2001年02月21日(水) |
続。(記:2007.11) |
父が倒れてからの私たちは、連日のお見舞いはもちろん、父の会社の清算や実家の転居などに日々忙しく動き回っていた。
会社は今後父が完全復帰する見通しもたたない状態では経営の維持などどう考えても不可能なため清算の決断をし、従業員さんや取引先にも事情を説明して私が事務処理に奔走。
また、並行して父がリハビリ病院を退院してからのことを話し合った。 当時の実家は門の手前に段差があり、玄関までも砂利がしいてある上に家の中のどこもかしこもバリアフリーに非ず。兄のマンションはというと、駐車場が立体のため階段を使用しなければならず、家の中は多少バリアフリーでも兄家族4人(当時)の4LDKでは、父母が同居するにはあまりに狭すぎる間取り。 それでも兄としては自分が面倒をみると意固地に言っていたが、現実問題として甚だ厳しいのは目に見えていた。
そこで登場したのが救世主・私の夫。同じマンションの同じフロアに二つ所有していた部屋のひとつを提供してくれることになった。実家は処分し、母だけとりあえず先に引っ越しをして、父の退院準備をすることになる。
父が転院して瞬く間に半年が過ぎようとしていた。 リハビリ病院からの退院の日が近づくにつれて、今度は様々な手続きが待っていた。
介護保険利用の手続き、障害者手帳の申請、玄関、トイレ、風呂のバリアフリー工事。
退院前に病院側が居住先のチェックをして細かく指導するのだが、それに従って業者に工事を依頼しなければならない。
・玄関はこの位置のこの高さにどれぐらいの長さの手すりをつける。(右手しか使えない父が、出入りしたり靴の着脱をするのに必要な手すりの位置や高さがあるらしい) ・玄関には膝が直角になる程度の高さの安定した椅子かベンチを設置する。 ・トイレは入るときと出るときに必要な手すりをつける。 ・風呂は高さのあるスノコをオーダーして入口との段差をなくす。 ・風呂には背もたれのある椅子を設置。 ・浴室出入り口に手すり設置。 ・浴槽の横にもL字形の手すりを設置。 ・浴槽の中にしずめて使用する椅子を設置等々。
とにかく父を迎えるには様々な準備が必要になった。 退院後もリハビリを続ける必要がある父の為、本人の希望にそったリハビリ施設を探すがなかなかない。老人用の通所リハのようなものばかりで、機能回復訓練をメインにしたような施設がないのだ。
当時まだ65歳の父は、老化で歩行がおぼつかなくなったようなお爺ちゃんお婆ちゃんと同じ扱いをされるのは不本意というわけだ。 しかし当時、介護保険制度も始まったばかりで、介護保険で利用できるリハビリ施設といえば、痴呆気味のお爺ちゃんお婆ちゃんが利用するような内容のものが多く、通っているのも80歳代の方ばかりだったので、たしかにそれはないだろうと私も思ったものだった。
とにかくいろんな病院をあたってもらった結果 迎えの車は出さない、利用は1時間ということでリハビリが受けられる総合病院に通うことになった。 並行して障害者スポーツセンターにも通って水中歩行訓練を行ったりもした。
当初、通うのには私が車で送り迎えをしていたのだが、私も子供を習い事などに頻繁に通わせていたので時間が合わないこともある。 そんなとき当時は「介護タクシー」が利用できたので便利だった。しかし、それが一年もたたずに利用ができなくなる。(介護保険制度迷走のはじまり)玄関まで迎えにきてくれて、目的地につくまでずっと付き添ってくれるありがたいタクシーだったのに、運転できない家族のいるところはどうするんだ?と憤った最初の出来事だった。
そのうち父もプールで眼病をもらってしまったのを機にプールから足が遠のき、一週間に数度だけのリハビリ以外はなかなか自分から外に出ることがなくなってしまいつつあった。
何か良い手だてはないものかと思ったある日、海浜公園に父と母と私と息子で出かけた折、入り口で係りの人に「セニアカーを利用してみませんか?」と声をかけられた。 セニアカーとは何ぞやと見てみると、車椅子とは違い、しっかりした椅子のついた電気で動く四輪スクーターのようなもの。スピードは歩行速度ほどしか出ず、右手ひとつだけでも操作は可能だった。
試しに乗ってみたら?とすすめ、父も恐る恐る乗車してみたが、慣れてくれば乗り心地もよいらしく満足げ。というか歩くの大嫌いな母のほうが興味津々で父のあとをついてまわっている。
これはいいなあーと父が言うので、これが介護保険で借りられないだろうかという考えが私に浮かぶ。早速問い合わせてみると、可能だと返事をもらった。
介護用品のレンタルは可動式ベッドのみの利用だったので点数も余っており、早速海浜公園で乗ったのと同じようなタイプの大きめの電動セニアカーを借りる手続きをした。
始めは父もいきなりこれに乗って町をうろつくのには恐怖感があったらしく、しばらくは地図帳をながめて道を確認する日々が続いたが、私が何度も車でゆっくり走りながら「病院に行くにはこの道が安全よ」とか「公園はここをまっすぐいったらあるから」などと、道案内をし続け、本人も頭の中でシュミレーションができたらしく、天気の良いある日、公園に行ってきてみると出かけていったのが始まりだった。
出かけてみれば公園には意外とリハビリ目的で歩いている人も何人かいたり、緑が多くて良い気分転換になったり、ベンチに座っていると話しかけてくるリハビリ仲間や年寄り仲間もできて公園に行くのを楽しみにするようになった。
やがて病院へも自分でセニアカーを利用して行くようになり、行動範囲が広がるにつれて、ふさぎ込んだりイライラしていた父も明るさを取り戻すことができた。
リハビリ病院に入院して六ヶ月間もの間、厳しいリハビリを毎日頑張り、日常生活のおおよそは自分で工夫してできるようになったが、それでも左腕はくの字に固くまがったままで、左足は高くあげることができない。
今でも杖をついてゆっくり歩行できるが横断歩道は間に合わない。 風呂にはなんとか自分で入れるが背中はうまく洗えない。
退院して間もない頃は、母もつきっきりで見守っていた。
家の中ばかりにいたら外出するのが恐くなるかもしれないと思い、私も極力外に連れ出した。 人混みにも連れていった。 長い階段のある公園にも連れていった。
はじめは人前でこんな体になった自分をさらして歩くのは嫌だと思っていた父も、孫と一緒ならばとしぶしぶついてきて、到着すれば車から降りてきて、自分で歩けるところや、手すりがあるところなら多少の段差も頑張って歩いていた。
なんていうか やっぱり外にでなきゃだめなんだと私は思った。
障害者だろうが子供だろうが年寄りだろうが 何があろうが家の中ばかりいちゃだめなんだと思った。
人は外を歩くものなんだよなと 父を見てるとつくづくそう思う。
外を歩かなければ危険な目にもあわないし嫌な思いもしないだろうけど 外を歩かなければ人生は一歩もすすめない。
父が倒れてそろそろ7年になろうとしている。 8歳の息子はお爺ちゃんが歩いたり走ったりできた頃があったなんて知らないので、赤ちゃんだった頃の自分を抱いて笑っている爺ちゃんの写真を見るたびに驚いたり関心したりする。
介護保険のことにもすっかり詳しくなってしまった私。 いろんなことがあったけど 夫の助けもあってほんとうに私はいろんなことがクリアできたように思う。
ここに引っ越したときは坂道があるのでどうかなと思ったけれど 父もすっかりセニアカーでの公園通いを楽しみにしたり、リハビリは病院の車が迎えに来てくれたり(これはありがたいことこの上ない!)、介護保険制度は迷走しつつも、なんとかうまく利用して快適に過ごせるようになったし、おまけに今は小さな町なので役場との距離がすごく近く感じられてありがたいのも喜び。
ふと振り返ってみて ああ、あの頃は大変だったよなーと思える今が一番幸せなのかもしれない。
少なくとも今は あの頃の私よりはるかに知識も経験も豊富だから、これから何があっても大丈夫。 何より頼りになる夫だっているし!!!
父は今日もセニアカーに乗って公園にお出かけ。 友達と話して歩行訓練して帰ってくる。 明日は病院のリハビリ。 送迎の人が元気な声で迎えに来てくれる。
64歳で倒れた父、現在71歳。 相変わらず左半身麻痺だがいたって健康、いたって口達者。相変わらず酒好き。 「酒は百薬の長」が口癖。
いい時代だ。 ねえ。
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