| 2007年04月04日(水) |
2004年にさかのぼり。l |
一応前回からの引きになっていますんで、気が向いたら昨日の日記もチェックしてください。
私がはじめて日本という国そのものが、日本人から見捨てられるかもしれないと思ったのは、2004年のイラク日本人青年殺害事件の時です。ちなみに犠牲者の香田さんへのメッセージ集。この事件の概要は、紛争中のイラクに行ってしまった迂闊なバックパッカーがイラクの過激派につかまってしまって、自衛隊撤退させなきゃ殺すと要求してきたんだけど小泉首相は突っぱねて、そんでもって結局そのバックパッカーは首を切断されてその動画がネットにながれてしまったというまあ、非常に悲しい事件だったわけです。
このときの政府の対応は、私の主観ではあまり本気でやっているようには感じられませんでした。自衛隊を撤退させようという選択肢は最初から小泉首相に拒絶されたし、一応救出活動みたいなものはしようとはしてたかもしれないけど、そんな一生懸命やっているようには見えませんでした。(まあ、そういうのが一般の国民にわかってもどうかとおもうけど)あくまで個人的な感覚ですが、ポーズだけでも自衛隊を撤退させるという選択すらないなかで手をこまねいているうちに殺害されてしまったという感覚が強かったと記憶しています。そんでもって政府にしろマスコミにしろ邦人がつかまって、殺されかけているのに自己責任なんぞという言葉で殺されかけている人間に対して抽象に近い言葉すら吐く始末でした。最後は殺されてしまって、逆に全体的にホッとしてシャンシャンというような感じでニュースに埋もれていったような感じがします。
このときに日本という国は、国家からたんなる疑似国家システムになってしまいました。ないしは、国であるという仮面が剥がれてしまったというほうが正確かもしれません。
個人と共同体との間で一番わかりやすいものは契約関係でしょう。そのような無機的な関係はお互いの利害が合えば築くことができます。それ故に利害が合わなくなれば簡単に破棄されてしまいますが。それ以上の有機的な関係、たとえば親子とか家族とか、感情でいえば友情とか愛情とか、そういうものは利害とは違う関係性でつくりあげられますし。時にそのそういう関係をはるかに超える力を発揮することが多々あることを知っている人もいるかもしれません。
あの時、日本は香田さんを助けるのに全力をかたむけるべきでした。たとえ救出が無理だったとしても、日本政府がもてる力のすべてを使って彼を助けようとしているということを国民全員が感じ取れるようにするべきでした。確かに香田さんは迂闊ななんの力もない愚かなバックパッカーにすぎなかったかもしれません。しかしそんな彼だからこそ本気で助けるべきだった。一人の国民の命が異国にて命を脅かされている。それならば、それこそ子の命を守る親の様に必死になるべきでした。たとえ、どんな状況になっても日本国は国民のことを見放さなずに一人の国民の命を守るためにはどんなことでもする。そういう姿勢をみせてこそ日本人にとって日本国という国家、ないしは共同体が特別なものであり、そういう神話があってこそ、日本と個人の間に他とは変えられない深い有機的なつながりを感じられるものになるはずです。
キリストさんってのは大したもんで、そこら辺をよくわかってた人でした。たしか、放蕩者の弟子がいてその弟子が何度もバカやってイエスがその間違いをなんども許す。それをみてまじめな弟子が、なんであいつ見捨てないんだと聞いたら、迷える子羊を助けることになぜ躊躇することがあるとかいったとかいったことがないとか。まあ、かなりいい加減な記憶ですが。当時のキリスト教も一種の宗教団体ですからね。その共同体を堅固なものにするためにはどんな状態になってもキリストは信者を決して見捨てないという一種の神話をつくることが必要だったのですよ。信仰には神話が必要なのです。
・・・疲れた。 続きはすいませんがまた明日で。
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