万物全てに個体差があるように、人にも個体差がある。 あ、石ころには個体差がないとか思ってないですよね。 石ころにだって個体差はありますよ。 故に石と違って脳あるモノの個体差はそれはもう複雑怪奇なほどありましょう。
なので「こうすればこうなる」的な話は万人共通ではないことも理解していただけるでしょうが、それを踏まえて次に参りましょう。
たまに母に対する私の対応に、親戚一同並びに他人様から感心されることがあります。
特に皆さん実母がオトボケ始めると、認めたくないとか悲しいといった気持ちが先にくるのか(ちゃんとしてる人だったのに)とか(昔はしっかりしてたのに)という前提の元に「どうしちゃったの?」と嘆いたり「何度言えばわかるの?」とついつい叱り口調になるそうです。
いや、うちの母別に元からしっかりしてないんで気にならないだけかもしらんけどwww
あと私、優しいんじゃなくて考察好きなんですよ。 子供の頃から月だの太陽だの星だの水だの川だの魚だの雑草だの石ころだの虫だの工事現場だの大人の会話だのと、気になったものはひたすら観察して考察するのが日常でした。何故そうあるのかを観察しまくり考察するだけして図書館いって文献複数探して照らし合わせてそこからまた(この本に書いてあることもわかるけど、本当にそれが真実?もしかしたらこうかもしれないんじゃない?)と執拗に考えるんですよ。これが面白い。そして飽きない。
なのでオトボケ母に対する私の対応は、感情より先に観察と考察があり、対処方法を考え実験→観察→考察→対処の繰り返しをしてるだけなんですね。
実験は失敗もありますよ。シャワー騒動のときなんて特にそうでした。相手がオトボケ現在進行形の老人なんでそりゃ当然です。こうすればこうなるなんて答えなんてない。でもあれこれ考えて工夫していく。 失敗してもなんで失敗に至ったかとか、ではどうすれば良いかみたいなことを考えるのがどうにも私の「性分」なんですよ。これは優しさでもなんでもない。
なのでこれが「正しい」ことでもなければ「良い」ことでもありません。
これはただの個体差です。 それだけのこと。
私は母の認知症を「悲しい」とか「寂しい」と感じる人のほうが人間味あふれる優しい人だと思ってます。 私は悲しくも寂しくもないし哀れみもなければ同情もない。
母がオトボケ後期高齢者になったのも個体差。←私のせいじゃない。 亡夫が酒飲み続けたのも個体差。←私のせいじゃない。 私が面倒見が良いのも個体差。←やりたいからやってるだけ。
感心していただけるようなたいそうなもんじゃありません。 観察考察実験好きだった子供の頃から何も変わらないと思ってます。
今は母の老いを観察考察からの各種対処実験中ってとこです。 経過報告としては笑いを伴う他愛ない会話と腸活とMCTオイルと猫は認知症によさげかなw
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