Dynamite徒然草
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2001年02月20日(火) 覚え書き的実父闘病記。(記:2007.11)

2001年2月19日、午前6時半
家の電話が鳴り響く。

母の声
「パパが××病院に運ばれたから。意識がないみたい」

当時父は五人の従業員を雇って仕出し業を営む、小さな会社の代表であり料理長、64歳。
この日もいつも通り午前五時過ぎに起床し、会社へと自家用車で向かった。

自宅から会社までは車で20分。
父はこの車を運転している途中、まず左手に異変を感じたという。
ハンドルを握っている左手が、突然力を失ったように下に落ちたそうだ。
何か変だと思いつつも、このときはまだ意識障害はなく
右手だけで運転を続け、会社の駐車場に車を止めた。

しかし、降りるときには左足も動かなくなっていることに気付き、体を引きずるようにして自力で車を降り、事務所ドアの鍵をあけて自分の机の場所までたどりつくと、まだ自宅にいるはずの母に電話をかけた。

電話に出た母は、父の口調が既に「ろれつがまわっていない」状態だったことに驚き、すぐに救急車を呼ぶように言って電話を切り、身支度をしてタクシーを呼んだ。

だが、母へ電話をかけた父は、そのまま意識を失って机に突っ伏してしまっていた。


それからしばらくして、出入りの業者が品物を持って事務所を訪れた。
机に突っ伏している父に驚き、声をかけるが明らかに様子がおかしいと感じ、事務所の電話で119番にかけて救急車を呼んでくれた。

ほどなく救急車が到着し、ほとんど意識のない状態だった父は最寄りの総合病院に搬送される。
父が運ばれた直後にタクシーで会社に到着した母は、救急車を呼んでくれた業者の方から病院を聞き、事務所から私に電話してきたのだった。


とるものもとりあえず、私と夫と子供で慌てて病院にかけつけると、父は処置室のようなところにいた。声をかけるとわずかに目をあけ「左手がうごかん」と言ったように聞こえた。何かずっと話しているのだが、よく聞こえない。既に麻痺が進んで呂律(ろれつ)がまわっていないのだ。

脳梗塞か、脳内出血だと感じた。


しばらくして検査結果がでた。
右頭蓋内で脳血管が破れて出血をおこしているという。
担当医から、止血剤などの薬を使用して様子を見ると説明された。

正直、これを聞いてこの時は不安になった。
冷静なつもりだったが、のみ込むのに時間がかかったのだ。
すぐに緊急手術などしてドラマチックに助けてはくれないのだろうか。
そういう考えが脳裏をめぐる。

医師が話を続けていた。

「お父さんは血圧が高かったようですが、これまで降圧剤などは飲まれていなかったのですか?」

・・・知らなかった。降圧剤は服用してはいないはず。

毎日早朝から夕方まで多忙で、人にまかせることができず
とにかく1日中料理のことと会社のことを考えているような父だった。
楽しみは晩酌と旨い肴と時代劇と相撲。
塩分は控えたほうがいいと母に窘められても
味も素っ気もない料理なんか食えるかと、とりつくしまもなかった。

後に母に聞くと
血圧が高めだということは気付いていたようだったが
俺は健康だけが取り柄、酒は百薬の長とうそぶいて病院には行かなかったそうだ。

もっと私が注意しておくべきだったと後悔の念がよぎる。


医師の説明が続く。

脳内出血の場合、まず出血を止めるのが先だそうだ。
そして父は血圧が高かったので、血圧を下げる薬もあわせて投与されることになる。

よくよく考えれば当然な話である。
脳圧が高い状態でいきなり開頭手術というほうがとんでもないことこの上ない。

父はICUに運ばれた。
完全に意識は無くなっていた。

とにかくここは医師を信頼して任せるしか他無く、それよりも私は会社にいる母に報告しなければならない上に、会社ではこの日に受注が入っている仕出しの用意に、司令塔を失った従業員一同がてんてこ舞いしているわけで。

その日から私は息子を兄貴の家に預け、母と兄と私は会社に入って受注を受けている近日分の可能な仕事を従業員さんたちとこなしていきつつ、不可能と思われる受注をキャンセルする電話を相手先に入れ、次から次に入ってくる注文をことごとく断り、夜に父を見舞いにいくという慌ただしい日々を過ごした。


父が倒れた翌々日、医師から兄の携帯に電話が入る。
手術を考えているのでその説明をしたいとのこと。

仕事を終えて夜、全員で病院へ向かう。
現状は
・父の脳内出血が止血剤を使用しても止まらない。
・CTをとったところ血腫が増大して脳を圧迫している。
・意識の回復がほとんどみられない。
・点滴のみでの治療を続けて意識の回復が遅れると、リハビリに入る時期が遅れる。

そのため脳を圧迫している大きくなってしまった血腫を取り除き、脳圧を下げる必要があるわけだが、その手術方法としては

・頭蓋骨を大きく開いて行う開頭術
・頭蓋に小さな穴をあけて行う手術(定位脳的血腫除去術)
があり(平成13年当時)、患者の負担としては後者のほうが負担も軽く回復も早くて済むがリスクが大きい(血栓除去の確実性に欠ける、突発的なトラブルに対処できない)という説明を受けた。

当然の如く開頭術を希望することにした。
もちろんこれがノーリスクというわけではないのは百も承知だが、一か八かなら確実に除去できる方法が良いと考えたからだ。

翌22日午後より手術が行われることになった。

術名:開頭血腫除去術

正午すぎに手術室に入り、終わったのは夕刻。

術後、取り出した血腫を見せてもらった。
私の拳くらいあった。


その後、意識が徐々に戻ったが、本人は現状が理解できない様子。
後日、この頃の記憶を聞いたがほとんど残っておらず
「夢の中にいたようなかんじ」と言った。


その後は少しずつベッドの上でのリハビリも開始されたが、本人は意識がハッキリしてくるにつれて完全に左半身が麻痺した現実を知り、また寝たきり状態のため紙おむつを使用していることなども恥ずかしかった模様。これぐらい自分でできるだろうと無理に動き、ベッドから転落して看護婦さんを驚かせたこともあった様子。

入院から1ヶ月が過ぎ、傷が癒えてくるにつれてこの病院でのリハビリも本格的になってきた頃、担当医からリハビリ専門病院への転院を進められる。

理由としては
・総合病院のリハビリだけでは今後の生活に必要なだけの訓練が受けられないこと
・専門病院では細かなケアが受けられ、本人の状態や今後の生活の目標などに応じた訓練をしてもらえること

等の説明を受けた。

しかし、リハビリ専門の大きな病院は近くになく
西区のはずれか、柳川市までいかないとなかった(当時)


距離的にも柳川まで私たちが通うのは大変なため、西区のリハビリ病院への転院手続きをお願いすることに。

お世話になった病院を退院する頃には、父も口先だけは軽口をたたけるまでに回復していたが、左半身の機能は何一つ回復しておらず、自力でベッドから起きあがることすら不可能だった。


そして転院の日を迎えた3月27日。
リハビリ専門病院から迎えの車が入院先の病院にやってきた。車椅子ごとリフトで乗り込める車。
ほんの1ヶ月半前までは、早朝の寒さも吹き飛ばす元気さで毎日仕事に励んでいた父。実家で家族全員揃って孫に囲まれ、賑やかな正月を迎えて酒を楽しんでいた父が、今はひとりで起きあがることもできず、看護婦さんたちに身支度を整えてもらい、抱えられて車椅子に乗り移る。
何一つ自分でできなくなった体をいたわり続け、親身になってサポートしてくれた看護婦さんたちに何度も御礼をいい続けていた。

「リハビリ頑張ってね!きっと良くなるから!」
看護婦さんたちが何度も繰り返した。

父は何度も頷いていたが
正直私は
今後、父が自力で何かできるようなるとは
この時点では想像してもみなかった。


・・・・。


車で走ること40分。
到着したリハビリ病院は綺麗で明るい建物で、部屋も広々としていた。
廊下も幅があって手すりが両サイドに全てついている。そこを車椅子の人や杖をついた人、歩行器(両腕でもたれて押して歩くようなもの)などで歩く人、手すりをつかってゆっくりと歩く人たちが大勢いた。

年齢も様々だった。


はっきりいって
これまで私がまったく知らない世界。


リハビリルームを見学したとき
私の脳裏に入院先の病院の看護婦さんが何度も繰り返した言葉が甦る。

「リハビリ頑張ってね!きっと良くなるから!」

私はその意味が
ここへ来て初めてわかったような気がした。

希望が見えた感じがしてありがたかった。


この転院によって父は、みるみるうちに日常生活のおおよそのことが右手だけでできるようになり、杖1本で歩けるまでに回復していくことになる。

※続く


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書いてる人 : Dynamiteおかん