衛澤のどーでもよさげ。
2008年10月15日(水) みことばの。

数年前、或るクラシック曲に歌詞を付けた歌謡曲がヒットした。ぼくは原曲も知っていて、その上で歌詞が付いたその歌も好きだと思った。歌詞が付くことで憶えやすく親しみやすくもなるし、歌謡曲を入口にクラシックを聴く人が増えればいいなあと思っていた。
しかし一部のクラシックファンは随分厭がっていたようだ。クラシックを愛するあまりに件の歌謡曲を歌う歌手を非難する者までいた。その気持ちを、ぼくはよく判らなかった。多分想像しきれていなかったのだと思う。「クラシックファンは頭が硬い」としか思っていなかった。

その後。

ぼくが尊敬する宮澤賢治の「雨ニモマケズ」に、曲を付けて歌う人が現れた。その報を聞いたとき、ぼくはちょっと「厭だな」と思った。そして翻って、クラシックファンが詞を付けられることを厭がる気持ちが、少しかもしれないが判った気がした。
「雨ニモマケズ」は詩集に収められることも多く、「詩」だと思っている人も少なくないが、賢治がそう思っていたかは定かでない。少なくとも曲が付くことを想定して書かれたものではないはずだ。賢治の最期の言葉、熱に燃されながら死の床で手帳にやっと書きつけた最後の祈りだから。
それを思うと、曲が付くことを俄かには歓迎できなかった。

しかし、ちょっと待てよ、と。
賢治は生前、自分が書いた詩に自作の曲を付けるということもやっていたらしいし、自分が書いたものに曲が付くことも厭がらないのではないだろうか。むしろおもしろいと思う人ではないだろうか。そう思った。
それに、曲を付けて歌う人がいて、沢山の聴く人が現れて、そこから賢治の作品に触れる人が生まれれば、それはよろこばしいことだ。作品とはすべて、読まれるために書かれるのだから。読まれてこそ存在をまっとうできるのだから。

「……雲からも風からも透明な力がそのこどもにうつれ……」
曲に乗った賢治先生の言葉が日本の子等にうつり宿るように。


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