国際オリンピック委員会が、北京五輪のドーピング検査で違反が見つかった陸上男子ハンマー投げで2、3位に入ったベラルーシの2選手の失格とメダルはく奪を決め、5位の室伏広治(34)=ミズノ=の銅メダル繰り上げを発表した、というニュース。
当の室伏選手が繰上げでメダルを獲得するのは、アテネ五輪に続いてこれで二度目であり、受賞コメントでも、ドーピング違反に対する厳しい声と受け止めるとあり、諸手を揚げて嬉しいというわけではなさそうである。
これに関して、西田善夫というスポーツアナリストの解説。
ハンマー投げという競技は、筋肉の量がすべてと言ってもよい競技なのだそうである。 選手はみな身体が大きく、レベルの高いところでわずかな差を競うような、 厳しい競争があるのだそうである。
メダルを獲得したこと以上に、室伏選手の薬物に手を出さない勇気は、 一般の青少年への一つの見本になるだろうと、西田氏は言う。
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日本人選手がすべて薬物に対してクリーンであるかどうかは別として、私はこう思う。
競技において薬物の手を借りずに技を極めようとするのは、日本人が「天然物好き」だからである。
魚でもキノコでも水でも、養殖に比べて天然物は圧倒的に付加価値が高い。 「人為を加えていない成果」を人は高く評価し、人為が添加されたものは「まがい物」、つまりうわべは同じでも真実でないとする文化があるのである。 室伏選手のスポーツマンとしての美学は、−私の勝手な想像でいうと−ここにあるのだと思う。
その一方で、私達には「人為を極めることによる実り」も高く評価する傾向がある。 酒造りも、芸能も、山に木を育てることも、人間のはたらきかけによって成果を生み出す行為は、ある種尊いものとして扱われ、その技巧の高みに到達した匠は、分野を問わずひとつの哲学をもっている。
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このことは、私にはとても興味深い。 つまり私達には、天然の仕事であるべきものと人がするべき仕事の評価を、別にしている。混在は好まないけれど、「どちらもあり」でよしとしているのである。
だからオリンピックが「薬物を使用してどこまで人間は身体能力を伸ばせるか」というレギュレーションになれば、それはそれで日本は「素晴しい」成績を残すだろう。たぶん、盆栽をこしらえるように芸術的な肉体をこしらえるに違いない。
そういう理由で、私は室伏選手のクリーンさは、一般の青少年が薬物に手を出さないというモラルとは、本質的にあまり関係がないと思うのである。
2006年12月22日(金) 2005年12月22日(木) 一陽来復 2004年12月22日(水) 戦場跡地
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