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2002年01月24日(木) W.Wordsworthと弁天さま、ならびに八幡神社

今朝もジョギングしてきた。夜がすっかり明けていたけれど。昨日の朝は東の空が
赤かった。その前はまだ暗かったような気がする。今日も弁天様にお参りしたし、
ついでに、馬の銅像のあるあそこの神社にもお参り。

で、ゆうべ娘に、今朝食は玄米お結びだけだったりするといったら、彼女は家庭科の授業のお仕込みで、味噌汁と納豆くらい出さんとあかんと言うので、今朝はキャベツの味噌汁を作った。でも実は昨日の朝はパパさんが本物の松坂牛の格安をゆでたりした朝食だったのだ。で、昨日近所のお店でたまたま見つけた古代米というのがあったので、今朝は古代米のご飯だった。奈良平安朝の頃食された米らしく、炊くとお赤飯に似た味である。豆が入っている。少しクロっぽい。味は悪くない。子供も食べたが、味噌汁と納豆だせと言われたと言うと、いいこだ、と笑った主人は
時間がないと言って食べずに出かけてしまった。子供には食べさせろと言って。
時間があるとどうも途中でそばかうどんのスタンドに寄るらしい。キロロのような
可憐な少女がやっているのかも知れない(ま、この辺の想像はものの見事に裏切られるだろう)。

で、今日は郵便ポストに投函するものがあるし、あれとあれとあれとあれ。
これとそれもある。

にも関わらず、またワーズワースの水仙の詩である。
Along the margin of a bay:Ten thousand saw I at a glance,Tossing their
heads in sprightly dance.(Introduction to English Poetry by T.Aramaki
and M.OkachiKaibunsha LTD)

marginというのは、時間、金銭などの余地、余裕、あるいは、株式取引などの敷金
や委託証拠金(security),商業の販売収益、経済で生産費を償うのに足りる最低収益、可能性などの限界、ぎりぎりの線、極限(limit)などの意味もある。

で、1941年の1月にA.S.Hornby氏らによって著されたIdiomatic and Systematic
English Dictionary(kaitakusha)によれば、marginとはborder,edge,an extra
amount(of time,money,etc.)above the estimated minimum,a condition near
the limit,borderline,below or beyond which something is imppossible.
などとある。可能性などの限界。そうですね。

 the margin of a poolといえば、プール水溜りなどの淵、縁。

 だから、この水仙の詩におけるthe margin of a bayは湖水や湾の敷金ではなくて、湖水や湾の淵、縁なのですが。しかし。

 さて、着替えて郵便局行ってこようか。しばし、中断。

なんと掃除とはしてみるものである。今掃除機をかけていたら、このところ息子の小学校の制帽がないないと息子を責めていたのだが、なんと息子のデスクの裏側に落ちていたのだ。新しい帽子買わなくて良かった。

さて、郵便局は済んだ。家の中も片付いてきた。で、いよいよ名簿の整理にとりかかるか。でないと、彼女に結婚祝が贈れない。亀さんの餌はまだある。この餌は電車に乗って買いにいかないといけないので、もうしばらく先。このあたりの昔や小学校のことをご存じのかたについては。どうしようかな。1月末までか。

 裏庭の時には日の当たることもある場所に植えた紅白の沈丁花の株は枯れていないが、花はまだ蕾である。

 道を歩いていて思ったのだが、どうもこの間のコスモスと思って買った花はあれはコスモスではなかったかもしれない。似ている花が他所のお宅の花壇に植わっていた。きれいだが、コスモスではない。萩の花もつかなかった。どうしてだろうか。

 娘は父親の奥様のことを継母さんと呼び口煩いと言うが、口煩いのはそれだけ
自分たちのことを思ってくれているからだと感謝しているようではある。主人の親戚の女の子も自分を生んだおかあさんだと思っていたらそうではなかったと年頃になって知りショックだったが、自分が気がつかないくらいよくしてくれたおかあさんてなんて素晴らしい女性なんだろうと感動したりしたみたいだ。しかし、私の生んだ娘は、自分のお父さんの再婚した人を継母さんだなんて呼んだりして、ちょっとはしたないぞ。まるでシンデレラか白雪姫を気取っているんじゃないのか?まあ
私とだからだと思うが。まあそれは当たらずも遠からずかもしれないが。意地悪な継母なんて童話の中だけの世界で、実際は継母の方が夫の子供に神経をすり減らされているのだと思うが。しかしとりあえずお元気になられたようで良かった。この間60歳で子供を作られた方もあったことだし。まだ継母さんは40代なら、子供でもできれば白血病なんて引っ込んでしまうのではないだろうか?そうすれば私の生んだ娘も自由に好きになった人についていったりすることが可能になるかも。
なあんて、私勝手なこと言い放題。ほんとに困ったおばちゃんだわ。余計なお世話よね。陳謝。

素直そうな顔をしていても、今年の元旦に実家の父の後添えさんに見せた私の顔は酷かったではないか。なんで私があなたの力にならなくちゃいけないのよ、なんて随分手のひらを返したような物言いだ。今のところ法律的に多額の借金取りが私のところに追いかけてくるわけではないし、彼女が物事を進めるのにまず私の兄と進めなければいけないのにそれが忙しくてなかなかつかまらないで四苦八苦している状況などについて私はもっと思いやりを持って、兄がいない間に、少なくとも、黙って聞くくらいはしてあげても良いのに。彼女は今一人なのだ。愚痴を言える人は
あると思うが。しかし、実際時代劇や物語のように明確な悪役を作らない時こそ、
このように自分でも思ってもみないようなことを口走ったりすることになるのかも知れない。私には義母の愚痴が私を責めているようにしか感じられなかったのだ。
彼女は寄る年波の心細さから私を頼りにしてざっくばらんに状況を話していただけなのに。彼女はとても情けない思いをしただろう。私の心がはしたなかったのだ。
気が小さいのだ。
あんなに世話になっておきながら。人の心のアナログさというのは始末が悪い。
お互いに何の悪気もなく、ただよりよく生きたいという気持ちであるがゆえに
ショックなのだ。でも、気を取り直して。

こういう私の娘にまたはしたないところがあるのは似た物どおしなのかもしれない。あの元気な娘は、また期せずして父親の期待を裏切ることになるかも知れない。

なあんてまた私のしょうもない空想癖が。なるようになるさ。神様がいいように
してくださる。なむあみだぶつだ。

それにしても私の昔のお局様の結婚祝、なにかいいものないかなあ。

古代米というのは、やっぱり昼間眺めてみたら、お赤飯みたいなものだ。赤紫色だな。

さて、再びワーズワースの詩。

in sprightly dance のsprightlyというのはgay,cheerfulとある。

tossing their heads in sprightly dance

toss vt.& i. throw, esp.through the air without using great force

トスというのは、バレーボールのときに聞いた言葉だ。私にとってはバレーボールのトスというのはとても難しいものだった。ポンと弾く感じが。
 しかし、今回辞書を引いてみて、気がつくのは、軽く、無造作に、投げたりほおったりするものらしい。無造作。
 wanderはaimlessであり、without any destination
floatはfreely,aimlessly
tossもwithout using great forceなのだ。

なのだ。なんだかばかぼんのママというよりは、ばかぼんのパパなのだ。

葉書やお便りの整理をしていると、なんとたくさんの素敵なものに出会ってきたことかと愕然とする。なかなか捨てられない。それはすでに過去のものであって、
過去はもうないもの。今しかないとしても。住所だけ拾って処分しようとしても
そこに込められた友愛としか思えないものがにじみ出ている言葉たちを、私は
また忘れてしまうのではないかと心配で捨てられない。
私の心の正体というのは、このようなエゴの塊であるのに、こんなに救われてきたのに。
 


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