2007年02月12日(月) |
リスクが顕在化するとき |
中央高速道路を、上り線の混雑を横目にして家に戻る途中のこと。
Hから、今病院にいる、と電話。 覚えのある、残念な気持ちが入り混じった嫌な緊張感におそわれた。
誰が?Y君が。何故?滑落で。状態は?命に別状ないが頭を打って1週間ほど入院。
仔細はともかく、連中は山で遭難したのらしい。
緊張すると人は笑う。そいういう反応で、 そら大変だねご苦労さんと、へらへらした態度で電話を切った。
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家族が山で遭難した、という知らせに驚くべき場面は、 それが全く何も知らされていないときだけだ。 家族が登山をするということも、その日に入山していることも。
だから驚きはしないのだが、かといってちっとも歓迎すべきことではない。
Y君が死ななくて本当によかったと思い、 それでも、やってしまったかという残念な気持ちでいる。
この残念で惨めな気持ちは、怪我をしたのが家族である場合には、 さらにどうしようもなく大きくなる。
一切合切、リスクをもつ人を伴侶にするからそんな目に遭うのだと、 どこからともなく亡霊が現れて、蔑むような言葉をなげかける。 そんな危ないことを家族としてよく容認できるね、という、 今まで飽きるほど言われた科白がうかぶ。
そうでなければ私が生きていけないのだから仕方ないではないかと、 力なく反論する。
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