| 2007年06月27日(水) |
セカイ系新書(とちゅう) |
あー・・・なんだったっけ?あ、そうそう、セカイ系と最近の新書が似てるとそんな話だったよーな・・・。あー・・・はいはい、風呂敷ひろげた以上終わらせますよ。うん。なんかそんな面白いことでもないような気がしてきた。ここからさき面白くないよー。たぶん。
個人的に思うのはセカイ系諸作品と懐古厨新書の共通点に、「自己肯定の安売り」がある。セカイ系のハシリであるエヴァのひとつの特徴としては、キャラが鬱陶しいまでに自己否定を繰り返しながらも、最終的には悟りのようなものを開いておわるというものだ。〈1〉物語である以上、そこには結論もあるのは確かで、それ自体は当たり前なのだが、エヴァの特徴である意味すごいのは、よくいわれることだが、物語は進むが主人公並びに主要なキャラクターたちは一貫して成長しない。第一話から劇場版の最終話まで、キャラのパーソナリティーは変化せず、ただ状況だけが破滅的になっていくだけだ。
オタク系諸作品のなかでも、その一点において「EVA」は異彩を放っていたといっていい。なぜならば「主人公の成長」というファクターはエンたーティメントのなかで重要な位置を占める。受けては主人公が努力をしながら成長していくのと自己をある程度同一化し、それがエンターティメントになる、それまでの作品の王道パターンだ。「友情」「努力」「勝利」の三原則が当時のジャンプ作品の大原則だったことはだてではない。フィクションの中でもキャラクターたちは自らの目標を設定しそれを達成するために血のにじむような努力をしその果てに何かを得る。そして主人公のいる場所も第一話と最終話では全然違うし、能力等も圧倒的に違う。そして物語の答えのようなものも、その第一話とは全く違う場所に存在することになる。
だが、エヴァは違った。物語の答えのようなものは第一話にでてくるものですべてそろってしまっている。碇ユイは最初から初号機のなかにいたし、アダムは地下にあったし、リリスになる綾波も一話から出てるし(2人目だけど)ゲンドウの望みもすでに出ていた。アスカにしたところで、セットになって登場した弐号機の中にお母さんがいるわけだから、最初から答えが近くにあったといっていい。答えは最初からそこにあり、自分の中に潜行することで答えを見つけていく。
この論理のなかでは、自己の認識は絶対化している。それまでの世界感では自分を周りの人間と比べて相対的評価を下す(その上で努力により他者より優越していると納得することで自己を肯定する。)のに対してセカイ系では自分の内面に潜行していくことで自分自身に対して絶対的な評価を下す。所詮人間はみんな自分大好きなんだからそんなことをすれば、ナルシスト的な自己肯定にたどりつくしかないのだが。
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