最近、嵐山光三郎の文人暴食という本をよんでるんですが、いや、これがなかなかに面白いもんでして。昔の作家さんって結構無茶な食い方してます。カロリーとかメタボリックとか全然考えてません。時代背景考えれば当たり前かもしれませんが。その現代社会では、幾分かの留保をつけざるを得ないような食いっぷりを平気でしているところに痺れます、憧れます。
食い物の話からはちと外れますが、文中の正岡子規とその弟子の高浜虚子のからみからなんとも言えないいい味がでてまして。話は正岡子規の臨終の床なんですが。子規が死にかかってるときですから、当然弟子の虚子は見舞というかずっと世話をしているわけです。そういう状態で一生懸命虚子は介護をしていたのですが、途中で居眠りをして子規の臨終のときを見逃しちゃってるんです。前々からまじめで、しっかりやるけどどこか抜けてるという評価のあった虚子ですが、師匠の臨終の床で居眠りといういい感じのファインプレーをかましてくれるのですな。それで、子規は気がついたら死んでいたということになってしまったらしいのですが。
まあ、そんな虚子の大ボケを臨終の床でかまされた子規ですが、個人的な感覚では、そう悪い気持ちじゃなかったんじゃないかと思うんですわ。臨終の床となったが、枕もとには自分の後継者になれとひざ詰めで談判した弟子がいて、ここしばらくはずーっと面倒見てくれてて、たぶん自分が死んだあとも後継者として俳句を継いでいってくれる。(まだこのときは正式には俳句を継がないわけですが。)あとのことは頼んだぞと最後に薄めをあけて虚子の顔をみたところで、居眠りかましてるわけです。やってくれますよ。ドジっ子の面目躍如ですよ。子規のなかじゃ、情けないやら面白いやら笑えるような泣けるような気分だったんじゃないかと。
まあ、もし僕が子規だったら、心のなかで虚子に
「バーーーカ!!」
と毒づいてからにやにや笑いつつ一発昇天ですな。こういうちょっとアホな野辺の送りは結構いいもんじゃないかと。
まあ、単なるアホ話といってしまえば、それまでですが、子規と虚子の間には妙なほっこり感があるんですな。師弟ともに微妙に天然様だったからこそでてくる味ですが。まあ、でも、こういうほっこり感があるから、間抜けとか天然とかいうのも案外美点になるかもしれないですよ・・・と。
・・・と自分の間抜けさと天然っぷりをひそかに自己弁護するテスト
|