2006年05月04日(木) 赤い色との和解。
ぼくは赤い色が嫌いだった。もっと詳しく言うと、赤い色そのものが嫌いだったのではなく、赤という色が負わされていた意味や役割と、赤色を身に着けることでその意味や役割を自分にも負わされてしまうという事実によって、赤色を逆恨みしていた。赤色には、いまも昔も、何の罪もない。
ぼくが幼かった頃は、赤色は「かわいい色」=「女の子が身に着ける色」だった。「女の子がかわいく装うために先ず取り入れる色」だった。女児として生まれはしたものの女の子として扱われることを受け容れられなかったぼくは、赤色に着色された「女の子のための」道具や「かわいらしい」洋服をはげしく嫌った。それ等を身に着けることをぼくにすすめる人をも嫌った。
だから、小学校に入学するときに親が用意してくれた赤いランドセルも赤いエナメルの靴も、親には申し訳ないが、身体にくっつけるのがとてもとても厭だった。
三〇年ほど前はかように「赤色=女の子」の図式が成立していたのだが、男の子が赤色を身に着けることが一切なかった訳ではない。男の子のヒーローである特撮番組やロボットアニメーションの主人公のイメージカラーは大抵赤だった。
ぼくはこのイメージを身に着けるのも厭だった。物語の中心にいて積極的に悩んだり怒ったり戦ったりする最も強い主人公よりも、主人公に次ぐ立場にいてやや冷めた視点でものを見てちょっと厭なことを言ったりもする虚無的で冷徹な青色をイメージカラーとした二番手キャラクタの方が好きだった。年令が一ト桁だった当時から物語の読み解き方がひねくれていたようだ。
以上のような理由が重なり合って、ぼくは赤色を避けて青色を好んで身に着けるようになった。赤い色が伴う意味や役割が厭だったのだが当時は短絡的に「赤は嫌い」と思っていた。赤い色の洋服を自分が稼いだ金で自分の意志で買う日がくるとは思いもしなかった。
しかし、その日がついにやってきた。
ぼくは昨日、生まれてはじめて赤い色の洋服を自分で択んで自分が稼いだ金で買い、自分で身に着けた。純色よりやや明度が低い赤色のTシャツである。着てみた感想は、少しも厭ではなかった。むしろ、一度袖を通してみることで更にそのシャツをぼくは気に入った。シャツのデザインはもとより、その赤い色も好きだと思う。
赤いシャツを着ることで、住んでいる世界が風景が、彩度を増したように見えた。
赤い色を、ぼくは受け容れることができた。赤色自身は、この三〇年の間に変わったことなどなかったに違いなく、ぼくを好きも嫌いもしていなかったのだろう。ぼくが一方的に嫌ったり好きになったりしているだけだ。
これほど左様に、広く大きな世界は如何にもちっぽけな自分の気持ちひとつで大きく姿を変えてしまう。それは勿論、「ぼくから見えている世界」の姿に過ぎないのだけど。
【今日の推進活動】
みんな、もっと牛乳を飲むんだ!