「見せるために作ってるんじゃないよ、作ってるところを見せているんだよ」 こう言われたのは、群馬県新治村の「匠の里」なる観光施設で、 わら細工だか何か忘れたが、伝統工芸品の店先。 もう10年も前だけれど、面白いことを言うものだと記憶していた。
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見せるために作るのか、作るところを見せるのか。
音楽で飯を食うというのは幸せなんだろうか、と常々思っていた。 それが市場にのった新しいジャンルであればあるほど、そう思う。
録音技術は、世界中の人が優れた音楽を聴く機会を与えはしたけれど、 それと同時に、音楽から質量を奪ってしまった。 レコードやCDみたいに物として存在しているうちはまだよかった。 今や、ついに、あんな小さなポッドに納まってしまい、姿かたちさえなくなった。
本来、圧倒的な存在感をもって人間の生を表現するはずの音楽は、 有機的な側面のかけらもない、情報の一つになってしまったんである。
音楽興行で聴衆が求めるものは、情報として何べんも耳にした記号の再生確認にすぎず、 ミュージシャンは音楽再生装置としての役割を果たさねばならない。 録音した時の演奏どおりに、忠実に。 グレン・グールドや岡村靖幸が引きこもるのも、もっともな話なんである。
そんなことはゴメンだと市場に背を向けて音楽活動を続けることも可能だが、 皮肉なことに、背を向けている人の音楽がよい音楽という訳ではない。
まあ、王様や貴族がお好みの音楽を嫌々作って演奏する時代もあったのだから、 芸術家というのは、どの時代であっても時代なりの葛藤や困難を抱え、 それでも上手にタフに折り合っていかなければならないのだろう。
ただ私は、本当に自分の人生の糧になる優れた音楽というのは、 聞かせるために演奏されたものなどではなく、 その人がその人として全身全霊で自分の音楽を愛し、表現するところにしか現れないと思う。
来週出かける坂本龍一のピアノコンサートは、そういう点で楽しみなんである。
2004年12月17日(金) 童話再び・駄文
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