昨日行ってきた県人権啓発センターのO氏はこのように仰った。
「障害者と健常者の境界って何処にあるんでしょうね」
たとえば、足が巧く動かなくて歩けない人がいるとする。
でも、この歩けない人も「車椅子」という道具をひとつ得るだけで「自分の意志で」「自分が行きたいところへ」移動できるようになる。
道路や建物に車椅子で移動しづらい段差がなくなり、移動しやすいスロープができれば他人の手を借りなくても何処へでも行けるようになる。
雇い主に当たる人が「車椅子に乗っている人にさせる仕事がない」というようなことを言わなくなれば、車椅子に乗っている人の特性を見極めて雇ってさえくれるようになれば「自分で稼ぐ」こともできるようになる。
足が動かなくても、足が動く人と同じように生活することができる。
要は、障害は「足が動かない」ことではなく、「社会での生きづらさ」なのだと、O氏は教えてくれた。
つまりは、障害者の「障害」は、健常者がつくってしまっているのではないか、と思った。
足が動かない人も、眼が見えない人も、特定地域で生まれた人も、過去に罪を負った人も、心身の性が不一致の状態で生まれてしまったぼく等も、一ト括りに「障害者」という言葉でまとめられてしまうけれど、その障害は本人にあるのではなくて社会が生み出しているのだと。
障害者と言われる人々が障害者でなくなるためには、社会が大きく変わることが必要なのだと。
判っていたつもりで実は判っていなかったのではないかということを、改めてやさしく話して頂いて、ああそうだなと納得することができた。
さて、このような話に納得できない人、というのは、どれくらいいるのだろう。まったくいないとは、思えない。
【参考】
厚生労働省のICF採択