毎朝の通い道に出会う、足をひきずって歩く若い男性。
どこから来たのかしらないけれど、この人が歩いているところを目にする場所をつなげると、結構な距離を歩いているはずである。
私は運転上注意を払うべき歩行者として−、私は車の運転席からその人をみるのである。
雨の日も、雪の日も、毎日歩いている。
ある時は、こんなところを歩いて危ないなと思った。 ある時は、どこかへ通っている人かなとぼんやり思った。
いずれにしても、通り過ぎたらすぐに忘れてしまった。
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彼の行き先は、通りの向こうにあるあの店かなと、ある時思い至った。 障害を持つ若者が、おやきなる郷土食品を製造販売している店である。
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狭い生活道路で再びその男性に行き会い、後ろからゆっくり進む。
片足を引きずっているが、足取りは重くない。 早足で規則正しく道を行く。
移動手段として歩行する人の姿は美しい。 そして「行くために歩く」という動機は、シンプルで力強い。
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なぜそんなことを思ったか。 それは、こんな理由である。
このあたりは車の移動ばかりである。
これでは健康に悪いということで、行政がウォーキングと称する歩行運動を強行に奨励した。。 だから、この街の田畑の周りの農道とか河川敷に行くと、首にタオルを巻きつけて軍手をはめた中高年者が、セカセカ腕をふってわき目もふらずに歩いて、否、歩かされているのである。
その姿にずっと違和感を感じていた。 何しろ、歩く姿に「己の健康・己の長寿」という願望がにじみ出ていて、何だか怖いのである。醜い感じもする。
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制度によって歩かされる人生など真っ平ごめんである。 制度によって生かされるということは、制度によって殺されるのと同義である。
私も、あの男性のように力強く歩くということがしてみたい。
どこへでも歩いて移動するというのは田舎では大変なことだけれど、 まずはやれる範囲からでも、試みてみたいのだ。
2005年03月09日(水) 60年前の子どもは 2004年03月09日(火) テハヌー
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