日記

 

 

- 2008年01月19日(土)
おじいちゃん


 父方の祖父が亡くなりました。
 土曜はお通夜で日曜はお葬式です。

 3親等内の身内が亡くなったのは小学生の時母方の曾祖父を亡くして以来です。
 と言っても曾祖父は数える程しか会ってないのでここまで近しい人が
亡くなるのは初めて。
 父方のおじいちゃんは歩いて3分のとこに従妹家族と住んでいるので大人に
なるにつれて会う数は減りましたが可愛がってもらいました。
 と言っても、やっぱり一緒に暮らしている従妹4人の方が祖母には贔屓
されている様に幼心に感じて、私には名古屋にもおばあちゃん達(母方の)が
いるから良いんだ!って幼いながらに思ってたりしました。

 月曜日大阪から帰ってきておじいちゃんが入院したと母親から聞かされ、
前にも胃癌で手術して成功し退院した事もあったので、歳も歳だしなぁ程度に
そんなに重く受け取ってなかったのです。
 火曜日の夜、おじいちゃんと同居している叔母(父の兄のお嫁さん)から
もしかしたら・・・と連絡が入ったそうで、水曜日会社終わって両親と一緒に
顔を見に行きました。
 酸素マスク付けてるのに息苦しそうなおじいちゃん。
 後で聞いた話だと、機能しなくなる肺胞がどんどん増えていく治療法のない
病気らしく、今度風邪を引いたら最期だろうと言われていたらしい。
 病室でおじいちゃんに会って、会ったけど何にも話せなかった。
 お正月とか、年数回の行事に従妹の家にご飯食べに行くとか、そんな機会
でしか会話する事なくなってたのです。
 でも私はそういう決められた行事とかが幼少の時に感じ取ってた思いもあって
凄い嫌いで、年数回の歩いて3分の従妹の家での食事に行くのも嫌で、
おじいちゃんとの会話って言ったら、ここ座ってとかこれ食べたらとか、
その場を取り繕う会話くらいしか今では思い出せない。
 それなのにいきなり病室で酸素マスク付けたおじいちゃんと何の話すれば
いいの?
 おじいちゃんは私に病室でもここ座ったらと言った。
 座ったけど、なんにも話す言葉が出てこなくて、両親がおじいちゃんと
話してるのを相槌打ってただ聞いてるしかなかった。
 30分くらい経って、そろそろ・・・って話になって、おじいちゃんは私に
ありがとなって言った。
 私は ううん、お大事にね。ってたぶん笑いながら言ったんだけど、
何を考えながら言ったのか全然覚えてない。
 ただその病室は老人の方ばかりの病室で、薬品の匂いとか箪笥の様な匂いとか、
会話も出てこないうえにとにかく良い気分になれる匂いではなくって、早く
この場から出たいって思ってた。
 もう一度お大事にねって言って、お休みなさいと交わしたのがおじいちゃんとの
最後の会話だった。

 その日の深夜3時、叔父から父親の携帯に掛かってきてたのをちょうど
風呂から上がったとこだった私が寝室の父親を起こして携帯を渡した。
 病院から連絡が会ったそうで、とりあえず実子の父親兄弟が呼ばれたみたい。
 その日は木曜で、いつも勝手に一人で起きて勝手に出て行くのですが、
この日は母親も起きてきて私に会社どうする?と聞いてきた。
 父親はまだ帰ってきてなかった。
 何かあったら連絡ちょうだい。って、言うしかなかった。

 今日は大丈夫そうだけど明日は午後から休ませてもらわないといけないかもよ
と昼頃母親からメールがあった。
 電話をして容態を尋ねると父親達が駆けつけた時はもう意識が無かったらしい。
 苦しまないようにモルヒネを打つ同意書にサインをしたらしい。
 意識はなくても無意識に酸素マスクを外そうとしたりするので、誰かは
付き添ってあげなければいけないらしい。
 父は会社を休み 母は本当は今日出張だった父の新幹線の切符をキャンセル
したり雑用で色々バタバタしているらしかった。
 とりあえず私も金土の予定のキャンセルの電話を入れた。

 結局この日はもちました。
 月曜日に入院の話を聞いてからお見舞いに行ってその姿も目にしたのに、
全然実感が沸かなかった。
 今日の夜中に危篤の電話を取次ぎ今の状態を聞いても、それでも私には
全然現実に思えなかった。
 だって例の私が嫌いな行事のお正月のご飯の時はおじいちゃん元気だったんだ。

 金曜日、朝起きてもそういう連絡はなかったし、月中の締日って事もあって
当たり前の様に出勤した。
 前日の、容態にしては一日もった事もあって、会社の会長が倒れた時も意識は
ないのに半年もっていたという実例もあったので、前もっておじいちゃんが
入院したという話をしていた先輩に もしかしたらけっこうもつかもしれません
って話を世間話の一つに交えて談話しながら仕事をしていた。

 11時頃ふと携帯を見たらメール着信の点滅。
 9:48 おじいちゃん、少し前になくなりました
 母親からのメールだった。
 でも実感はない。
 電話をしたけど取り乱す事もなく今迄通り淡々とした口調で喋ってる自分。
 大丈夫?帰っても良いんだよと先輩は言ってくれたけど、締日という忙しい
日だという事は充分わかっているというのもあって引継ぎできる分の仕事以外は
終わらせて早退し、地元の駅に着いたのは14時頃。

 なんか凄い薄情で冷たくて嫌な人間だって思った。
 顔に掛かった白い布を取って土色になったおじいちゃんを見るの怖かった。
 まじまじと見ることはできなかった。
 ここまで来ないと実感沸かないのって最低だ。
 だからってお見舞いに行った日に喋っとけば良かったっていう言葉は
見つからない。
 あの日に戻ったって話題にできる会話が思い浮かばない。
 でも動かないおじいちゃんを前にして、小さい時に皆で毎年海水浴行った
思い出とか、孫の私達のそれぞれの誕生日には外食に連れて行ってくれた
思い出とか、良くしてもらった事がその時に限って思い出されてきて、涙が出た。
 その日はそれから母と祖父母と一緒に神式の葬儀に必要な物を買いに行きました。

 土曜日、お通夜の日の午前中に湯かんをしました。
 親族で体を拭いてあげるのです。
 保冷剤と防腐剤を着けた土色のおじいちゃん。
 前の日の父親達の打ち合わせを側で聞いていた私。
 説明をされていた先生から、死後硬直で硬くなってる体を拭いてあげると
ぶよぶよになりまので・・・
 率直な意見で、 もの凄く怖かった。
 拭いて上げるのは実子の父親兄弟と母親達と叔父の長男だけで良いですという
話を聞いて正直安心した。のに。
 その時になって拭いてあげたい方は皆さん拭いてあげて結構ですよと、
経典をあげて下さった先生が勧められた。
 ・・・正直、正直、本当に怖かった。
 ガーゼをもらって、怖々と初めに腕を軽く拭いてあげた。
 それから組まれた指を拭いてたら、生前のおじいちゃんの手を思い出して、
そしたら怖さなんてなくなって、首と顔を拭いてあげた。
 やっとおじいちゃんの顔を近くで見れた。
 おじいちゃんは眠ってるみたいで 笑ってるように見えた。

 お通夜は滞りなく終わりました。
 妹(+姪っコ)を迎えに行ったりお昼を交代で食べたり、家で着替えや父親の
泊まりの支度をしたりしていて棺に入ったおじいちゃんを見ていなかったので、
参列の方がみえなくなってから棺のおじいちゃんを見に行きました。

 駄目だ。
 全然実感なんてしてなかった。
 棺に入ったおじいちゃんを見たら全然涙が止まらなかった。
 もうあの家に言ってもおじいちゃんは出迎えてくれないんだ。
 いらっしゃいって声は聞けないんだ。

 おじいちゃんが笑って眠ってるのが救いだった。
 苦しまずに逝けたんだったら、生き返って欲しいって思わなくてすむし、
話す言葉が思い浮かばない私がそれを願う資格もない。
 特別話す言葉はなくても、そこに居てくれた事が普通で安心してたんだって
今わかった。
 おじいちゃんの孫でいさせてくれてありがとう。


 明日はおじいちゃんとのお別れの日。
 ありがとうっていっぱい言います。
 お休みなさい。












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