信仰の滝を登ったY君の、その後の小さな記事。
このことは、私とHの心をずいぶんと痛めた出来事だった。 同時に、ネットのコミュニケーションについて色々とわかった出来事でもあった。
ネット依存症という表現はすでに生まれているけれど、むしろ 情報依存症と言った方が適切ではないか、と思うのだ。
我々は、いったい、情報を多く持つ方が、持たない方よりも賢く、スマートで、 物事が上手くいくと、いつから思うようになったのだろう。
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就職情報は、一部上場企業へ就職希望者を殺到させ、 一流企業は就職難、中小企業や町工場は人材不足、といったアンバランスを生み出した。
結婚情報によって、生涯の伴侶選びは「物件探し」に成り果てた。 もっと良い人があるのではないかという未練が結論を先延ばしにし、 自分の人生に他者を受け入れるという覚悟と決意も消えうせた。
不動産情報は、いとも簡単に人を土地の結びつきから引き離し、 その土地はどういう土地であるかは、坪単価と日当りと利便性だけで語られるようになった。 土地に誰も責任をもたなくなった結果、コミュニティは脆弱になった。
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情報は、人間が人間の都合で切り取った、物事の一片に過ぎない。 もちろんそれは、何かの判断に役立つことはある。
けれども、物事の判断や感情の在り様において最も拠り所にするべきなのは、自分自身の直接的な経験であるべきで、 例え百万件のデータベースを前にしても、私達は自分でたどりついた唯一つの解に、自信と誇りをわすれてはならないと思うのだ。
2007年08月13日(月) 夏記録1:Who are you? 2006年08月13日(日) 見解
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