私は学生の頃 国語や古文、社会だのの類では確実に良い点を稼げましたが 英語、数学は調子よくて平均ギリギリ たいていは平均を下回り 毎度毎度、先生に呆れられていたものでした。
私としては ハナっからこの不得意な2科目を捨て 点数がとれるもので確実に高得点を出すことで 平均を引き上げようという 愚かしい考えでもって学生時代を切り抜けてきたわけであります。
高校時代のある日 クラブ指導の先生にこう言われました。
『好き嫌いは極力なくすよう努力をしろ。 食い物、教科も同じことだ。 嫌いなものも我慢して食う努力、苦手な教科も捨てずに頑張る努力をしろ。 これが人の好き嫌いをなくすことにもつながる。 好き嫌いをなくす訓練をする場所が学校だ。 学生時代に好き嫌いをなくす努力をしておけば、社会人になって必ず役立つ』
・・・・。
私は当時、この意味がわかりませんでした。 好き嫌いをなくす努力をすることが 一体社会人になって何の役に立つというんだろう、と。
あれから 随分時が経ち ようやく先生の言葉の意味が おぼろげながら わかりました。
学生時代に好き嫌いをなくす努力をしなければならない というのはつまり
「将来仕事、職場、環境、対人関係、人生に柔軟に前向きに対応していく努力をするための訓練なんだぞ」
と 先生が言わんとする この意味に 何年かかって気付いてるんでしょうか、私は。
クラブの練習中にのっそり現れ 態度が悪いだの気合いが入っていないだの 指導がなってないだの何を学んでいるのかだのといっては集合させ 私たちのお尻を杖でパッシンパッシン叩いていた先生でした。 痛かったなあ...
先生 私の解釈間違っていたら申し訳有りません。 だとしたら天国で 「違うっていいよろーが!」と 杖を振り回しているところでしょうか。
私が旦那と結婚した翌年 胃ガンで53歳でお亡くなりになった先生。
先生 私の息子も小学生になりました。
具体的に成績が目に見えるようになってきたり 運動会やマラソン大会で順位がでるようになったりして 数字の上で他の子と比較できることが容易になってきたわけですが
たしかに順位も大事だけど 人には得意不得意、好き嫌いがあって だけど、その好き嫌いをなくす努力をしているんだったら それは褒めてあげなきゃだよなと ふと 思ったりなんかした私でした。
一位になれた課目があって 苦手だけど結構がんばった課目があって
学生時代の私のように 投げていないならすごいこと。 捨てていないなら 頑張ってるなら 楽しむ努力をしているのなら 認めて褒めてあげようと
あらためて思いました。
...先生頷いてくれるかなあ?
完璧求めるのが学生の本分じゃないですよね。 好き嫌い なくす努力が学生の本分、と。
...私は学生のときにそのことに気付かなかったので 社会人になっても好き嫌いが治らず、そのぶん山あり谷あり泥沼ありの人生でした。 先生がお亡くなりになって 遅まきながらこのことに気付き 今、一進一退なれどなんとか努力しているところです。
先生って すんごい仕事ですよね。
でも いま、ほんとに「先生」って人は どれだけ存在するんでしょうか。
威厳をもって生徒に対峙してくだるような そんな先生は いま、どれほど存在しているのでしょうか...
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