衛澤のどーでもよさげ。
2005年03月20日(日) 観た…。

納得いかねーっ!

昨日レイトショーで映画「ローレライ」を観てきたんですよ。結局原作は文庫版第一巻のみを読んだだけで劇場に赴きました。エンドロールがはじまった途端に思わず口をついて出たのが冒頭の言葉です。
結論としては「原作は読まないで先ず劇場版に当たる」のが正解だと思います。原作を先に読んでいるとどうしても「映画と原作を比較」してしまうから。それではおもしろい「かもしれない」ものもあんまりおもしろく感じられないのではないかと思います。

まだ原作を読んでいなくて、映画を観に行こうかと考えている方は「先に映画」をおすすめします。映画を観たら厭でも映画で語りきれなかった部分を知りたくなると思うから。
どだい、あの原作量を二時間強に収めようというのが無理な話なのだろうから、多少のことは目をつぶらないといけないのだろうとは思うのですけどね。
それにしたって総上映時間二時間〇八分、一時間を経過した辺りから「それはないやろ」と呟いてしまうこと数回、何ともはや、よくもまあこんな脚本にOKが出たなと、身体が捻れるくらいに首を傾げますよ私は。

まだ御覧でない方には「観るな」とまでは言いませんが、一八〇〇円と交通費とを支払って観たら腹が立つかもしれませんよ、とは予め言っておきたいです。私はレイトショー料金一二〇〇円で観たのでまだ何とか憤りに忘我するまではいかずに済んでいますけれどね。
一ト口で言うと「新世紀エヴァンゲリオン+沈黙の艦隊+天空の城ラピュタ÷2」という感じ。

CGがきれいだったな……きれいなだけで、CGは所詮CG。ほんもののセットには敵わないのだわ。艦内はきちんとセットを組んでいるのに、伊507のフィギュアを海洋堂につくらせているのに、何故たとえ張り型でも外観までセットを組まないのだ。何故ミニチュアを数種つくって「特撮」をしないのか。その方がずっと迫力ある映像になったと思いますよ。何でもデジタライズすればいいってものではないでしょう。潜航シーンは撮影があまりにも難しいだろうからCGになるのは仕方がないにしても。。
「沈黙の艦隊」が何故実写映画にならないか、その理由が判った気がしました。

モブシーンに富野由悠季監督を出したり、パウラの水密服デザインに出渕裕氏を起用したり、爆撃機のノーズアートデザインに押井守氏を起用したり、モックアップやフィギュアの制作に海洋堂を起用したり、そんな細かいところで凝るくらいなら、そもそもの脚本の骨組みからしっかりつくってほしかったよ。聞いた途端に「説明どうも有難う」と思わず頭を下げてしまう台詞連発。何のための映像だ、と思うこともしばしば。
人物のひとりひとりが、原作では「端役はいない」というくらいに描き込まれているのに映画では「物語を進行させるためのコマ」でしかなくなってしまっているのも哀しい。何だか俳優さんたちが可哀想に思えた。
勿論、「映画ならでは」の表現法を用いている部分も多数ありましたけどね。

原作の福井晴敏氏は脚本の決定稿を読まれたのだろうか。そんで納得なすったのだろうか。もしも私が福井氏の立場にあったなら、この脚本では絶対にOKを出さない。「諸般の事情」でOKを出さざるを得ないとしたら、原作者の特権を濫用というくらいに駆使して「映画は○○○○○ないですよ」と吹聴してまわるだろうし、それさえも許されないなら「ダーティペア」のときの高千穂遥氏のように散々制作サイドに抗議した上で「原作と映画は別ものですから!」と公言してまわることと思う。

ちょっと調べてみると、この作品は「映画になること」を前提としてつくられたらしい、ということが判った。映画制作サイドから「こんな映画をつくりたいから原作を書いてよ」という依頼のもとに福井氏が小説を書き起こしたのだという。
だとしたら、福井氏は映画にするには情報量の多すぎる大掛かりな原作を用意してしまったということになる。
文庫本四分冊、ハードカバー上下巻のボリウムの御話を二時間にまとめるなんてどだい無理な話ですよ。ドラマ一時間枠を五二本(四クール=一年)掛けて放送、というのが物語を語り切るには妥当な方法だったのではないかと思う。せっかくフジテレビが絡んでいるんだからね。

何にせよ、原作文庫版第一巻だけを読んで映画を観ただけでは何もかもが未消化だし、それではあんまり気持ちが悪いので、この後どれくらい掛かるか判りませんが、原作残り三巻を読みたいと思います。
「ローレライ・システムの真実」が結構衝撃的だったので、それを活かした、読んでいてつらくてたまらなそうな物語が展開されているのだろうことを予想しつつ。

以下、ネタバレ含む感想(ツッコミとも言う)をあぶり出しで書いておきます。映画も原作もこれから、という方はお読みにならない方が無難かと思います。

先ずね、映画はちょっと不親切。
潜水艦の航行システムは先ずソナー(水測=聴音)に頼るしかないということ、だから水測員からの魚雷発射管やバラストタンク注水音報告が重要になってくること、「コーン、コーン」というアクティブソナーの音が敵艦に自艦の位置を知られてしまった証拠となること、だからこそ「ローレライ・システム」が重要な戦略物資になるということ、「伊507」が潜水艦としては異形であること、「伊507」は独逸軍から接収した戦利潜水艦であるため急拵えで集められた乗員は操艦の仕方が判っていないこと、潜水艦の浮上及び潜航はバラストタンクの注水及び排水(ブロー)によって行なわれること……こういった潜水艦の基礎智識がないままに映画を観ても「何だかよく判らん」ということになるのは必至でしょう。

これ等を知っていることがこの物語を読み解くための大前提となるはずなのに、それを知らしめるための時間や描写が費やされていないのね。あんまりにも不親切でしょう。これ等を知らない人が観てもまったくつまらないと思う。

素人目に見ても帝国海軍の軍紀が甘過ぎ。妻夫木聡くん演じる折笠一等兵曹は何度も命令不服従を繰り返している(少佐艦長に対してさえ口答えしている! 考えられん)のに懲罰がトイレ掃除で済んでいるし(帝国海軍の規律の厳しさを舐めたらいかん。鉄拳制裁の上、営倉に入れられても文句は言えないくらいの罪を犯している)、どんなことがあっても、どんな間違った命令が下されたとしても艦の中では艦長の言うことが至上の絶対でしょう。階級も少佐と最上位なのだし。
あれじゃ現在の海上自衛隊よりもずーっと微温いわ。帝国海軍の規律はあんなものじゃなかったはず。

やけに軍服がきれいなのが気になった。終戦間近の疲弊した海軍のドンガメ(潜水艦)乗りの制服(作業服)が、ぜんぜんくたびれていないの。それも不自然でしょう、陸の制服組でもあるまいし。しかも潜水艦乗務よ? 「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」という海軍さんの気質が根強いにしても(これは現在の海上自衛隊にも伝統として伝わっています)、戦況と特殊任務と鬼のよーに狭い艦内勤務であることを考えると絹見艦長はともかく木崎先任大尉以下の乗組員はもっと薄汚れた、くたびれた制服を着ていて然りだと思う。
この辺りは衣装スタッフのウェザリングの仕方が甘かったのだと思います。

だいたい、「伊507」潜水艦は潜水艦として異形のものであるということ、その異形は「ローレライ・システム」を搭載しているからではなく、艦橋麓に突き出している二門の主砲に主たる理由があること、潜水艦に洋上艦よりも大きな大砲が搭載されていることが戦闘艦として、潜水艦としてどのような意味を持つのか、もっと観客に報せる描写は必要だったでしょう。

何より、「ローレライ・システム」の謎のキイを握る「フリッツ少尉」の存在が映画ではまったく省かれてしまっていました。だから、いきなりパウラに登場されても何だか困っちゃうではありませんか。少しだけど原作を読んでいたから、幼き日のパウラが見た実験で生命を落とした男の子が兄のフリッツであることは判ったけれど、読んでない人、上映前にパンフレットを読まなかった人は置いてきぼりですか。

後半はタイムアタックの御話になってしまった訳ですが、「目標の航空機が飛び立つまで残り二分」の段階でまだ潜水していては、どう考えても「浮上して主砲にて目標を砲撃」しようとしても間に合わないでしょう。幾ら浅瀬からアップトリム一杯バラスト全ブローでも、浮上して艦が水平になる(主砲の照準儀がまともに使えるようになる)までに三分は掛かってしまうでしょう。
で、当初テニアンへ赴く理由って「原爆搭載機を飛べなくするために発進時刻までに飛行管制塔に打撃を与える」というものではありませんでしたっけ?
結局アップトリム一杯で浮上して艦が落ち着かないうちに主砲を回頭して飛び立ってしまった原爆搭載機を撃墜するんだけども、そんなことしたらその海域周辺が被爆してしまわないか? 原爆積んでんのよ? 東京さえ被爆しなかったらそれでよかったのか? 何だかなあ。

それより何より最も大きなツッコミどころは、折笠一等兵曹とパウラを乗せたN式潜航艇を、伊507艦長絹見少佐が「生きろ」とか崇高なメッセージを発しつつ、洋上駆逐艦がうようよいる海域で伊号から切り離してしまうところな。
「これ以上戦闘に関わる必要はない、安全な海域へ逃がれろ」という意味だったのだとは思うけれど、満足な推進システムが搭載されているのか否かも怪しい小さな丸腰潜航艇を戦闘真っ只中の海域に放り出すなんて「生きろ」どころか見殺しですよあなた。
思わず「艦長ひでえ!」と叫びそうになりましたよ私は。

物語の語り手が折笠になったり、米兵になったり、終盤で突然出てきたルポライターになったり、視点がばらばらで何を主体に観たらいいのか判りづらいぞ。物語を読み解くことになれていない人にはこの話を理解するのは難しいと思う。原作も視点が沢山あって読むのが大変だと思ったけれど、原作の場合は「視点の移動」があるのであって、映画は「視点の揺れ」がある。似ているようで、全然違う。
これは脚本家の腕が、その脚本のチェック機構が甘かったとしか言いようがないのではないだろうか。幾ら「あの」フジテレビ制作とはいえあんまりと言えばあんまりではありませんか。


「ひでえよ、このオチ」などと文句を言いつつ帰宅したら午前三時。約一〇年振りの「B'zのオールナイト・ニッポン」が丁度終わった時間で何だか踏んだり蹴ったり叩いたり、て感じで憤慨中。

取り敢えず、同じ福井晴敏氏原作の「亡国のイージス」や「戦国自衛隊1549」も観たいなとは思っています。「亡国のイージス」は海自175番艦つまり「みょうこう」が主なロケーション地になっていて、それだけでもおもしろそうだし、「戦国自衛隊1549」は回転翼機の揺動の仕方が銀幕で観ていて気持ちがよかった(劇場用予告編を観た)。

でも、昨日観に行って一番おもしろかったのは予告上映にくっついて流れた米国版「Shall we ダンス?」の前売券購入特典告知で見た「踊るリチャード・ギアがふわふわ上下するボールペン」な。一番笑えたよ。


【今日の大ピンチ】
あと二週間を二〇〇〇円で乗り切らなくては……!


エンピツユニオン


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