放電しきったかな、という状態です。入れるものを入れないと出さねばならぬものも出ない。という訳で充電のため蔵書量豊富な友人に「おもしろい本貸して」と御願いしてコンテナふたつ分ほど借りてきました。
その中の或る一作。少女漫画です。
出版社にもよりますが、少女誌掲載時には大抵「4分の1スペース」というのが取られます。
少年誌掲載作にはほとんどありませんので少女漫画を読むことのない方は御存知ないことかと思いますが、少女誌掲載紙の割付(ページの割り振り)によってはその出版社の広告を掲載するために1ページの縦4分の1を空白として予め空けておかなければないのです。
で、単行本収録の際にはそこには広告は載りませんので、作者自身がコラムなどなどを書く訳です。
読んだ中の或る一作の或る一冊の或る4分の1スペースには、制作の裏話のようなものが書かれていました。その一節。
「私はキャラクターを好きになることがないので……」
それが眼に触れた途端、読む気が失せました。信用できなくなったからです。
作品制作のスタンスなんて作者によって違うものですし私のような半端者が有名商業誌で御活躍の作家さんの姿勢についてとやかく言えるものではありません。
でもまったく読者の立場で考えてみたとしても。
私はその作家さんが信用できなくなったのです。
自分が生み出したキャラクタを好きにならないとは、どういうことなのでしょう。自分が産んだ或るいは育てた子供を愛せない親がその子供から、子供の周囲にいる人から、社会から、信用され得るでしょうか。
少なくとも私は、自分を愛してくれない親を、また自分を愛してくれない周囲の人を愛したり信用することはできません。
私個人の資質なのかもしれません。けれどもどうあっても私は自分が生み出したキャラクタを愛せない作家さんを好きにはなれませんし、その作品をも好きにはなれません。
とても、とても寂しい気持ちになってしまって、その本を手離した後は何もできませんでした。
その本と一緒に借りてきた「すき。だからすき」(CLAMP/角川書店)は、とっても「ほわわん」とした気持ちになれて愉しかったのですけどね。連載期間が充分に取れなかったのか未消化の部分もありますが、そういう部分も含めて私はこの作品が好きです。
麻生先生みたいな人、実際に身近にいたら苦手だろうけど、作中人物としては大好きです(ニヤ)。
CLAMPさんのキャラクタがそれぞれに活きているのは、やはり作者の愛があるからなのだと思います。
公式サイトには
キャラクタの誕生日も掲載されています。ここに愛が見えるでしょう?
「時代や流行に媚び過ぎ」だとか「手法があざとい」だとか、いろいろと揶揄されることも多い作家集団ですが、私は、企画・制作・プロデュース等々を自作への責任を持って一貫してやってしまう、「作家」という括りにとらわれない彼女等の作品がその姿勢とともにやはり好きです。