2006年09月13日(水) 価値を認めるということは。
出張先で書いています。
出張では大抵、主たる用事以外の時間は移動中を含め自由に使うことができます。この「自由」は選択肢が幾つかあるという自由です。たとえば、電車の中で目的地に着くまでの間はぼんやりしていてもいいし、本を読んでもいいし、音楽を聴いていてもいいし、考えごとをしていてもいい、というくらいの。思いつくままに何でもできる自由とは違います。
そういう自由がある一方で、食事などは少し不自由になります。「自分で調理する」という選択肢がなくなるからです。そうすると、飲食店に入って料理を注文するか、そうでもなければ何処か落ち着ける場所を見つけてコンビニエンスストア等で購入したものを食べることになります。
これが私の場合、近頃は少し難しいのです。
私は一人で飲食店に入るのは苦手なので、大抵はコンビニエンスストアでおにぎりかパンを買って宿で食べるという選択をします。宿に落ち着く予定がなければ落ち着ける場所に辿り着くまで食事は延期です。
で、自分が食べそうな量の食事を仕入れてから落ち着く場所に行く訳ですが。
自分で「自分が食べそう」と思う量と、実際に自分が食べられる量とに、差異が出てきたのです。これくらい平気で平らげるよなあ、と思う量―――以前は平気で平らげていた量―――を仕入れると余ってしまう、つまり喰える量が減ってきた、ということです。
年令が一ト桁だった頃は同い年のほかの人の二倍ほども喰う燃費が悪い子供だったし、それを反省して量を控えるようになった二〇代の頃でも他人さまの「当たり前」よりは多く喰うことができる身体だったので、喰う量が減ったと言っても人並みになっただけです。
だから「エンゲル係数が低くなった」とよろこんでいいくらいなのですが、「自分が思っている自分」と「実際の自分」との間に大きく差異があるというのは、あまりよろしいことではありません。
これは喰う量だけにとどまらず、運動量や、記憶量や、自分が持っている能力についても同じことが言えます。「自分自身の実寸」というものを自分がきちんと捉えていないと、たとえば能力などで言えば、自分の能力を過小評価したり或るいは過信してしまったりということになってしまいます。
自分の能力―――実力が「一」なら「一」、「五」なら「五」、「一〇」なら「一〇」と、他人さまよりも秀でているか劣っているかは別にして、正しく捉えていないと、「一」を「五」や「一〇」と誤解していればあらゆる挑戦は失敗して痛いめを見るでしょうし、「一〇」を「五」や「一」と勘違いしていればあらゆる挑戦を試みる前に諦めてしまうでしょう。そういう不都合が生じます。
自分を正しく知ることが安定した自分をつくる、と私は思っています。安定した自分は安定した他者との関係を築き、そうするといろいろなことが巧く循環するようになります。
ということは、いまの自分や自分の周囲は、巧く循環していないのだな、ということになります。確かにたったいま目の前に、消費されずに滞ってしまっている食べものが封を切られないままで転がっています。循環の輪からはみ出たものがこういうかたちで存在している訳です。
これは明朝の食事にまわすとして、次からはこういう「余分」をつくらないように「自分」をきちんと捉えなおす必要が、ただいま現在の私にはあるということです。
【今日の学習】
いまだに「電車に乗って遠くへ行く」ときには「おやつ」が必要と考えてしまう。そして「おやつは三〇〇円まで」で「バナナはおやつに入りますか」という疑問。