赤ん坊の看病にかかりきりになって、3日経つ。 Aの相手と家事はHにまかせ、小さな熱い身体に寄り添う。
二人目の子どもというのはどうも粗雑になりがちである。 過剰なまでに自己投影するような一人目との因縁に比べ、どこか冷静である。男の子どもということもその理由にあるのかもしれない。 可愛いという気持ちのどこかに、シャレや笑いを交えてしまうのである。
それはそれで微笑ましく幸せなのであるが、赤ん坊のうちぐらいはもう少し、気持ち悪いぐらいの母子愛をシリアスに噴出させても、罰はあたらないだろうと、少し寂しく思っていた。
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発熱が39度を越え、40度に達し、荒い息をする赤ん坊を昼夜抱き続ける。 ふと、このままはかなくなってしまうかも、という気がよぎる。
丈夫で明るい赤ん坊だから、健やかに育つと誰もが−この期に及んで医師まで−言うけれど、 そういう命に限って、ある時ぽろりと火が消えることだってあるだろう。
とたんににわかに怖くなる。が、そうはさせるか、この私の子を、何にも奪われまいとする気持ちを強くする。
そのために、私は確かに、この子が治ればその後の自分などどうでもよいという気持ちで、文字通り命を削って看病するのである。
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これからもこの子は、命を北風にさらしながら、次第に免疫をつけ強い身体を手にするだろう。 そして親子の絆も、むき出しになった命を守る中で、より確かに育つだろう。
2007年01月25日(木) 2006年01月25日(水) 2004年01月25日(日) 国民総ガス抜き表現者
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