方や 感じ方に浸透してしまったために、あらためて構造主義者の本を読んだり、 その思想を勉強したりしなくても、その発想そのものが私たちにとって"自明なもの"に なってしまった時代」と定義している。 そして、「構造主義を批判するには構造主義という概念を使う以外に選択肢がない」 と書いている。
この部分が今までわかったようなわかってないような気分であったのだが、 それが今日、急にわかるようになってしまった。 わざわざ「ポスト"構造主義"」と名付けている意味が。
今は「ポスト構造主義」だけど、その「ポスト構造主義」を支配してるのは 「構造主義」的な概念である。
例えば(この本でも取り上げてるけど)、 「テロはいけない。しかし、テロが生まれた背景にも目を向けなくてはいけない」 「アメリカの人々の気持ちはよくわかる。でも、アフガンの人々の気持ちも考えなければ」 という意見がある。
この一年、こういう意見が大勢を占めていて、 なおかつ、この意見はすごくもっともな気がする。 違和感の感じる意見ではない。 テレビとかでこうコメントする人がいると、当たり前じゃんとしか思わない。
しかし、こうした意見は「構造主義」的な考え方がもとになっていて、 その意見を可能にしているのも、今が「構造主義」に支配されてる時代だからである。 逆に言えば、今は「構造主義」が「常識」となっている時代だから、 それ以外のことが言えない時代ということなのかもしれない。
「いや、こんな当たり前の意見、私は50年前でも言ってたよ」という人がいたとしても、 それはほとんどありえないだろう。 なぜならその当時は「構造主義」に支配されてなかったから。 できるとしても「構造主義」という概念を生み出すことができるようなほんの一握りの人間。
「世界の見え方は、視点が違えば違う。だから、ある視点にとどまったままで 『私には、他の人よりも正しく世界が見えている』と主張することは 論理的には基礎づけられない。 私たちはいまではそう考えるようになっています。 このような考え方の批評的な有効性を私たちに教えてくれたのは構造主義であり、 それが『常識』に登録されたのは40年ほど前、1960年代のことです」
やがて「ポスト構造主義」の時代が終わった時、 前述した意見はあまりにおかしくて違和感のある意見ということになるのかもしれない。 (どういった意見が主流になるのかは、 「ポスト構造主義」が終わらないことには何も言えません)
「私たちは、自分が思ってるほどには主体的、自律的ではない」 「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、 その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している」 「だから、私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを 選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。 そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、 そもそも私たちの視界に入ることがなく、 それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない」 「その事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです」
そして、僕がこうした文章を書けるのも、 今が構造主義的な考え方の時代だからなせる技なのかもしれません。 (というのも「私が語ることば」はすべて「他人のことば」であるということを 構造主義者であるラカンが言っているから)
この文章を読んで、「そんなことないよ、こういう考えもあるじゃないか、 こういう視点が欠けているじゃないか」と思う人がいたとしたら、 そういう人こそが「構造主義」に支配されていると言えるのではないか。 なぜなら、「構造主義を批判するには 構造主義という概念を使う以外に選択肢がない」からである。 (ということなのでしょうか?もうよくわかりません)
【200時間ヒアリングマラソン】 ちょっと今日はいろんな意味で力尽きました。 本を読むことさえできなかった。
Today 0.0h Total/Target 17.6/22.5h (-4.9h)
|