浅間日記

2004年10月28日(木) 生死への共感

朝刊一面に目を通す。
新潟での、母子三人の救出・生存を巡る報道。
イラクで人質となった男性の救出を巡る報道。

誰もが感じるように、人質の記事は扱いが小さい。
前回の人質事件とは、比べようもないほど小さい。
あの時は昭和天皇崩御並みの文字の大きさだった。

土砂に埋まる事件が二つ、三つと増えれば、
おそらくこちらも扱いは小さくなる。

またそうでなくても、もしこれが大きな地震に伴う土砂災害でなければ、
同じように取り扱われたかどうか(救出方法も含めて)は、わからない。

報道というのはキャパがあり、情報は相対的な重みを持つ。



人の命は平等に尊重されなければならないが、
人の生き死にへ共感することは、そんなに簡単なことではない。
それは精神衛生上のプロテクションでもあるから、悪いことではない。

全ての生死に対して、今回の土砂で埋まった親子のように共感していたら、
とてもではないが、自分自身の生を維持することはできない。
このことは、ホスピスケアワーカーが職務上大変なストレスをもつことでもわかる。



しかし、共感するかしないかを決めるのは、常に自分自身でありたい。
報道の時間や新聞記事の大きさではなく。

また、それがたとえ、自分には縁がなく共感できない生死であっても、
そこには必ず、一つのかけがえのない物語があるのだ、ということを忘れずにいたい。

人は皆、生まれてきて、そして皆いずれ死ぬ。
土砂で埋まらなくても、いつか死ぬ。運が悪ければ殺されたりもする。
人間とはそういう「生き物」なのだ。


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