2006年09月14日(木) 構成の妙。
出張第二日めです。昨日とは違う土地で書いています。
移動に六時間ほど掛かりまして、移動車両の中で、とある国産ファンタジー小説を読んでいました。とても長い小説で、厚めの文庫本で上・中・下巻と三分冊されています。その中程まで読みました。中巻を読みかけているということです。あと半分は復路の車中で読む予定です。
この小説はおそらく国内ではかなり有名な作品で、私もいろいろな場所で書評を見掛けました。その中で割りと多かった意見が「導入部が長すぎる」というもので、全巻まとめて購入したものの読破できるかな、と多少の不安はありました。しかし、その意見が的外れであることが読んでみて判りました。
この作品は「第一部」と「第二部」に分かれています。現代日本の東京辺りに住んでいる少年が或るきっかけで異世界への扉を開き、或る目的のために異世界を旅するという「指輪」「ナルニア」「ゲド」の三大ファンタジー以降に多く発生した物語パターンの御話で、「第一部」は異世界の扉を開けるまで、「第二部」は異世界での旅立ちから目的を果たすまでが描かれているのですが、先の「導入部が長すぎる」という意見を述べた人はおそらく「第一部」がまるごと「導入部」である、と読み違えているのだと思われます。
私が読んだ限りでは決してそうではなく、導入部はもっと早いうちに終わっていて、「第一部」の終盤は全篇に幾つかある物語の起伏の、最初の大きなひとつに当たっています。
私の解釈が間違っていて、「第一部」がすべて「導入部」であるという読み方が正しいのだとしても、この作品の「第一部」はとても読みやすく、「長すぎる」と言ってしまうのは物語を読む力に欠けているのではないか、と思います。これが「長すぎ」て「冗長」だとか「まどろっこしい」と感じているようでは「指輪物語」は読めません。「『指輪』に挑む者、序章に倒れる」だとか「『指輪』を制す者は序章を制す」だとかいう言葉がファンタジー読みの間にはあります。
作品の「読ませる力」は確かに大切ですが、作品に力が充分にあっても読者の「読む力」が足りないと、よい作品も「よい作品である」という評価が受けられなくなってしまうことの例を見るような思いです。
このように偉そうなことを書いている私も「読む力」にさほど富んでいる訳ではないことは自分で承知していたつもりでしたが、主人公の「亘」という名前を何度も「豆」と読み違えて違う作品の主人公を想起してしまったりする自分には些か閉口であります。
【今日の回答】
バナナはおやつに入ります。くだものはおやつです。