ぼくが住む街の保健所は、坂道の天辺にあります。徒歩やエンジンのない乗りもので昇るには多少喘がなくてはならない程度の坂です。
ぼくはここ暫く不調続きで、外出のために身辺を整えるということをしないで数日を過ごしていました。髪も髭も伸び放題です。
ぼくは県から障害者手帳を交付して貰っていて、その手帳の有効期限が近付いているので更新の手続きを、保健所でしなくてはなりません。
今週に入ってから当地方は晴天続きで、しかも連日、馬鹿みたいに気温が高いです。鰻登りか鯉のぼりか知らんけど気温上がり過ぎや、と文句のひとつも出ようものです。
さて、これだけの条件を列記すれば、今日ぼくがどのような体験をしたかの見当がおおよそつくと思います。今日の当地方の最高気温は三五度でした。
「暑い」という言葉では表しきれない熱暑の中、自転車で急勾配を昇ります。陽差しは肌を刺すようで、足許からは輻射熱に焙られて、その上吹く風は熱風です。睡眠障害のため寝不足と疲労が蓄積している身体が熱に包まれながら有酸素運動を続けると、自分と世界とが如何にも乖離して見えました。しかも世界は水底から眺めているかのように微かにも歪みながらゆらゆらと揺らいでいます。
自転車で坂道を昇りきり、書類を持って保健所の窓口に辿り着く頃には噴き出した汗で着ているシャツはぐっしょり濡れて、ぼくはあまりの熱さに息切れしています。何とか窓口でお姉さん職員を捕まえて用件を告げると、椅子に掛けて待つように指示がありました。
後頭部の痺れと視界がくーるくーるとまわる感覚を覚えながら待っていると、お姉さん職員が呼び出したのだろうおじさん職員が出てきて用件を聞いてくれました。でも何だかおじさん職員はぼくを胡散くさそうに見ています。一ト通りぼくが告げたことを復唱するとぼくが見せた障害者手帳を何度も見直しながら「ちょっと待ってね」……。
結局、ぼくがすわった直ぐ隣りの先客に応対していた先刻とは別のお姉さん職員を捕まえてぼくが告げたことをそのまま伝言して、おじさん職員はいなくなりました。何のためにいるんだおじさん。思ったけれど身体の内側にこもった熱が引かなくて頭がくるくるするし痺れるし、そろそろ身の危険を感じはじめていたので早く帰りたいばかりでした。
二番目のお姉さん職員は滞りなく書類を用意し、受け付けてくれましたが、何だか心なしか怯えた感じ。何やろか、と思わなかったではないけれど、とにかくぼくは早く帰宅して横にならないと重力に横にされてしまいそうな危険を感じていたので、手続きが終わり次第、御礼を言って帰途に着きました。
建物の中でも風景は揺らいでいて、見えるものが揺らいでいるのはあまりの暑さに陽炎が立っているせいだと思っていたのは違ったのだということが判って、更に危険を感じました。早く早くと急いだぼくが通りかかった場所にちらりと見えた鏡の中に。
髪はばさばさで無精髭をぼそぼそ生やしてよれよれのシャツを着てふらふら歩く憔悴しきったおじさんは、行き倒れ寸前の住所不定者そのものです。
ははあ、こりゃ胡散くさいよねえ。
おまけに障害者手帳の性別欄には「女」と記載されているのに今日提出した診断書はかかりつけ医が気を利かせて「男」と書いてくれているし、本人は見た目おっさんだしで、胡散くさいことこの上ない。
職員さん御免ねー、と思いながら折り返しの階段を下っていたら自分が真っ直ぐに歩いているか否かも判らなくなってきたのでさっさと帰りました。帰り道も陽差しが厳しく輻射熱は陽差しより強く、熱風に包まれる街は揺らいで見えました。
【今日の比べてみると】
「
熱中時代」と「
熱風王子」はどちらが熱いか。