浅間日記

2006年10月16日(月) 通うな危険

大阪で仕事。滞在2時間でとんぼ帰り。
家族が寝静まった家にもどり、再びPCに向う。



教師がいじめに加担していたという最近のニュースに関連して、
ラジオで元教師という人のコメント。話の中身はこんな感じである。

教育とは、子どもを社会的に一人前にすることである。
教師は、そのために必要なスキルを教えるものである。
ところが、教師の中には、自分が生徒より人間的に優れているとか、
立場が上であるというように勘違いしてしまう場合がある。
かつては地域の大人が学校に深く関与しており、そうすることで
教師の勘違いや独善性を正していたが、現在ではそうした機能が働かない。



申し訳ないけれど、どの一文も、少しも同意できない。
だから、全部ひっくり返して書きたくなった。

教育は、子どもの自立的成長を助けるためにある。
子ども自身がよりよい人生を送るためにある、と言ってもよい。

教師は人間的に子どもより優れているし、上の立場に立つ。
犬の訓練をするトレーナーは犬より優れている必要はないかもしれないが、
人間の教育というのは、そうではない。

子どもより優れているから教師なのである。上に立つから見守ることができるのである。
そして、そうした資質をもつ教師への憧れや慕情が、
学びを包括的で活き活きとしたものにする。

教師を信頼して子どもを預けるのが、これまでの地域と学校の関係だった。
現在の方がむしろ、教師への監視や注文は多いはずである。

これが、私の考え。



学ぶという行為は、教える者ではなく学ぶ者に軸足がある。
何を学ぶかと同じぐらい、誰から教わるかは重要なんである。

だから「師事する」という形をとって学ぶことができるシステムを、
義務教育でも少しは考えられたらよいのに、と思う。

よくわからないけれど、学校選びという行為が今のところ、これに代わって機能しているのだろう。






元教師の方の話は続く。

現代の子ども達は、大人が思う以上に傷つきやすいということを分かっておく必要がある。

また現代の学校は、考えられないほどの陰湿な出来事が生じる極めて危険な場所であるという事実、
そしてそのことを教師はコントロールできないという事実を認識する必要がある。

だから、「行きたくないと思うときは休んでよい」と、親が言ってやる必要がある。



この後半部分は、理解もできたし同意もできる。

しかし、極めて危険な場所と認識した上で子どもを送りだせというのは、
いささか無理な注文ではないか。

「べつに優れていなくてもよい大人がいる、極めて危ない場所」が学校ならば、
そのような場所は、そもそも行く必要がない。深夜の盛り場と相違ない。


せっかくこの世に生まれてきた、その若葉のうちに
暗黒のような悪意の中でひとり死を選んだ子を思え。

2005年10月16日(日) 真夜中の引力
2004年10月16日(土) 前腕部怪奇譚


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