浅間日記

2010年01月17日(日) 立志伝外の人

この冬一番の冷え込みとともに、大学入試センター試験が行われた、というニュース。

Aに大学の入学試験とは何かと問われ、自分の受験をふと思い出す。

私は、大学受験というものにアグレッシブに取り組んではいなかった。
自分の未来に対して自覚がなかった、と言ってもよい。

まあ、他ならぬ自分が通る通過点としては、仕方のないものだったと思っているが、今の受験生は、自分の目の前の試練に、いったいどんな未来を託しているのだろう。



クラーク博士は「少年よ大志を抱け」と言い残したが、真に志を立てるということは、簡単ではない。
恐ろしく厳しいハードルを、あらゆる事を犠牲にしても達成しますという宣言である。

だから、そんなに簡単に若者へ等しく説いてよいことではないような気がする。
どっちを向いても坂本竜馬で賑わう今年は、特にそう思う。

何者かにならなければ自分は駄目だとでもいう風潮の中で、若者は皆、志を立てることに躍起になり、終わらない自分探しの旅に出かけたまま帰ってこない。

そして、短い人生を自立できないまま年をとり、奇妙な大人になってゆくのである。

大志どころではなく、この自立できない奇妙な大人を如何にしてつくらないようにするかが、社会の喫緊の課題のように思う。




社会を支えていくのは、実は立志伝中の人ではない。むしろその反対だ。

何者にもならず、平穏無事な中で「良く生きよう」と人の営みを粛々と継続する人こそ、
坂本竜馬よりも誰よりも、この国を支えている大黒柱である。

誰も彼も何者かになろうとすれば、必定、争いが起きる。
ゲーム思考に毒された社会で何者かになるということは、戦略をもって人に勝つ、という意味を持つ。

何者でもない市井の人間の存在が明るく照らし出される国でなければ、この程度の低い競争はなくならないし、真のリーダー、つまり自分を犠牲にして人の為に大志を抱く人は生まれないのである。



子どもが10代で進路に悩むまで、まだ少し時間がある。

何者かになってほしいという欲望に、私は打ち勝つことができるだろうか。
わずかな才能や可能性を見つけては、子どもとはいえ、自分ではない他者へ何かを期待したりしないだろうか。

如何にして生きるかと悩む暗黒の中で、「良い人間になりなさい」「しっかり暮らしていきなさい」と、シンプルな光をなげかけることができるだろうか。


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