★ 夏海の日記 ★
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昨日コロちゃんの死を迎え、私が思いだしたのは、弟のこと。あの『置いてけぼり』な状態をありありと思い出し、そんなにショックだったんだ、まだ癒えてないんだってことを知りました。
昭和63年10月30日の未明 常習的に路上駐車していたダンプカーに 弟は50ccのオフロードバイクで突っ込み、ほとんど即死状態で(と言っても、救急車で病院に運ばれ、父母が病院に到着し、頭の手術をする の判断をするまで息は あったのですが)亡くなりました。
前日の29日は土曜日で、私は泊まりで出掛ける予定で夜に家を出たのですが、初雪が降った程 寒かったその夜に車で走るのは危ないかも?ということで、急遽夫の家で雑魚寝をしていたんです。 31日の朝、てっきり現地にいるものと思っている母は、現地(飛騨高山博)に電話を掛けて呼び出しの放送をかけて貰い、一緒に行くと知っていた夫の家にも一応連絡を入れました。そこで私は掴まえて貰うことができたんです。 真っ先に何を考えたと思う? 『母の為に男の子を産まないといけない』って思ったの。弟の為に生きていた母だったから。母が狂わない為にも、1日でも早く男の子を産まなくちゃって。(私って、お馬鹿でしょ?)
自宅に戻ると、弟はもう冷たくなって寝ていました。寒そうな青い顔をして。寒そうに薄っぺらい白い着物を着て。 部屋は私の部屋と妹の部屋の間のふすまが取り外されてキレイに何もない状態になっていました。隣の県の親戚がもう到着していて、その場を仕切っていました。 妙に張り切っている親戚と、妙にハイテンションな妹と、あまりのショックに、何かをせずにはいられない母がいて、 私は何が何やら判らず、置いてけぼりでした。
そう!今回のコロちゃんの死で、あの頃のことを思い出しました。 私は、何だか置いてけぼりでした。 遅れて到着した私は、家族の誰とも感情を分かち合うことができず、孤独でした。 その時から、その部屋は、私の部屋ではなくなり、その家は私の家でなくなっていたんです。 それ以降の私の部屋(私の部屋は仏間になり、それに替わって、使っていなかったもう一つのダイニングキッチンが、私の部屋になりました)以外の記憶が薄いんです。(あれ〜?誰がどこの部屋で暮らしてたんだろう...?)
弟が亡くなる1年以上前から、妹と最悪な『もめ事』があったので、私は殆ど家にいませんでした。寝に帰るって感じだった私のことを夫は『知って』いたので、お葬式が終わって、みんなが帰ってガラ〜ンっとしてしまった私の家に泊まっていってくれました。当時まだ付き合ってもいなかった、ただの先輩後輩だったと言うのに。その気持ちが、とても温かかった。 妹と私の部屋をぶち抜いた、10畳ちょっとのガランとした部屋で、私と夫と私の母と父(いたっけ?)と妹(いたっけ?)が、何の字だか分からないけれど、並んで眠りました。(母は当時から私以上に夫の大ファンでした)
夫はいつもいて欲しい時に 傍にいてくれる。 そして温もりをくれます。
祖母のお葬式でもそうでした。
またまた 長くなりそうなので、明日に分けて書きます。
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