2003年10月14日(火) |
いよいよやって来た「あの不安」 |
稽古はひとまづ順調に進んでいるのだが、公演が近づくといつも感じる不安が姿を現した。それは、これと言えるようなものではなく、なんとなくとしか言いようのないものだが、世界の色が変わってしまうのだ。生活は今まで通り、何一つ変わっていないのだが、未来の闇が可視化され始めた。
窓の下に見える田んぼはこのところ降りつづく雨で重そうだ。時間の運びが重たく感じる。あっという間に過ぎてしまうのに一刻一刻が重い。
もともと虚空だったものを、仮の姿にせよ、この世に産み出す陣痛か。
台本に引用した「三諦」の、俗諦、真諦、中諦のうち最初のふたつは比較的わかりやすいが、中諦はむずかしい。
俗諦は、この世のありとあらゆるものごとを受け入れるこころ。差別のこころ。すべてのものごとにはそれぞれのあるべき姿があり、それを離れては成り立たないこと。私は私であり、決してあなたにはなれない。
真諦は、無差別、平等のこころ。空のこころ。あらゆるものごとは無を根拠としている。「ここにいる」と思うのは私ひとりではない。誰もが「ここにいる」と感じ、思う。しかも、その時「私がここにいる」などとは思わない。「私」がいるのではない。私を刻々と産み出す無が、ただ、今起こっているものごとを受け入れている。絶対的な真実。死の前では誰もが平等だ。
中諦はそのどちらにも落ちないという。「千鋒雨霽れて露光冷(すさ)まじ」を差別と平等で見るのはできても、どちらにも落ちずに見るのはできない。今の私にはできない。
舞台の出来事を真実として受け入れ、その場その場で感動したり、考えたりするのは俗諦だ。一方、舞台の出来事の個別に囚われず、謂ば個々の出来事を産み出している舞台世界全体を包む空気、無の気配を楽しむなら、ならそれが真諦だ。そこに自分の人生の虚空を見て、悠久の思いを抱く。
でも、中諦は?
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