衛澤のどーでもよさげ。
2006年05月02日(火) 否定はとても簡単で気持ちがいいことだけど。

たとえば、誰にも必要とされない人がいるとする。誰にも必要とされないことを自分でよく判っている人がいるとする。
その人が、望んで内臓なり皮膚なり肢体なりの移殖を受けて欠落した部分が補われたことをとてもよろこんでいる人を、移殖した部分をとても慈しみ、ドナーに心から感謝している人がいることを知ったとする。

そうして必要とされない人が、必要とされるために「自分」を捨てて「部分」になることを択ぶのは、いけないことだろうか。
「自分」というひとりの人のかたちでいても必要とされないのなら、心臓なり腎臓なり肝臓なり皮膚なり腕なり脚なり角膜なりの「部分」になって、移殖を受けて生きる人の身体の一部になって必要とされながら生きていきたいと望むのは、間違ったことだろうか。その生き方は多くの生き方のうちのひとつとして認められないだろうか。

これは飽くまで「たとえば」の話で、ぼくの傍にこんな風に考えている人がいる訳でもぼく自身が望んでいることでもないのだけれど、ぼくはこれを否定されるものではないと思った。
「誰かの一部として生きる」のも「生きる」ことに変わりはないのではないか、と。

逆のこともまた言えて、動物なり植物なりほかの生物の生命を断ってその身体の一部または全部を喰うことはただ殺すことではなく、喰った生物の生命をも生きることなのだと、ぼくは思っている。ぼくの生命はひとつでいて、数えきれない生命の集まりでもある。

ぼくの考え方が一般的であるとは自分でも思ってはいないけれど、特殊で異常で唾棄すべきものではないかどうかはぼく自身が判断できることではないし、判断することではなさそうだ。
それはともかくとして、ただ、こういうことをふと考えました、というだけのこと。


【今日の習慣】
トーストはごみ箱を抱えて食べる。


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