2004年12月30日(木) 片想い/東野圭吾
昨日、古書店に探しに行った文庫本とは「片想い」(東野圭吾/文春文庫)でした。一ト通り読了しましたので簡単に感想を記録しておきます。
表題を見るとラヴストーリイっぽいのですが、そうでもありません。もう少し深い意味をこの表題は含んでいまして、それは御一読の上、御確認を頂きたいところです。
巻末の解説によると東野氏はSMAP「夜空ノムコウ」をモチーフに本作を発想したとのこと。読了後にそれが頷ける、少し色褪せかけた青春とその中に生き続ける主人公たちの姿が描かれています。主人公たちって「青春」とか気恥ずかしい言葉を使うのも抵抗がなくなる頃の三十路さんなのですけどね。
主人公・西脇哲朗は大学生時代にはアメリカン・フットボールの名選手だった。当時のチームメイトやチームマネジャーとは卒業から13年経ったいまも強い絆で結ばれ、年に一度は顔を合わせている。その年に一度の日、会合の後で、暫く合わなかったもと女子マネジャー日浦美月を哲朗は見つけるが、美月は女性ではなくなっていた……。
というのが大体の粗筋。と言いますか、導入部分です。
主題にごくごく近い部分に「性同一性障害」が取り上げられている、ということを明言すると日浦美月がいわゆる「FTM」であることが窺えるかと思います。このヒトが「人ひとり殺っちゃった」とか言うので哲朗や、学生時代に美月と一緒にマネジャーをやっていていまは哲朗の奥さんの理沙子たちが「事件」の真相を解明しようと東奔西走するのですが、その中でいろいろな「ジェンダーの御話」が出てきます。これは大変興味深いのでお読みになられることを勧めます。
「性はグラデーション」というのが昨今の決まり文句ですが、この言葉が流行り出す以前の2000〜2001年(本作発表年)に東野氏は「男と女はメビウスの帯の裏と表」という言葉を提示なさっていて、それは本書を読んで私も納得できました。「決してコインの裏表ではない」と。
ほぼ準主人公の位置にいる日浦美月が当事者であるために性同一性障害についても詳細を書かなくてはならなかった。それがために東野氏は埼玉医大をはじめ多くに取材に当たったという御話を予め伺っていました(御本人からではありませんよ?)。それだけに「間違ったこと」は書かれていません。埼玉医大手術1例めのN原氏の行動がモチーフになっている日浦の行動なども見られて当事者はちょっとくすぐったいかも。
しかし、「間違いは書いていない」にしろ、私から見るとやはりどうしても「やっぱり非当事者が書いたものだなあ」なんてことを思わざるを得なかったりしました。だからこその「よい点」も含めて、です。当事者からは見えづらい事実や視点なども含まれていますから。
解説にも引用されている部分です。或る人物の台詞より。
「私は性同一性障害という病気は存在しないと考えています。治療すべきは、少数派を排除しようとする社会のほうなんです」
これには私も100%でないにしろ同意できます。しかし、続く会話。
「受け入れられさえすれば、ホルモン療法も手術も必要なくなると?」
「私はそう信じています。…(以下、台詞続く)…」
これは哲朗と或るFTM氏の会話なのですが、私は認める訳にはいかない立場にありますな。こういう考え方も勿論多分に「あり」で、この考え方の人の方が多いのだということも知っているつもりでいます。でもこれが「すべての結論」と解釈されるようでは困る、と思いました。
だって、私は世界60億の人々がひとり残らず私をまったくの男性として認めて受け容れてくれたとしても、手術を望みますから。気持ちと身体の喰い違いによる苦しみは、「受け容れられること」「だけ」では解消されないのですから。
もひとつ付け加えると、私は性同一性障害を「まったくの奇形」だと考えています。「病気ではない」「障害と呼ばれたくない」という過半を占める意見に同調しかねる部分です。
さて、東野氏は先のように書かざるを得なかったのでしょうか。それともこれが、取材と構想と執筆とを経て東野氏が辿り着いたひとつの結論だったのでしょうか。
作品全体から見るとほんとうに些末なことでしかないのかもしれませんが、どうしても気に掛かる部分がひとつ。
本作には日浦をはじめとして数人のFTMが登場するのですがその人たちに対しての三人称が、一貫して「彼女」とされているところが、ひじょーに(私個人の意見として)不快でした。
東野氏が性同一性障害に対して無理解ではないことは(むしろ生半な理解の深さでないことは)本作を通して読めばよく判ります。その上で何故「彼女」を使わなければならなかったのかを探りつつ拝読しましたが、その点は一点のみでした。
要は、本作において日浦がまったくの男性であっては不都合だった訳です。だから「昔、女だった。そして、いまも女の側面を多分に持っている」ということを充分に主張しないとこの御話は成立しない。
だからといって、日浦以外のFTMまで「彼女」呼ばわりすることないんじゃないの、と思ったりする訳です。当事者としましてはね。「性の揺らぎ」を訴えたいのだろうなということは判らなくはありません。でもね、それでもね。
この点が東野氏の作家としてのこだわりだったのか、編集側の意向だったのか、両者の合意の上での「読み手への配慮」だったのか、それは判りませんが、ほんとうにこうするしかなかったのでしょうか。ひとつの作品として充分におもしろいし、ジェンダーの問題についてもとても詳しく正しく書かれていて他人さまにすすめてまわりたいと思える作品であるだけに、その点が残念だと(私は)思います。
前述しましたように東野氏は「夜空ノムコウ」から着想し、それまで絶対に書かないと決めていたアメリカン・フットボール(大好きだからこそ書きたくなかったそうです。この気持ち、よく判ります)を題材に青春を描き出そうとなさった訳ですが、そのために必要な副題材が「性同一性障害」だった、と解説では述べられています。
ほんとうにそうなのかなあ?
確かに本作にはジェンダーの問題が複雑に絡んできますが、別のものでも構わなかったのでは、と思うのですよ。同じくらいに複雑なものならば。ただ、題材として、時代にとっても東野氏にとっても「旬」だったのでしょうか。傍目に見ると主題を「ミステリ」として成立させるためにこれくらい複雑で人目を引く題材が必要でした、という理由が先に立っているように見えるのですが、これについては「書くこと」、「読むこと」、「ジェンダー」に深く関わるほかのみなさんの意見も拝聴したいと思うところです。
ただ……ね。
本作にしろ一部で話題のあの漫画にしろドラマにしろ、性同一性障害が絡む御話というのは、「御話として如何か」という点よりも「事実に反したことが書かれていないか」ということを優先して見てしまうのが当事者のよくないところなのかもしれません。もっと純粋に御話を愉しむ姿勢というものが必要なのではないかと、読了後に思いました。反省。
御話は、勿論おもしろかったですよ。私が読了できたくらいですから。最近おじさんは根気がなくなってきて、ちょっとおもしろくないなと思った途端に読む気が失せたりしますからねえ。ライトノベル2冊分くらいのボリウムがありますが、すらすら読めます。でも全体の2/3くらいのところで最後の「仕掛け」が(私は)判っちゃったなあ。
541頁の「彼」の台詞が、当事者としては気持ちが判りすぎて(感情移入し過ぎ?)胸に痛くてパニック発作起こしそうになりました=□○_。非当事者はどのように受け止めているのかも気になります。
「東野作品として如何か」というようなことも一部で論じられているようですが、それについては失礼ながら私は東野氏の他作を拝読しておりませんので何とも申せません。ミステリの雄として名のある東野氏が私どもに関わる題材を取り上げてくだすったことは有難かったかなあ、くらいのもので。
この点は東野氏にも氏のファンのみなさんにも申し訳ないです。そして定価で買わなくて御免なさい(まだ言ってる)。