子どもの学力低下について、弁護士の石井小夜子という人の記事を読む。 「図表でみる教育2004年版(OECD)」というレポートに 一般政府総支出に占める全教育段階の公財政教育支出の割合が、 各国平均12.7%であるのに対し、日本は10.5%であると示されたことを基に、 日本は教育にあまりお金をかけない国であるという現状があり、 学力低下という現象のみを追いかけるのではなく、 今後の教育条件整備も含めて、総合的に学力低下を検討してほしい、と述べている。
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子どもの教育について論じる時、 私は二つの異なる視点をもつべきなのだろう。 何だか混乱しているのはそのためだ。
一つは、自分の子どもについて考える場合。 全ての責任と権限は親である自分に帰結する。結果も自分に跳ね返る。 国や行政や政治や経済や一切の社会的事象は、 不可侵か若しくは優先順位の低い領域である。
もう一つは、教育政策について論じる場合。 これは、自分はもちろん、国全体がその責任と結果を負う。 私は、自分の子どもの個人的な将来は、度外視して考える。
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教育政策において、 将来のエリート育成に力を入れるか学力格差のない次世代集団をつくるかの舵取りは、 大変難しい課題だし、未熟な私は、今ここで答えを出すことができない。
しかし一つぐらいは言える。教育政策というのは、 次世代の社会構造をどう設計するかという作業であり、 相手にしているのは「現在の子ども」ではなく、「未来の大人」である。
そのことによって政治や経済、国の治安はどうなるか。 安定した国や社会を築くことができるのか。 さらにその先の世代はどうなるか。 教育政策の舵取りには、そういう視点が必要だ。
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ゆとり教育が失敗したと言われるのは、 本来親が我が子のために考えるべきことを 学校の先生がやってしまったからではないか、と思う。
そして、我が子の教育の質を巡って親が一喜一憂せざるを得ないのは、 本来教育政策が果たすべき「教育の質の確保」という役割が機能不全で、 そのため個々の家庭が −本来親が果たすべき役割の優先順位を下げてまで− しかたなくカバーしているのではないか。
成人の日に思う。
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