坂本龍一のピアノを聴きにいく。まつもと市民芸術館。
小澤征爾氏の牙城ともいえるこの街の、 小澤征爾氏の肝入で建設したこのホールでの演奏は、 聴衆のレベルの高さ−そんなものはこの街にないように思うけれど− も意識するだろうし、さぞややりにくかったことだろう。
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作曲家の演奏は作曲家のものである。これには誰にも文句が言えない。 アントニオ・カルロス・ジョビンだって 「音痴で何が悪い、それがボサノバだ」と歌にして、 本当にそれはそういうことになってしまった。全世界で。
坂本龍一という人の音楽は、 彼自身が彼自身のものとして添い遂げるべきものと、 別のプレイヤーによる解釈や演奏技術に託すべきものと、 ふさわしい場所へむかうべきではないか、というのが感想。
特に後のほうについては、何よりも彼自身がそういう枠組みを曲の中に与えているように思う。 いつの日か現れる「坂本弾き」を想定し、 時代の中で、何度も解釈され演奏されることを想定している。
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ジョビンのボサノバも、ジョアンジルベルトに歌われることで、本当の命が吹き込まれたのだ。 そして、だからといってジョビンの歌に魅力がないというわけではない。
2004年12月21日(火) 船を出そう
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