2003年09月17日(水)
時は戻せない

おぞましい事件が起きた。昨日、家でTVを見ていたら、突然爆発が起こった。もちろん点けたばかりだから何が何だか分らないが、とんでもないことが起こったことは分る。爆発の衝撃?のせいか消防のホースが途中で破れて水が吹き上がっている。2台あるうち一台の梯子車のホースからは水が飛ばない。早く火を消せ。見る方は勝手にいらいらする。現場はそれどころでない修羅場だ。だが、ひとが中にいるというにしてはあの梯子者の放水は消防訓練のようにのんびり見えた。

1時間くらい経ってからだろうか、爆発の瞬間の映像のうち、なかにいる支店長らしいひとが耳をふさいで窓のすぐ近くでよろけている姿が一瞬映った。これにはいたたまれない思いがした。おそらくこの直後に(あれだけの爆発なのだから)酸素を奪われて気を失い、その後に死亡したのだろうが、このひとをすぐに助けられなかったのだろうか、そう思ってしまう。同じ映像が何度も繰り返し映し出される。ますますその気持が大きくなる。もし、耐熱服に身を固めた消防隊員がすぐに梯子をかけ、窓を破れば、救出できたのではないか?現にああして窓のすぐそばにいたではないか!

しかし、である。それは間違っている。もちろん、救出できればよかった。だが、そういう手順を踏めば救出できたのにという想定はヴィデオを見たあとに私のこころに浮かんだものであり、けっして時間の流れに即したものではない。

人間はそんなにすばやく動けはしない。また、限りなくすみやかに動けたとしても、店長がどの窓の近くにいるかは知るよしもない。全知全能ではない。だから、店長はあそこにいたのだからあそこで待ちかまえていればよかったのに……そういう要求が無理難題だということは明白だ。

全部、あとから付けた理屈なのだ。ヴィデオがなければ、あっという間の大惨事であり、そういう突出した時間として私たち(もし現場にいたとすればだが)の記憶に残り、生の、死の、生々しさを思い知らすだろう。一方、ヴィデオは事件を体験するひとを無限に拡大し、また、次の事件のための智慧を蓄積するかも知れないが、だからといって私たちが生きる時間の性質まで変えるわけではない。灰は薪には戻らないのだ。

以前にもフォーミュラカーレースの死亡事故の時、同じ、いたたまれない思いをしたことがある。(セナの事故ではない。)前を走る車に乗り上げたレースカーが宙に浮き、飛行機のように時速300km近い速度で鈴鹿の第一コーナーのタイアバリアーに突っ込んで行く。事故のシーンが繰り返される。車が宙を飛んでいる。ああ、まだ、レーサーは生きていたのだ。死にむかって一直線に生きていたのだ。もちろん誰もなすすべはない。

しかし、私は、ついさきほど死亡が確認されたレーサーが、今TVの画面の中でまだ生きている、という事態を受け入れられず、狂おしい思いにうろたえていた。

今回も同じ思いがする。その思いが人為的な時間の中でのみ湧き上がる故ない思いと分っていても、それでもなおかつ、何もできないことを理不尽に憤る。

私たちはヴィデオのようにプレイバック可能な時間帯には生きていないのだ。すでに亡くなったひとはけっして生き返らない。私たちは刹那、刹那に生きている。

無意識の裡に、現代の技術がそういう刹那の生を寸断し、分断し、破壊してしまっているから、私たちはそうとも知らずについつい、ああ、あの時ああすれば……と悔やむ。現代技術は私たちが悔やむ可能性を極限まで広げたと言える。これは豊かさなのだろうか、虚しさなのだろうか?

今は、犠牲者に黙祷を捧げるのみ。


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