朝刊一面に目を通す。 新潟での、母子三人の救出・生存を巡る報道。 イラクで人質となった男性の救出を巡る報道。
誰もが感じるように、人質の記事は扱いが小さい。 前回の人質事件とは、比べようもないほど小さい。 あの時は昭和天皇崩御並みの文字の大きさだった。
土砂に埋まる事件が二つ、三つと増えれば、 おそらくこちらも扱いは小さくなる。
またそうでなくても、もしこれが大きな地震に伴う土砂災害でなければ、 同じように取り扱われたかどうか(救出方法も含めて)は、わからない。
報道というのはキャパがあり、情報は相対的な重みを持つ。
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人の命は平等に尊重されなければならないが、 人の生き死にへ共感することは、そんなに簡単なことではない。 それは精神衛生上のプロテクションでもあるから、悪いことではない。
全ての生死に対して、今回の土砂で埋まった親子のように共感していたら、 とてもではないが、自分自身の生を維持することはできない。 このことは、ホスピスケアワーカーが職務上大変なストレスをもつことでもわかる。
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しかし、共感するかしないかを決めるのは、常に自分自身でありたい。 報道の時間や新聞記事の大きさではなく。
また、それがたとえ、自分には縁がなく共感できない生死であっても、 そこには必ず、一つのかけがえのない物語があるのだ、ということを忘れずにいたい。
人は皆、生まれてきて、そして皆いずれ死ぬ。 土砂で埋まらなくても、いつか死ぬ。運が悪ければ殺されたりもする。 人間とはそういう「生き物」なのだ。
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