衛澤のどーでもよさげ。
2016年06月10日(金) おしぼり。

既に暑さと湿気に参ってぐったりぴーちゃんの衛澤ですご機嫌よう。

私がまだ学校に通っている頃によく言われたことです。
喫茶店等に入ったときに、先ずおひやと一緒におしぼりが出てきますよね。このおしぼりで手を拭く訳ですが、中年のおじさんになると顔を拭いたり、顔だけならまだしも耳の後ろを拭いちゃったりするようになるんだって。更にひどい人になると腋の下まで拭くらしいよ。
という、笑い話の姿を借りた中年男性に対する揶揄。たびたび耳にしたものです。

その頃の、つまり十代の私は、おしぼりで顔を拭くことはありませんでした。拭きたいと思うこともありませんでした。顔に脂が浮きがちな中年男性は「脂ギッシュ」などという造語で以て蔑まれておりました。当時の私にはそのつもりはありませんでしたが、やはり中年おじさんのことなど理解しようという気持ちすらなく、「中年男のやることは判らん」と思ってました。

しかし二十代も半ばを過ぎると、時折顔を拭くようになりました。疲れが皮膚の表面に浮いてくる感覚があるのです。それを拭うことで少し疲労が癒えるような気分になりました。三十代にもなると恥ずかしいこととも思わなくなり、取り敢えずは同席の人に「おっさんくさいことして御免ね」などと断ってから、毎回顔を拭くようになりました。

そして四十代も半ばを過ぎようといういま、耳の後ろまで拭きたいです。何故この行為が非難され得るのかとさえ思います。
だっておじさんになると身体からは脂が抜けていくけれど、頭部特に顔面の皮膚には疲労とともに脂が浮いてくるのだもの。拭って楽になりたいのだもの。それは束の間の憩いだもの。
まだ大っぴらに耳の後ろを拭いたことはありませんが、五十代にもなればためらいもなく拭くようになるんじゃないかなと思います。

振り返ってみると、そして改めて見ると、十代の若者というのはとても世界が狭い。自分とその周辺という限られた世界で生きていて、その範囲の常識が世界の常識でありその範囲で尊ばれる智識こそが至高でありそれ以外は取るに足りぬものだったりして、それなのに万能感に支えられている。皆、凡人に育っていくけれど自分だけは何処か違ってただの凡人にはならない、自分はつまらない大人になどならないという根拠のない予想を空想する。

おしぼりで顔を拭くなんて常識外、耳の後ろを拭くなんて羞恥の骨頂。私はそんなことをしないし、大人になっても絶対しない。それが若者の当然という名の主張でありとても個人的な不変神話。
そういう若者を見て、おじさんは「自分の世界を我がもの顔で生きてるなあ」と思います。特にうらやましくはない若者の特権です。

十代の若者は、子供と呼ばれることを厭がるけれど、やはり子供だと思う。「大人は判ってくれない」などと言うけれど、ほんとうに判っていないのは子供の方だと思う。「大人になったら判るよ」という大人の言い種を子供はとても嫌うけれど、いくら丁寧に説明したところで子供が決して納得しないことを大人は経験的に知っているし、体験してみなければ受け容れられないことがあるということも判っている。
子供は大人の手掌の上で踊っているに過ぎないのだ。それはともすれば甚だ滑稽なのだけど、大人は嗤わない。自分の行いが滑稽だということに気付いたとき、結構恥ずかしいということも知っているから。

そういうことを思うようになったので、この頃は自分より年長の人たちがやっていることを揶揄したり嗤ったりということがなくなりました。子供嗤うな来た道だ、年寄り嗤うな行く道だ。この言葉が実体験となりつつあるこの頃です。

首筋は拭いても腋まではまだ拭こうと思わないのだけど、もっと年を取ったら私もおしぼりで腋の下まで拭くようになるのでしょうか。実際に腋を拭いている人は見掛けたことがないけれど。


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