Dynamite徒然草
Dynamite徒然草

2008年10月30日(木) 人は人、自分は自分。

変えられる事は
変える努力をしましょう
変えられない事は
そのまま受け入れましょう
起きてしまった事を嘆いているよりも
これから出来る事をみんなで一緒に考えましょう


テレフォン人生相談カリスマパーソナリティであるところの
心理学者・加藤諦三大先生のオープニング名台詞であります


ものすごくあいしんくそー。


子供の頃から私はことあるごとに
自然とこう考えていました

起きてしまった事を嘆くより
これからできることをとっとと実行しよう



こう考えていた
というよりも
こう考えざるをえない環境だったこともありますが


.....


私が子供の頃
よく母から言われた言葉


「ヨソはヨソ、ウチはウチ」


早い話が
よそのお宅では派手な色つきの駄菓子が許されていても
よその子供は小遣いがうちより多くても
よその子供は親が同伴でない子供だけでの遠出が許されても
我が家でそれらは決して許されない
「他家は他家、我が家は我が家」
という意味であります


高校生になる頃には
もうこの言葉も母の口から出なくなりました

我が家の財政もこの頃から激しくひっ迫し始め
自由を得たかわりに自分で何事もしなければならなくなったあげく
親からもらう最低限の交通費と小遣いで
全てやりくりしていかねばならなくなり

クラスの友達やクラブの仲間が豪勢に買い食いしても
学校帰りに喫茶店やファーストフード店に寄っても
化粧品やおしゃれな小物や洋服を買いに行く話をしていても
興味がないというポーカーフェイスでもって
クールに部活にいそしんでいたわけですが

なんていうか
正直他の友達の財布の中の恵まれっぷりは
「いいなあ」と思っていましたよ
口には絶対出しませんでしたけどね
もちろん態度にも

どちらかというと必要以上にうらやましく思った気持ちもなければ
妬ましく思うこともありませんでした


私の中では

「人は人、自分は自分」

自然とこういう考えでスルーしていたんです
というよりも
生きる知恵っていうほうが近いかな


しかしながら
洋服とか化粧品とか流行のグッズや芸能人と同じヘアスタイルにした話や
休みの日にはクラブさぼってどこどこに遊びに行ったとか
どこどこで知り合った男と付き合うことになったとか
そんなクラスの友達の話を聞いてると

根本的なところで何か
自分とは違う感覚があったのも
彼女たちをうらやましいと感じずに済んだ理由のひとつかもであります


私は自分のまったくリッチでない境遇を
クールなスポ根女子高生の道を選択することで
遊びに金をかけずオシャレする必要のない
学校にも親にも迷惑かけない世界に活路を見出したわけです

ウチが裕福でないのは仕方がないし
進学が決まるまでは学校の規則でバイトもできない
今は部活をがんばって
三年生の冬になったら学校の許可が下りるのでバイトをしよう
欲しいものややりたいことはバイトできるようになるまで我慢しよう
今はまだそういう時期じゃない



ただただ
今、自分では変えられない状況を受け入れ
時として卑屈になりそうな自分をクラブ活動に打ち込むことで
自分の中の「何か」を保ってきたんですね

何か

なんだろう

プライド
自信
存在意義
みたいなもの、かな


それから進学した後も
結局我が家の経済事情は激しく悪化の一途をたどりどん底に陥り

学校が終わって深夜までバイトをしても
足りない学費
足りない時間

ついに
私は自分が家計の足を引っ張るのではなく
助けていく立場になるべきだと判断し
働きに出る選択をしたんですが

そりゃあそのときは苦悶しましたよ
友人がなに不自由なく通える学校に私は通えない
勉強したいのに
得たい資格があるのにチャレンジできない現実

バイトがんばれば学費ぐらいなんとかなるなんて
甘い考えしてた自分のガキさ加減に落ち込みました
進学ははじめっから我が家の経済状況では
借金増やさずして選択できる道ではなかったのだと気づかされたとき
親を恨むとか
自分ちの貧乏さ加減を嘆くというより
自分の選択ミスを申し訳なく思ったもんです

進学したいと無理言って借金までさせて学費ださせて申し訳なかったなと
つくづく反省しました


でも
今の状況を悔いても嘆いても反省しても
じっとしてたら何も変わらない
今できることをとっととしなければ
私の人生流されっぱなしになりますからして

なのでとにかく行動あるのみ
会社に自分を売り込みまくって働き始めたわけです
経験のまったくない仕事でも堂々と言いましたよ
「誰よりも努力します。一ヶ月で経験者より以上になれるので見ていてください」
若気の至りというより
がむしゃらというか
怖いもの知らずというか...

ある考えが頭に浮かんでからは職種を限定しはじめました
ワープロやパソコンや電算機をいじる仕事です
まだ時代は昭和でしたが
これから絶対これらを普通にいじる時代がくると思っていたので
覚えていて絶対に損はないと
それが働きながら学べるなんて一石二鳥じゃないかと
とにかくがむしゃらに取り組みました

休憩時間も返上で機械をいじるので
同期から「がんばりすぎー」とからかわれることもありましたが
人は人、自分は自分
人の分まで仕事をしました
時代はちょうど昭和60年代バブル景気真っ只中
時給の高い仕事も給料のいい仕事もいくらでもありました
なので完璧に覚えたら次のステップに移ると決めて
次に
次に
次に

交通費を浮かせるために自転車を買い
やがてバイトをかけもつようになった頃にはスクーターを買って通勤の時短をはかり
平日の勤めとは別に日曜日は他のバイトをし
ワープロを買ったり
勉強したかった関連の本を毎月数万円分は買いあさって読みまくり
その内容をレポートにしてワープロにうちこんだり
...誰に提出するあてもないのにw

ひた走ってあがいて学んでぶつかって乗り越えて
頑なに自分の目指す何かに向かって爆走していた3年間

気がつけば世の中が平成に変わったばかりのある日
つぶれかけた地元ローカル新聞の社員募集広告を発見

小論文の試験があるとありましたが
駄目でもともと
受けにいったのです

つぶれかけのくせして結構な人数がきていました

原稿用紙がわたされ
テーマを示され

これまで自分が稼いだ金で読んできた本の山と
誰にみせるでも提出するでもない膨大な文章の入ったフロッピーの山を思い出し

テーマについて自分が自分なりに思う小論文を書いたところ

四月から来るように連絡があり


・・・またある意味ここからこれまでと違った新たな努力と屈辱とコンチクショーの日々が始まるのですがw


しかし私の人生の大きすぎる転機となったのは言うまでもありません


今でも思い出すのは
自転車で夜道を帰っていると
大雨がふりだして

私はずぶぬれになってしまい
それでもまだ家まで20分

車がざーっと走っていきすぎるのをながめ
パンツまでずぶぬれの自分がおかくしなってひとり
ゲラゲラ笑って言いました

「人は人、自分は自分!」


だから今貧しい人
辛い人
寂しい人

人のせいにしないで
社会のせいにも親のせいにも誰のせいにもしないで
寂しさしかないのならそれを自分のいちばんの親友にして
嘆くよりもまず
歩いて欲しい

あなたならできる
きっとできる
かならずできる

そこから動き出しさえすれば。


....今でこそドSと言われる四十路ですが青春時代は苦悶の日々だったのでありますw


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書いてる人 : Dynamiteおかん